番外編・夏の始まり
生まれて初めて降り立った北の大地は、東京とは比べ物にならない爽やかさで、何やら開放的な気分にさせられる。
新千歳空港から札幌の中心地へは快速エアポートという電車で行くらしいが、まずは外を見たくなって、一平は空港の建物から出た。
広々とした駐車場のまわりは何もない。ただただ広い。まあ、空港という施設柄、周囲に建物がないのは当たり前なのかもしれないが、どこまでも空間が広がっていくような、そんな感覚にとらわれてしまう。
飛行機のなかで縮こまっていた骨や筋肉をぐうっと伸ばし、大きく吸い込んだ空気は、なんだか美味しい気がする。
優が行方不明になってからもう九ヵ月以上が過ぎた。
一平は、足の怪我に自分で思っていたよりてこずり、完治するのに冬休みまでかかってしまった。その間、蘇芳も情報網を駆使して優を探してくれてはいた。けれど、まるでなんの情報も入ってこない。
だから、一平は自分の足で探すことにしたのだ。
とはいえ、探すあてがあるわけじゃないので、行き先はただの勘。あてずっぽうともいう。そもそも、彼女が生きている保証もないのだ。
けれど、優がいなくなった後も、頭のどこかに彼女が生きているという確信があり、諦めるという選択肢は一平にはなかった。
ただ、蘇芳と夏世の遠見によると「寒い地方が気になる」ということなので、そういう場所を中心にあちこちをしらみつぶしに探している。
土日は近場を探していたが、長期休暇は遠出ができる。春休みは東北地方を回ったので、夏休みは北海道を探すことにして、一平はこの札幌へやって来たのだ。
夏のハイシーズン、ホテルはどこも満室で、結局番匠が手配してくれたのは札幌の中心ではなく、少し離れた街だった。それでも札幌からJRで十分もかからずに着けて、駅ビルもあるような、ここだけぽつんと発展した場所だ。駅から歩いても五分もかからないような好立地に、世界規模のチェーンを誇る超高級ホテルがあり、ここを夏休みの間じゅう一室押さえてくれたのだ。さすがは昴グループ。番匠にはなにか特別なお土産を用意しなきゃ、と、土産物ショップで鮭をくわえた熊の彫刻を眺める一平だった。
「さて、探すっていっても、北海道は広すぎるよなあ」
ホテルの窓から外を眺めて、さてどうしたものかと一平は考え込んだ。
そもそも、昴グループの情報網に引っ掛からなかったのだ、裏を返せば、そういうところ――例えば、病院や警察、役所などには優に関する連絡が入ったり、本人が世話になったりということはなかったということになる。
とすると。
「例えば、どこか個人の家なんかで住み込みで世話になってる、とか?」
漫画なんかである、料理店に住み込みで働いているイメージを頭に思い浮かべる。
『ま、それもひとつの可能性だよな』
夜、定時連絡で蘇芳に電話してその話をしたら、苦笑混じりの声で返されてしまった。
『それより問題は、生きているなら何故彼女が連絡すら寄越さないか、だろ? 連絡できないのか、しないのか』
「いや、しないってことはないだろ?」
そうはいったものの、迷惑をかけたとかなんとか考えてるんじゃないか、と思ってしまう。古川の家に来たばかりの頃、いつもそうやって一歩引いていたのを思い出す。
優はこの北海道にはいないかもしれない。
でも、じっとしていられない。
電話を切って、窓の向こうの夜景を眺める。キラキラと輝く照明は、そこに人がいる証拠で、海のように広がる光のもとには何百、何千の人がいる。
この中に、優がいるかもしれない。――いないかもしれない。
「絶対、見つけるからな」
それから二週間ほどは瞬く間に過ぎた。
あてがあって探しているわけではないので、むしろ見つけられる方が奇跡だよ、と、電話で蘇芳が言う。自分でももちろんそのつもりだが、さすがに全くへこまないわけではない。
なので気持ちを切り替えて、出かけることにする。といっても別な用事だ。
東京で一平が所属している空手道場の、同じ流派の道場がここ札幌にもあって、そこへ出稽古に行くのだ。札幌の道場の指導者である平山先生は、東京の道場の指導者と長年の友人関係にあるらしく、耳ざとく一平が札幌に行くことを聞き付けて稽古の手伝いに来るように頼まれてしまったのだ。
最初は優を探す時間が減る、と消極的だったが、やはり稽古に集中するとくさくさした気分も吹き飛ぶので、時間を作っては平山道場に顔を出しているのだ。
「あ、麻生先輩! 押忍!」
甲高い声がして、ちっともドスのきいていない「押忍」が響く。道場に通っているチビッコたちだ。
「押忍! 悪かったな、遅くなって。すぐ着替えてくるから」
更衣室に向かう一平を、またしても甲高い「押忍」が追いかけてくる。一平は思わずにやりとしてしまう。チビッコ軍団の相手をするのは、いわば憩いのひとときなのだ。
更衣室で持参した道着に着替え、腰を黒い帯できゅっと締める。一平は有段者なので黒帯だ。これを締めると、気持ちが引き締まって、空手の修練に気持ちが集中する。
「よし!」
気合い一閃、道場に足を踏み入れた。
「よし、じゃあ次は突きの練習だ。これに」
そう言って道場の長・平山先生が長さ五十センチ幅二十センチほどの分厚い赤いクッションを出してくる。これはミットといって、クッションの裏側についた二本のベルトで腕に装着して、練習する者の蹴りや突きを受けるための道具だ。腕に装着すると、ちょうど手首から肘くらいまでを盾のようにカバーする。
「これに思いっきり突きをする。先生がいいっていうまで続けるんだぞ」
「押忍!」
指導役になっている年長者たちはそれぞれ片腕にミットをつけ、ちょうど子どもたちの突きが届くあたりに構え、片膝を立てて膝立ちになる。一平もミットをつける一人だ。
「始めっ!」
平山先生の鋭い声と同時に、子どもたちも声を張り上げながら突きを繰り出す。一平がこのとき受け持っていたのは、まだ小学校に上がる前の、五歳の男の子だった。この子は上にお兄ちゃんがいて、その子が始めたのをきっかけにくっついてくるようになったのだが、一生懸命さだけには定評がある。
一生懸命さだけには。
この子の受け持ちになると、笑いをこらえるのに苦労する。真っ赤な顔で一生懸命やってはいるのだが、何故か突きを繰り出すときに手をきちんとグーに握れないのだ。ちょうど、猫の真似をするときのように爪を立てた状態で突きを繰り出す。おまけに、なぜかあわせて両足がばたばた動くのだ。
どうみても、けんか中の子猫だ。
一平は、この子が好きだった。
「ほら、ちゃんと手をグーにしろよ!怪我するぞ!」
声をかけながらも、ふと、自分に将来息子ができたら、この子にやるみたいに空手を教えるのかな、とか思ってしまった。
たとえば、一軒家に住んで、そんなに広くない庭でこんなふうに突きとか蹴りとか教えて。つい熱が入ってやりすぎちゃって、つい泣かせちゃったりして、家の中から優が出てきて怒るんだ。
(――って、まてまてまて俺っ!)
思わず動揺してしまい。
「あ」
ばち~ん!
男の子の猫にゃんパンチが顔面にヒットしてしまったのだった。
「今日はいったいどうしたんだ一平、けいすけのパンチ受けちゃうなんて」
道場がひけたあと、指導役メンバーで飲みに来た近所の中華屋で一杯目のビールを飲みながらひとりが言った。
「ええまあ、ちょっと気が散っちゃいましたね。まだまだですね」
「はは、まあ気をつけろや」
まさか自分の妄想にあせったとは言えず、話題を変えるように相手に蒸し鶏の冷菜を勧める。
今日の店は個人経営の小さな中華屋、どちらかというとラーメン屋の雰囲気だが、メニューの品数の多さと確かな味で、実は本格的な中華料理屋だと常連は知っている。一平たちは一品料理を二品ほど注文してビールを飲み、あとでがっつり麺やらご飯ものを食べるつもりだ。
「それにしても、八月が終わったら一平は東京に帰っちゃうのか。子どもたちが寂しがるぞ」
「俺も寂しいですよ。あの猫にゃんパンチが見られなくなるの。動画撮っときたいくらい」
「次に会ったときはちゃんとした突きになっちゃってるだろうからなあ」
わはは、と男たちの笑い声が店にこだまする。
実際、七月中旬に札幌に来て、何の成果も出ないままもう八月に差し掛かっている。そもそも、当てずっぽうでここへ来たのだ。万が一にも何か情報でも得られれば上出来、位に考えていたので、優の影も形も掴めないのは当然だと思っている。
とはいえ、がっくりこないわけじゃないが。
ほどなくビールがなくなり、そのあと注文した麺類が運ばれてきた。しばらくは麺をすする音、箸が皿にぶつかる音、厨房で洗い物をしているのだろう水の音に混じって、壁に取り付けられたテレビが申し訳なさそうに野球中継を流していた。
「こんばんは!」
そのとき、厨房の奥から女性の声がして、洗い物をしていた店主が応対するために厨房の奥にある裏口へ向かった。一平の位置からは裏口がよく見えるので店主が来客と話しているのはよく見える。業者かなにかが納入にでも来たのだろう、と誰も気にもとめていない。
一平を除いては。
「遅くなりました、ご注文はこれでよかったですか?」
「おうご苦労さん、弥生ちゃん。今日はたっちゃんじゃないんだなあ?」
「叔父さん、ちょっと足を痛めちゃって、今日は運転専門です。配達するのは私が」
「そっか、そりゃ大変だな。たっちゃんにおとなしくして早く治せって発破かけとけよ」
「はあい、言っときます。毎度ありがとうございました」
女性がぺこりと頭を下げて出て行くのが見えた。
でも。
でも、あれは。
一平はがたんと椅子を倒す勢いで起ちあがると、その様子に驚いて声をかける平山たちを無視して店を出て、裏口のほうへ回っていった。
裏口へ回ると、一台の白い軽トラックが止まっていて、女性が助手席に乗り込んでいるのが目に入った。車はすぐに発車して、道路を走って行ってしまった。一平はそれを呆然と見送っていた。
だって、配達に来た女性にあまりに見覚えがあったから。
声を知っていたから。
「優!」
一瞬だったけど、あれは確かに優だった。声も、姿も。
走り去っていく軽トラをみつめながら一平は興奮を抑えられなかった。思わず追いかけて走り出しそうになったが、後ろから「どうした?」と声をかけられてはっと我に返った。
「平山先生」
「今の車がどうかしたのか?」
「あ――その」
「ひょっとして、例の探し人か?」
問われて一瞬固まり、真剣な顔で頷いてみせる。
「そうか!」
平山は一平を促して店に戻ると、すぐにカウンターのところへ行って店主に配達に来た女性について訊いてくれている。
やっと手がかりを見つけたかもしれない。細い細い蜘蛛の糸のような手がかりの端っこを決して離さないように一平はぎゅっと手を握りしめた。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
旧作にはこの後番外編がだらだら続いておりますが、ひとまずここで完結マークをつけさせていただきます。
いずれは番外編も改稿作業をする予定ですが、載せ方はまだ検討中ですので…
それではこの作品にお時間をいただき、心からお礼申し上げます。




