引っ越しの日
幹線道路を左折して住宅街の路地に入り、まっすぐ行った先で蘇芳が車を停めた。
「さあ、着いたよ」
助手席からは一平が、後部座席からは優と総一郎が降りてきた。そして一平がトランクから荷物を下ろしている間、優と総一郎父娘は無言で目の前の建物を見つめていた。
「――帰って来られるとは正直思ってなかったよ」
ぽつりと総一郎がつぶやく。優も同じ気持ちだ。濃いグレーのスレート葺きの屋根、金属製の門扉から玄関へと伸びる小さな花壇、すりガラスで出来た嵌め殺しの窓がついた見慣れた玄関の扉。小さい頃から優が総一郎と暮らしてきた自宅だ。総一郎も無理をしなければ日常生活に支障がなくなり、優も北海道から戻ってきて事件も落ち着き、二人は古川家を辞して自宅へと引っ越してきたのだ。
引っ越しと言っても持ち物はそれほど多くない。なので業者は頼まずまとめた荷物を蘇芳の車で持ってきたのだ。
家の鍵は一連のどさくさでもうなくなってしまった。が、蘇芳が前もって業者を手配して鍵を付け替えてくれていた。そうして渡された新品ぴかぴかの鍵を玄関の扉に差し込み、扉を開けて中に入った。
懐かしい家、懐かしい部屋。二年弱誰も住んでいなかったとは思えないほどきれいに整えられている。埃っぽいだろうからまずは掃除、と思っていた優はちょっと拍子抜けだ。
「蘇芳君が、定期的にハウスクリーニングを入れてくれてたんだよ」
驚く優に総一郎がそう説明した。お礼を言おうと振り向いたけれど、蘇芳は近くのコインパーキングに車を停めに行っていてもう家の前にはいなかった。
「じゃ、総一郎さんは座っててくださいね。俺、荷物運びますから」
一平がかばんをいくつも下げて声をかけた。
「大丈夫だよ一平君。そんなに心配しなくても」
「そうよ父さん、私と一平さんで運ぶから――そしたらお茶を淹れるから、お湯だけ沸かしておいてくれる?」
優にもそう言われて総一郎が苦笑する。
「わかったわかった。それじゃ二人にお願いするよ」
「この手前の部屋が父さんの部屋なの。今開けるね」
階段を上がってすぐの部屋の扉を優が開けた。カーテンを開き部屋が明るくなると、きちんと整頓された部屋が目に入る。何より目を惹くのは左側の壁を埋め尽くす本だ。さすがは研究者、蔵書がすごい。一平は荷物を置いて見入ってしまっている。分野違いではあるが、これだけ専門書がならんでいるのはやはり圧巻で、興味を駆り立てられてしまう。
「私の部屋は隣なの。ちょっとかばん置いてくるから」
優の声ではっと我に返ったらしい一平が「待って、俺が運ぶよ」と優を追いかけて行った。
優の部屋は総一郎の部屋の隣で、六畳ほどの広さの部屋だ。シンプルだけどナチュラルテイストで統一された部屋はいかにも女の子らしい部屋。優が先に入って振り向くと、一平はかばんを持って立ち止まってしまっていた。
「どうかした?」
「あ、いや、入っていい?」
「もちろん」
「――いや、女の子の部屋に入っていいものかとちょっと悩んだ」
「全然かまわないのに」
やっと一平が「お邪魔します」と入ってきた。ベッド脇に優の荷物を置いてやっぱり部屋の中を見回している。ちょっと恥ずかしい。
さすがに一平を待たせて荷物の整理をするつもりもないので、カーテンと窓だけ開けてすぐ一階に降りることにした。ただ、ひとつだけやっておきたいことがある。
「一平さん、ちょっと待ってね。これだけ出しちゃうから」
そう言って取り出したのはスマホと充電ケーブル、そしてぬいぐるみがひとつ。顔と足が黒い、もこもこの羊だ。そのぬいぐるみにどこか一平は見覚えがあった。
「あ、それ」
「あ、覚えてた? 初めて一平さんとゲーセン行った時に取ってもらったやつ」
かわいくてお気に入りなの、とベッドの枕元にそっとぬいぐるみを飾る。
「それに一平さんから初めてもらったプレゼントだし」
プレゼント、というのはちょっと違うかもしれないが、このぬいぐるみをもらったあの日優は本当に嬉しかった。羊のぬいぐるみのことだけじゃなくて、久しぶりに外に出られて、一平と二人で遊びまわって。その楽しくて嬉しかった気持ち、そして初めて自覚した甘酸っぱい気持ちがぬいぐるみに込められている。
特別な一日の思い出が。
「じゃ、下に行こうか。お茶でも――」
淹れるね、という言葉が一平の腕の中に消える。振り返ったところを抱き留められたのだ。ぎゅっと閉じ込められた腕の中は、ちょっと恥ずかしくてあったかい。
「なんか嬉しい」
耳元で一平が囁く。
「あの日は俺にとっても特別な一日だったから、覚えててくれて、大事にしてくれてて嬉しい」
「うん」
「――正直言うとさ、優がここの家に戻っちゃうの、ちょっと嫌だったんだ。ずっと古川の家にいればいいのにって思ってた。でもそういうわけにいかないのももちろんわかってたけど」
「――一平さん」
「そんな可愛いこと言われたら、ますます離したくなくなる」
優を抱きしめる腕がちょっときつくなる。そんな一平のことが愛しくてたまらない。優は努めて明るく言った。
「大丈夫だよ、毎日電話するし、会いたくなったらすぐに飛んでっちゃうし。それにこれからは普通の恋人同士みたいに待ち合わせしてデートしたりするんだよ。それも新鮮で、ええと――」
だんだん言葉が小さくなって行ってしまう。
「――でも、寂しい」
ついつい本音が漏れてしまう。優も一平の背中に腕を回してぎゅっと抱き着いた。そうして一平が額に何度も口づけるのをおとなしく受け入れる。
ピンポーン、と玄関の呼び鈴が鳴り、二人は顔を上げた。
「ああ蘇芳君。どうぞ上がって」
「失礼します総一郎さん。あれ、一平たちは」
「今、二階に荷物を運んで行ったよ」
階下からそんな会話が聞こえてくる。二人は少し残念そうにくすっと笑って、どちらともなく「いこっか」と優の部屋を後にした。




