風に揺れる花 後編
お兄ちゃん。
そう呼びかけられて一平の表情が変わる。女の子の中に何かを探すように、目を見開いて彼女をじっと見つめた。しばらくそうしていたが、やがて体を起こして手を伸ばし、女の子の頬にそっと触れた。
嬉しそうに女の子が目を細める。一平は震える手で彼女の輪郭をなぞり、信じられないという風におそるおそる呼びかけた。
「環……?」
「お兄ちゃん」
一平が女の子の顔を見つめ、軽く瞠目する。
「どこか面影がある。環――環だ」
女の子――環が満面の笑みを浮かべる。
環。その名前はあの事件で亡くなった一平の妹の名前。
二人の様子を見えない壁の外から見ていた優はストンと納得がいってしまった。あの「人ならざる者」という感覚は確かだった。だから嫉妬よりも薄ら寒さの方が先に立ったんだ、と気がついたのだ。
「お兄ちゃん」
「環……どこに行ってたんだ? 何か……随分会ってなかったような」
朦朧としているのか、一平はどこかに違和感を感じつつもそこに妹がいることに疑問が持てない様子だ。
「環はここにいるよ。お兄ちゃんのそばに」
環が一平にぴたりと寄り添った。
「お兄ちゃんは安心していいんだよ。嫌なこと、忘れちゃっていいんだよ」
「忘れる……?」
「うん。私はそのためにここに来たの。お兄ちゃんの枷を外しに」
そう言って環が微笑んだ。
優はただその様子を見ているしかできない。もう会うことができないと思っていた兄妹の再会には涙を誘われる。それと同時に、環はどうして現れたのか、そしてこれからどうするつもりなのかという疑問が不安な影をまとって浮かぶ。さらに言えば本当に環なのか。ちょっとばかりオカルティックな展開も頭に浮かんで不安も湧いてくる。
それに環が亡くなったのはまだ彼女が幼稚園の頃だったと聞いている。なのになぜ自分と同じ年頃の姿で現れたのか、それもわからない。
「私は環だよ。間違いなく、麻生環。お兄ちゃんの妹。この格好なのはね、私が死んだ時と同じ格好で出てきたらお兄ちゃんにはショックが強いからだよ――お姉ちゃんは優ちゃんだよね」
一平にくっついたままで環が顔だけ優に向けて話しかけた。
「うん」
「じゃあさ、邪魔しないで。久しぶりにお兄ちゃんに会えたんだもん。優ちゃんはいつも一緒なんだから」
「え、でも」
環が一平の方を向いた。一平はなぜか優と環のやりとりは全く気づいていないようだ。
「だって、お兄ちゃんに会いたかったんだもん。あのときのこと、ちゃんと謝りたかったんだもん」
「あのときのこと?」
「お兄ちゃんね、無駄に元気だからこんなふうに熱でも出した時じゃないと近寄れないの。だから、今は私がお兄ちゃんとお話しする時間なの。いいでしょ?」
そういってぺったりと一平にひっつきなおす環を見て、優は気がついた。
私と同い年くらいに見えるけど、中身はまだ小さい子供だ。環ちゃんはただ純粋にお兄ちゃんに会いたかっただけなんだ。
自分の邪推が恥ずかしい。
「――うん、わかった。そのかわりここで一緒にいていい?」
「いいよ!」
にっこりと笑った環の顔はどこか幼かった。
「ホントはね、私、優ちゃんともお話したかったの。だからあとでお話ししようね!」
「うん、待ってるね」
☆★☆
「お兄ちゃん、覚えてる? おうちの窓から桜が見えてたの」
「遠足の前の日にてるてる坊主作ったら頭が重すぎて上下逆になっちゃったよね」
「お兄ちゃんオムライス大好きなのにグリーンピース残してお母さんに怒られて」
環が思い出を次々に話していく。一平はそれに「うん、うん」と相づちを打っている。まだ頭がぼーっとしているのかも知れない。けれど次第に表情が穏やかになっていく。
それに合わせるように何もない空間にふわり、ふわりと光が現れた。光の中にいろいろな景色が見える。どこかの公園、リビングのような室内、保育園らしき建物やプール。一平の目はそのひとつひとつを見て懐かしそうに細められている。
「懐かしいな」
「うん、楽しい思い出ばっかり」
「あ、ここは」
一平がリビングのような景色に手を伸ばす。途端にあたりの風景が一変した。
気がつくと今までいた場所とはまた違う場所にいた。地模様の入った白い壁紙、ありふれた茶色の食卓。椅子には黄色のキルティングで出来たカバーがかけてある。壁際には使い古されたテレビ、その上に写真が飾ってある。
窓が開いているのか風でふわりとたなびくカーテンは、白地に濃い茶色と緑で花のシルエットが描かれたものだ。
そのどれもに一平は見覚えがあった。
「ここは……!」
「思い出した? 私達のおうち」
そう、幼い頃家族と暮らしていたアパートそのものだ。目を見張る一平の腕に絡みついて環が指をさす。
「ほら、お兄ちゃんはいつもここの席に座ってたよね」
食卓の椅子の一つを言っているようだ。
「せっかく学習机買ったのに、お兄ちゃんいつもここで宿題してた」
「そうだな」
「それで、私はお兄ちゃんの真似して横に座って塗り絵とかしてるの」
「はは、やってたな」
「楽しい思い出、まだまだたくさんあるよ」
一平の中に次々とその頃の思い出が鮮やかに蘇ってくる。それは幸せで、暖かいものばかり。懐かしさに鼻の奥がツンとする。
「でも」
環がふと表情を引き締める。
「あの日、お兄ちゃんのお誕生日。私、お兄ちゃんが一番大事にしていたおもちゃを壊しちゃったんだよね」
「え、あ、そうだっけ」
「ふふふ、わざと忘れたふりしなくてもいいんだよ。お兄ちゃん、大事にしてたから絶対触らせてくれなかったでしょ、あの飛行機」
それは当時はやっていた特撮ヒーローの乗り物メカで、飛行機がロボットに合体するものだった。一平が幼稚園の頃に買ってもらって、世間でその番組のブームが終わっても一平はずっと大事にしていた。あの日、それを環が壊してしまい、怒った一平が泣きながら押し入れに入って籠城してしまったのだ。
「悪かった、俺が環に絶対貸さなかったから余計に遊んでみたかったんだよな、きっと」
「謝らないでよ。私がお兄ちゃんに謝ろうと思ってたんだから。だってそのせいで――」
環が下を向いて唇をかむ。
あの日。一平が押し入れから出てこなくなって、両親は何とか一平をなだめようと押し入れの前で話しかけていた。テーブルには一平の誕生日パーティーのための料理やケーキが準備されていて、家族全員で乾杯するまでになっていたのだ。
両親が説得している間に呼び鈴が鳴った。押し入れはアパートにの一番奥にあって、大好きな兄に怒られたのが悲しかった環はちょっと離れた玄関のそばにいたのだ。だから、まだ小さい環は呼び鈴が鳴ってすぐに玄関の鍵を開けた。
開けてしまったのだ。
もし玄関を開けようとした環のそばに両親がいて止められていれば、あんな事件は起きなかった。
一平は両親と妹と、今でも四人で幸せに暮らしていただろう。
「違う。俺があんな態度取らなければ呼び鈴が鳴っても環じゃなくて父さんか母さんが対応していただろ? だから俺の」
「違うよ。私がおもちゃ壊したから――私が玄関を開けたから」
「環」
一平が環の頭をそっとなでた。
「そんなこと言うな。環は悪くない。悪いのは全部犯人だからな」
「お兄ちゃん……」
みるみる環の目に大粒の涙が浮かんでくる。そのまま一平の胸にしがみついた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんごめんなさい」
「俺こそごめんな、環」
環はぼろぼろと涙をこぼし、大きな声で泣いた。一平はそんな環を抱きしめて、ずっと胸を貸していた。
家族のことを思い出すといつも懐かしくて苦しかった。月命日に墓参りに行くたびに、事件から何年経っても風化しないあの時の辛さも蘇って泣きそうになった。それでもここまで折れずに生きてこられたのは、自分を大切にしてくれた人たちのおかげだ。蘇芳と、夏世と、それから誰よりも――
「優ちゃん、だよねえ」
「なっ、環っ、おまえ」
何とか泣き止んだ環がにっこりと一平を見上げた。いつの間にか彼女の姿は優と同い年くらいの女の子ではなく、環が亡くなった頃の幼稚園児くらいの女の子にと変わっている。
一平には何となく理解できた。こうやってお互いに後悔していることを打ち明けて心の枷が外れたことで、本来の環の姿を見ることが出来るようになったのではないだろうか。
ここは夢の中、環の姿が変わっても自分の心の中を読まれても、何があってもおかしくはないだろう。
「お兄ちゃん、私優ちゃんともお話したい」
「優と? そりゃあいいけどここには」
「優ちゃーん!」
するりと腕を解いて環が後ろへ走っていく。それに合わせて振り向いた一平の目に映ったのは。
「優?」
いつからここにいたんだろう。申し訳なさそうな顔で優が環を抱きとめていた。
「あれ? これって夢だよな? じゃあこの優も」
「お兄ちゃん、これはお兄ちゃんの夢だけど、優ちゃんは本物だよ!」
「本物?」
「そうだよ、お兄ちゃんを心配してここまで来てくれたんだよ」
ねー、と優を見上げる仕草は小さな子供そのもの、あの頃の環そのものだ。じわりと一平の目頭が熱くなる。
それから少しの間環と優は話をしていた。環が一平の幼い頃の思い出を話して聞かせ、優はそこに現在の一平との共通点を見つけては笑う。やがて話の輪に一平も加わり、三人で話に花が咲く。
どれくらいそうしていただろうか。環がふと上を見上げた。
「そろそろ行かなくちゃ」
「環」
「お兄ちゃん、ずっとお兄ちゃんのこと見守ってるからね。私も、お父さんもお母さんも」
「待って、ちょっと待って」
「もう時間なんだ。ごめんね。もっと話していたいけど――優ちゃん、お兄ちゃんをよろしくね」
「環ちゃん!」
「二人とも、幸せにならなきゃダメなんだからね!」
ふわりと環の体が宙に浮き、柔らかな光に包まれ――
「環!」
後には光が残り、それもゆっくりと消えて行った。
「環――」
環が消えたあたりを見つめたまま一平の頬を涙が一筋伝う。彼の隣にいる優も両手で口を覆って光の消えた後を見つめていて、小刻みに肩が震えている。
環の後を追うように小さな光がふわり、ふわりと天に消えていく。その光景は蛍が舞うように幻想的で、まるで彼女を送るようだと一平は思った。
しばらく二人でそうしていたが、やがて優が着ているシャツの袖口を手の甲までぐっと伸ばし、一平の頬をそっと拭ってくれた。
けれどその優も目に涙をたくさん浮かべている。一平は優をぎゅっと抱きしめて自分の胸に彼女を押し付ける。じんわりとパジャマの胸元が暖かく濡れてくるけれど気にならなかった。
一平は優の耳元に囁いた。
「優、泣かないで。笑って」
「――うん」
「優がいてくれるから、蘇芳が、夏世が、みんながいてくれるから俺は生きていける」
「一平さん――」
「優が笑っていてくれればそれだけで、俺は――」
ぽろぽろと涙がこぼれるのも構わず優がぎこちなく微笑む。
一平は泣き笑いになってしまった優の顔を少しの間眺めていたが、もう一度彼女の存在を確かめるように強く抱きしめた。
☆★☆
翌週末、一平と優は再びアパートの跡地を訪れた。
どうやらこの一週間のあいだに土地に買い手がついたらしい。建築計画の書かれた白い看板が立てられている。
一平はそれをじっと眺めていたが、ふっと小さく笑った。
「俺がここに来るの、多分ぎりぎりだったんだな。それで環は慌てて俺のところに来たのかも」
「そうかもね。でも間に合ったじゃない」
「ああ」
「――ちゃんと見送れて、よかったね」
一平はつないだ手に少しだけ力を籠める。
「優、ありがとうな」
優が向けてくれる笑顔に救われる気がする。
ふわりと吹く風が優の髪を揺らす。揺れた髪の先に、空き地に咲いた花の色が見え隠れしている。
かわいらしい色の花が二人を見守るようにやさしく風に揺れていた。
「風に揺れる花」暗い話にお付き合いいただきありがとうございました。
明日は1話短編をアップいたします。




