ジェラシーにご用心
「えーと、サラダとシチューと――そうだ、パンも焼こうかなあ」
スーパーでショッピングカートを押しながらメニューを悩んでいるのは優。明日の土曜日、一平が家に飲みに来るというので、夕食とおつまみの材料を買い出しに来たのだ。
この春、一平が就職した。今は5月、つまりまだ就職してほんの1ヶ月ほどしか経っていないので、一平は仕事を覚えるのに一生懸命なのだ。慣れない環境に四苦八苦しながら頑張っているようで、おまけに就職直前に古川家を出て一人暮らしを始めてしまったものだから、土日は会ってもちょっと疲れているように見える。優も週末は手伝いに行ったりしているけれど、成り立てほやほやの婚約者くんはやっぱり疲れが隠せない。
なのでこの週末は一平を自宅に呼ぶことにした。総一郎と優とでのんびり飲んで食べて、鋭気を養っていただこうという寸法だ。
「そうだ。蘇芳さんと夏世さんも呼ぼうかな。大勢の方が楽しいよね」
思いついてすぐにスマホを出し、店のはじっこの邪魔にならないところでささっと夏世にメッセージをしたためる。それから野菜コーナーでサラダ用の野菜をうきうきと物色する。今回は春らしいグリーンサラダにしよう。サニーレタスにブロッコリー、豆類、トマト、それにゆで卵もトッピングして、ドレッシングはさっぱりとしたフレンチにする予定。
「あ、グレープフルーツ入れるのも美味しいよなあ。どうしよう」
果物コーナーでピラミッド状に山積みされたグレープフルーツを前にしばらく考え込む。
結局、使わなかったらデザートに出そうと決めて、おいしそうなところを3つほどカートに入れた。
続く鮮魚コーナーに向かっているとメッセージの着信音がした。
<行く行く! 子供たちと蘇芳と駿河さんと5人で伺います~>
超特急で返ってきた夏世からの返信だった。こういう場面では、返事が早かったのはありがたい。人数分の材料をささっと頭の中で計算して、サラダの材料はこれで充分と頷いた。蘇芳と夏世の子供ありすと莉貴はまだ2歳と0歳。食事の人数には含めなくていいだろう。
山盛りの買い物をちょっと無理矢理自転車に積み込む。前後のかごにぎちぎちに詰められたそれを見て、車で来ればよかったとちょっと後悔する。
優は去年の誕生日に免許をとったばかりだ。二十歳になったお祝いと免許を取れたお祝いに、と総一郎が買ってくれたかわいらしい黄色の軽乗用車にはだいぶ慣れてきた。遠出するのは怖いけど、こうやって近場のスーパーに買い物に来るくらいならひとりで大丈夫なのだ。今日行ったスーパーが駐車場のない店だったので自転車で出てきたのだが、こんなに買い物をするなら少し遠出して大きめのショッピングセンターに行けばよかったかな、とも思う。
それでも自転車で走り出すと、春真っ盛りの青空の下、耳元の髪をそよがせる風は心地いい。せっかくなのでちょっと足を伸ばして、駅向こうの大きな公園の藤を見ていこうと思いつき、優は思い切りペダルをこいだ。
時間はちょうど昼休み時、公園のベンチはのんびりと昼食をとる親子連れやサラリーマンで一杯だ。優は自転車を降りて押しながら、公園の真ん中にある藤棚を目指して歩いた。
やがて到着した目的の藤棚は、恐ろしく見事だ。文字通りの藤色、繊細で美しい蔓や重そうに垂れ下がる花房と葉の緑色のコントラストに見とれ、優は自転車を止めてスマホで写真を撮った。それから自転車に乗せた袋の中身を思い出し、生ものがあるんだから長居するわけにはいかないと家に帰ることにした。
ガタンと自転車のスタンドを外したが、その勢いでかごの一番上に乗っていたグレープフルーツがひとつ、ころんと転がり落ちてしまった。あわてて再び自転車をとめ、落っこちたグレープフルーツを拾い上げる。
その時。
(あれ? 一平さん?)
藤棚の向こうに見える噴水の脇を一組の男女が歩いているのが見えた。男性のほうは、見間違えるわけもない、優の婚約者。まだまだ成り立てほやほやの社会人一年生、社会人って大変だけど頑張るだけの価値はあるよと笑っていた。今はまさに就業時間中で仕事をしているはず。
その一平が、美人に抱きつかれている。
「も、マジ勘弁してくださいよ、花村さん」
直属の上司の手前、心底迷惑そうな顔をするわけにもいかず複雑な表情の一平を見て、肝心の上司・花村美保はにやにや笑いを止めることができなかった。このからかい甲斐のある後輩をいじるのは、美保の密かな楽しみだ。
「いやいや、こんな美人に抱きつかれて渋るか~? 麻生くん、あんた、ひょっとして男性の方に興味があるタイプ?」
「いーかげんにしてくださいよ! 俺、恋愛対象は女の子ですから!」
「本当かあ~? 私生活は謎だらけ、合コンにも全然興味示さないっていうじゃん。だからそういう噂になってるよ?」
「げ。マジっすか?」
婚約者がいるんだから行くわけないじゃん、と内心毒づきながらも、あられもない疑惑を放置するわけにも行かず一平は考え込んでしまった。
会社の人間に婚約者の存在を黙っているのは、別に変な理由じゃない。ただ単に、「会わせろ」と言われるのがいやなのだ。優を人に見せたくない。そんな独占欲が理由だ。もちろん、いろいろからかわれるのもいやなのだが。
「そんなに真剣に悩むなよ~、彼女のひとりも連れてくればそんな疑惑、払拭できるじゃない」
「――それが嫌なんですよ」
「え?」
美保がニヤリと笑って、一平はハッと手で口を押さえた。自分の失言に気がついたのだ。
「それが嫌」ということは、彼女がいるから、と白状したようなものじゃないか。
けれどもはや後の祭り、「へえー、ほおー、ふうーん」と意味ありげに自分を見上げてくる美保に思わず後ずさってしまった。
「で? 彼女ってどんな子? ちの会社の子?」
「――違いますよ」
一平は諦めて白旗をあげた。
「まだ大学生なんです」
「へえー。聞いてやるから惚気ろ、若者よ」
「いやですよ」
「いいじゃん、減るもんじゃなし」
「減ります。何かが」
「ははん。愛しちゃってんのねー。付き合いは長いの?」
「三年……くらい? あーもう、やめましょうよ、この話題!」
「えー、だってFCの子達に聞いてくるように仰せつかったんだもん」
ぴた、と一平の足が止まる。何やら不穏な単語を聞いた気がする。
「――FC ?」
「そうだよー、麻生一平ファンクラブ!」
「はあ?」
「知らなかった? 結構いるよ」
知らなかった。全くもって、これっぽっちも知らなかった。なんだ一体それは、自分にファンクラブとか何かと勘違いしているんじゃないのか。
「マジか……」
「いいじゃんか、モテモテだねえ! 彼女にゃ聞かせられないねえ!」
苦虫を噛み潰したような顔の一平に、美保は笑いが止まらない。確かに、優には聞かせられない話だとため息をつき――
その瞬間目の端に写ったものに、思考と動作が停止した。
石化してしまった一平に、美保が「おーい」と呼び掛けながら腕をツンツン、と指先でつつくが、一平の反応はない。
そこで一平の視線の先をたどっていくと、噴水の向こうにグレープフルーツを手に持ったままじっとこちらを見つめている女の子がいた。
一平と女の子を何度か交互に見比べ、「あらー……」と事情を察する。
さすがにからかいすぎたかな、と一応反省し、ぽん、と一平の肩を叩いて、
「一時間だけ時間あげるよ。三時には社に戻っておいで。」
そういってからすたすたと優に向かって歩き出した。
そしてすれ違いざま戸惑う優ににっこりと笑いかけ、何も言わずに去っていった。
美保の姿が見えなくなるまでたっぷり時間がたってから、一平は優の方へ歩いていった。
「優」
優は動けずにそのまま立っている。近づいてくる一平と目を合わせられず、手に持ったグレープフルーツをじっと見つめていた。
一平は優の真正面に立つと、言葉を探すようにちょっとだけ口ごもった。口ごもっている間に優が先に口を開いた。
「――そうだよね、会社に行けばあんな大人っぽくてきれいな人が一杯いるんだよね」
地の底を這うような優の声。手に持ったグレープフルーツがみしりと歪む。もちろん、筋力ではなくPKのなせる技だ。美保が大人っぽいかどうかは甚だしく疑問だが、確かに美人ではある。
けれども一平にとってはそれだけだ。優以上に可愛い女の子など存在しない。
「そんな環境じゃ彼女がいるなんて言えないわけだ」
「ち、ちがうちがうちがう」
「じゃ、なんで隠してるの」
「そ、それは……」
君を誰にも見せたくないからです。
可愛くてしょうがないからです。
今この瞬間だって、道行く人が君を振り返っていくのが許せないんです。
ましてや会社の奴らなんかに見せるなんて、そんなもったいないことできません。
と言えればいいんだろうけど、そんな歯が浮くような台詞は言えそうにない。
どどどどうしよう、とこっそり優をのぞき込むと。
「――優?」
顔が真っ赤。
怒っているのかと思ったけど、どちらかというと恥ずかしがっている顔をしてる。
ひょっとして。
「――聞こえちゃった?」
「――ごめんなさい、すごく強い思いだったから漏れ聞こえちゃったみたい」
どうやら心の声が聞こえていたらしい。優につられて思わず赤面してしまう一平だった。
「幻滅しちゃった? こんな独占欲の強い男で」
うつむいたままの優がふるふると頭を左右に振る。
そんな優の頭を包み込むように一平がふわりと抱き締めた。
「ごめんな、みっともないとこ見せて。でも、優のこと誰にも見せたくないくらい大事なのは本心」
「一平さん」
「四六時中そばにいられればいいけど、まだそういう訳にゃいかないもんな」
そういって、声色を落とす。
「本当は今すぐにだって結婚したいよ」
優が大学を卒業してから結婚しよう、と決めたのは二人の総意。それくらいになれば、一平の生活基盤もしっかりするだろうから、と話し合って決めた。
それまでは、ちょっと婚約期間が長くなるけど我慢しよう、って。
「うん、私も」
心を読まなくても、触れた体から気持ちが伝わってくる気がした。
とはいえ。
まだまだ内心穏やかとはとても言えない。
「ファンクラブ?」
「あー……俺も初耳」
一平が天を仰ぐ。
「でも内心嬉しいでしょ」
優はちょっと口を尖らせる。
「バカ言うなよ、んな面倒はごめんだって」
一平が実に迷惑だと言わんばかりの声をあげた。
一平は確かに恋愛をゲームのように楽しめるタイプじゃない。複数の、それも不特定多数の女の子に熱を上げられても面倒なだけだ。
優もそれがわかっているのだろう、素直に頷いた。
「そうだね、一平さんはそういう人だもん。ごめん、もうこの話はおしまいね」
「じゃ、仲直りな」
「うん! あ、そうだ、話は変わるけど明日蘇芳さんたちも来るって」
「お、じゃあ準備が大変だなあ。俺、朝から手伝い行くよ」
優のかわりに荷物満載の自転車を押し、二人で優の家に向かって歩いていった。
美保からもらった時間はあと少し、ゆっくりすることはできないが、ちょっと得したような気分になった。
翌日の土曜日。
約束通り一平は午前中から手伝いに来ていた。
掃除機をかけたり、スリッパを準備したり、お客様用の食器を出したり、お子ちゃまたちが遊べるスペースを作ったり。
優が料理をしている横で、まじめによく働いた。
「一平さん、疲れたでしょ。これどうぞ」
ひとしきり片付けてソファで一休みしていた一平に、優がグレープフルーツをむいて砂糖をかけたものを持ってきた。ガラスの小鉢にきれいに盛りつけられて、よく冷えている。
「お、うれしいな。いただきます」
手を合わせて、添えられた小さなフォークでグレープフルーツを一切れ口に運ぶ。
優は同じように手伝っていた総一郎にもグレープフルーツの皿を渡した。
「ありがとう」
総一郎もそういってグレープフルーツを口に運んだ。
が、その瞬間。
「んーーーー!!」
突然一平が立ち上がり、口を押さえながら総一郎に「やめろ」と勢いよくジェスチャーで伝えるが、時すでに遅く、グレープフルーツは総一郎の口に入ってしまった。
とたんに総一郎の顔がさあっと青くなっていく。
グレープフルーツを口にした男二人は、ばたばたと台所と洗面所に別れて駆け込んでいった。
「な、なに?」
呆然と優が立ち尽くしていると、ジャバジャバと水音がした後にやっと人心地着いた二人がリビングに戻ってきた。
「優、今の、何?」
「何って、グレープフルーツにお砂糖かけただけだけど――まさか、砂糖とお塩間違ってた?!」
「そんなレベルじゃない……」
「え! じゃ、腐ってた? でも、昨日買ったばっかりで」
たしかに、PKで握りつぶしそうにはなった奴けど。皮をむいていたらちょっとばかり形が崩れていたので、二人におやつとして取り分けておいたのだ。
「いや、腐ってたというより、本質的にグレープフルーツじゃない味がしたよ」
総一郎が「思い出したくない」という遠い目をしている。
「何て言うか――見た目はそのままだけど、別な物質に変容したっていうか」
台詞がやっぱり科学者だ。
けど、それを聞いた一平が挙手した。
「あの、総一郎さん」
「なんだい?」
「えっと、例えばの話なんですが」
そう言いながらも、何かよくないことを確信しているような顔をしている。
「例えば――俺や優のPKで、食べ物の味だけ変えることって、可能だと思います?」
「ふむ、おもしろい仮定だね」
総一郎は興味を引かれたようだ。
「難しいことだとは思うけど、不可能ではないと思うよ。検証してみないとわからないけれど、なにがしかの味覚を司る物質の分子構造に影響してしまうとか」
しかし、特定の分子を狙ってやるのは難しいだろうね、という総一郎の説明に、一平は「意図的じゃないにしても、ああ、そういうことなんだろうな」と胸の奥で納得していた。
つまりは、焼き餅を焼いた優が、無意識のうちにPKを使った影響で、分子レベルでグレープフルーツの味が別の味に変わってしまった、ということなのだろう。
ちらりと優を見ると、やはり気がついたように呆然としていた。
今後、同じようなことがないよう、身を慎もうと心の底から誓う一平だった。
なお、作者は文系人間です。どうやったら味が変わっちゃうのかの詳しい考察は聞かれても答えられません。だってフィクションだから…




