奇跡みたいに
「え! 本当! 私も行く! うん、そしたらすぐそっちに行くね」
朝一番にかかってきた電話を慌てて切り、優は新聞を読んでいる総一郎の方へ小走りで来た。
「父さん、夏世さん、赤ちゃん産まれたって! 私、今から一平さんと病院行ってくる!」
「お、おい優、待ちなさい」
総一郎が止めるのも聞かず、階段を二階にかけ上がると、自分の部屋からバッグを取り、ささっと身だしなみをチェックする。
ここは小さい頃から優が住んでいた家。東京に戻ってきてから、古川家を出て優と総一郎は以前と同じように自宅で暮らしている。ちなみに優は今は高卒認定試験を受けて合格し大学に通っていて、総一郎は全快し、昴グループの研究者として働いている。
「優、病院なら面会時間とかあるんじゃないか?」
「大丈夫! 出産から二十四時間はいつ行ってもいいんだって」
ばたばたと階段をかけ降りてきた優は、玄関で靴を履くと「いってきます!」と言ってテレポートして消えてしまった。
「よっぽどうれしいんだなあ。全く、どっちが自宅だかわからないくらいだな、なあ真由美」
仏壇の妻の写真に話しかける。
「いずれはそうなるんだろうな、遅かれ早かれ。娘の親っていうのも、寂しいもんだ」
指で写真立ての縁をそっとなぞると、写真が少し笑ったような気がした。
ガラス窓の向こう、清潔にキープされた新生児室には透明なプラスチック製の小さなベッドが整然と並べられている。それぞれの中に柔らかそうな布団をかけられ、白い帽子を被せられた小さな小さな赤ちゃんがすやすやと眠っているのが見えた。
聞いたところによると、夏世はかなりの安産だったようだ。それでも出産した本人はあり得ないほど疲れていて、新生児室に来る前に病室に顔を出したらぐっすり眠っていた。
「産まれたばっかりの赤ちゃんって猿みたいって言うけど、本当だよなあ」
不謹慎なことを漏らしているのは一平。優はもう赤ちゃんに夢中だ。
「よく寝てる。目、開けないかなあ」
夢でも見ているのか、時折体をビクビクっと震わせ穏やかに眠る赤ちゃんは、無垢そのものだ。たまらず笑みがこぼれてしまう。
「うーたん!」
小さな子供の声がして優が振り向くと、よちよち歩きの女の子が手をいっぱいに伸ばして近づいて来るのが目に入った。明るい栗色の髪はまだ短くてふわふわで、それにイチゴのピンをとめている。赤の水玉のジャンパースカートに白のカーディガンを着たその子はにこにこしながら優をまっすぐ見ている。
「ありすちゃん!」
足元に来たその子をそっと抱き上げると、
「一平、優ちゃん」
声がして、蘇芳がにこやかに近づいてきた。
「蘇芳さん、おめでとうございます! 男の子なのね」
「ありがとう。一人目が女の子だったからね、夏世も次は男の子がいいなあって言ってたんだよ」
優の腕の中でありすがにっこり笑った。優はこの蘇芳と夏世の長女が可愛くてしょうがない。
「ありすちゃんがお姉ちゃんなんてね」
マシュマロのようなほっぺをぷにぷにとつつくと、ありすもうれしそうにきゃっきゃっとはしゃぐ。
「ありすは本当に優ちゃんが好きだよなあ」
「まだはっきり優ちゃん、って言えないんだよな。うーたん、だもんなあ」
一平がからかうようにありすのほっぺをつつくと、
「っぺー!」
大きな声でありすが言って、一平の顔を平手でぺちぺち叩いた。
「俺なんて『ぺー』だぜ? 早いとこしゃべれるようになってくれよ、お姫様」
優からありすを受け取った一平がありすのほっぺにちゅっとキスすると、蘇芳がありすをひったくる。
「おいこら、うちの娘に何をする」
「いい加減にしろよ、親バカ」
にらみあっていると、雰囲気を察したのかありすが顔を曇らせる。
「やー! うーたん!」
ありすが優の方へ手を伸ばし、腕から腕へ渡ってくる。それを受け取って抱っこしたまま優は赤ちゃんを見に連れていった。ありすが優の腕の中ではしゃいでガラスの向こうを眺めているのは何とも微笑ましい。特にパパはでれでれだ。
それを眺めながら一平が蘇芳にささやいた。
「悪かったな、無理言って」
「何言ってんだ、無理のうちに入らないよ」
言いながら蘇芳は小さな包みを一平に手渡した。それからぽんぽん、と背中を叩く。
その時優が振り向いて声をかけてきた。
「蘇芳さん! 明日日曜だから、ありすちゃん私が預かりますよ」
「ありがとう。実はね、遊園地にでも連れていこうかと思ってたんだ」
「あら、じゃあ邪魔しちゃ悪いかな」
「そんなことないよ。一緒に行ってくれると助かるよ」
「じゃあ」
「ちょっと待て。それなら俺も行くよ」
和気あいあいと話していると、一平がそれに割り込んできた。
「一平、男のやきもちはみっともないぞ」
「ちげーよ。優と二人で子連れで遊園地なんて、あられもないこと週刊誌に書かれるぞ。いい加減に自分の知名度を理解しろよ」
「そうか?」
蘇芳の相変わらずの天然っぷりに頭を抱えたくなる一平だったが、実のところ、やきもちが八割だったりもする。
「うん、そしたら三人でありすちゃん連れて行こうよ」
優がにっこり笑って「一緒に行こうね」と抱いたありすにほおずりをすると「いっちょ!」とありすが優の首にぎゅっとしがみついた。
日曜のリズニーランドはものすごい混雑で、人気のアトラクションはどれも二時間待ちはざらだ。幼児連れの一行は、長時間の行列は避けて、小さい子ども向けのアトラクションをのんびり回った。
ありすは女の子だけあって、キラキラしたものやかわいいものに興味を示す。優と手を繋いで乗り物に乗ったりしていたが、疲れたらしく、ランチのあとは蘇芳に抱っこされて寝てしまった。
「よく遊んだからね。まあ、もったほうじゃないかな」
話しながら一平の押していたベビーカーにありすを乗せてシートベルトを締める。
「僕はこのままありすを連れて帰るよ。一平たちはよかったら残って遊んで帰りなよ」
「え、でも」
「いいからいいから」
じゃあね、と蘇芳はベビーカーを押してさっさと帰ってしまった。
「いいのかなあ」
「いいよ、蘇芳も早めに帰ってゆっくりしたいんだろ」
「それもそうだね」
どちらからともなく手を繋いだ。
優は、手を繋ぐのが好きだ。一平の手は大きくてゴツゴツしているので、包まれているような安心感がある。伝わってくる体温や力強さにうっとりしてしまう。
ふと優は昔のことを思い出した。
「そういえば、リズニーランドでこんなふうに手を引かれるの、二回目かも」
「総一郎さんに?」
「ううん、知らない男の子」
「えっ」
「あ、小学生の頃だよ? ここで迷子になって――」
優は小学生の頃の思い出を話した。迷子になったこと。泣きそうになっていたら、通りかかった男の子が地図を見ながら手を引いて総一郎のところまで連れてきてくれたこと。
「結局その後その男の子とは会えなくて、お礼も言えなくて」
言いながら一平を見上げると、何だか変な顔をしている。
「一平さん? どうかした?」
すると一平はもごもごと何かを言っている。だがやがて言いにくそうに口を開いた。
「――その男の子ってさ、優よりちょっと年上?」
「うん。あの時初めてリズニーランドに来たって言ってた」
「で、優が泣いてたら園内マップ見て総一郎さん一緒に捜した?」
「そうよ」
「――優さあ、ピンクのトレーナー着てた?」
「さすがにそこまでは覚えてないなあ。あ、でも、確かそんな格好の写真、残って……え?」
目を見開いて、ちょっと気まずそうな一平を凝視する。
「地図、見るの得意だって」
「言った」
「迷子になったら係の人に声をかけなきゃだめだって」
「言ったな、説教臭いこと」
「うそ! 一平さんだったの!」
顔を見合わせて、思わず爆笑した。
笑って笑って、おなかが痛くなるまで笑った。
「信じられない。こんなことってあるんだね。奇跡みたい」
笑いすぎて出た涙を拭きながら優が言った。
「あ、そうだ」
「なに?」
「あの時は、ありがとう」
「よせよ、照れるぜ」
本当に奇跡みたいな確率。優は感動していた。
こうやって巡り会えたのも、運命? なんて乙女なことを考えて、ちょっと身悶えてしまう。すると一平がそっと優の耳に口を近づけた。
「これって、運命ってやつ?」
耳元で囁かれて、背中にびりびりっと電流が走るような感覚を覚える。それと同時に、一平が自分と同じことを考えていたのに感動してしまう。
「さあ、いこうぜ。何から乗ろうか?」
再び一平に手を引かれ、優はにっこりして頷いた。
*****
ひとしきり乗り物に乗ってから、優の希望でショップに入った。
「やーん、これ、可愛い!」
リズニーグッズに夢中な優は、一平そっちのけであれこれと商品の物色中。アクセサリーよりは文具類にお熱のようだ。それでも、定番の世界一有名なネズミの耳付きカチューシャは外せないらしい。
「え! ちがうよ、ありすちゃんにお土産だよ!」
なんて言っているが、ちょっと目が泳いでいたのもご愛敬。夢の世界では財布の紐も緩みがちだ。
一平からしてみれば、何でこんなに大量に買いこむのか理解に苦しむところだが、うれしそうな優を見ていたら「まあいいか」となってしまう。恋人に甘いのは自覚している。
とはいえ、そろそろ止めようかと声をかける。
「優」
「なあに?」
「もうすぐパレードが通るみたいだ。行ってみないか?」
「本当? 行きたい!」
優が同意すると、一平は会計を済ませた優の荷物を持ち、空いた手で少しきつめに優の手を引いた。
パレードの通るあたりはもう人垣が出来ていて、二人は後ろの方で何とか見えそうな場所を確保した。まわりはカメラやビデオを用意して、パレードが来るはずの方にレンズを向けて構えている。親子連れも、カップルも、大きくてきらびやかなフロートに乗ったキャラクターたちを今か今かと待ちわびている。もちろん、優もその一人だ。
優の横顔を盗み見て、一平はごくりと息を飲み込んだ。
話すなら、今がチャンスだ。
今日話すかどうするか、ずっと考えてた。でも、あの時の女の子が優だってわかって、優と出会ったのは必然なんだって思えた。
だから、今、話すしかない。
繋いだ手をぎゅっと握る。
「優、あのさ」
「えー?」
一平が話しかけてきたけれど、優はパレードの来る方を見たまま相槌を打った。
そんなに遠くないところからパレードの華やかな音楽が聞こえている。たぶん、もうすぐ見えてくるだろう。
「優、俺、引っ越そうと思うんだ」
「え?」
予想外の言葉に一気に優の熱が引く。一平を振り向くと、真剣な眼差しに射止められる。
「引っ越すって、どこに?」
突然の話に優は急に不安になった。遠くに行ってしまって、今みたいに会えなくなるのでは、と不安にかられて一平の袖を掴む。すると一平は気がついて、優を安心させるようにやさしく微笑んだ。
「別に遠くに行く訳じゃないよ。古川の家と優の家の中間くらいかな。一人暮らしするんだ。
――古川の家から出るのは、何年も前から決めてたから。俺も次の春からは社会人だしな。むしろ、自分で計画してたよりも遅くなったくらいだよ」
優がほっとして笑うと、一平はポケットから何かを出して優の手に握らせた。冷たくて固い、金属質の物がカチャリ、と優の手の中で音を立てた。
「だから、これ、もらってくれるか?」
手の中にあるもの、それは鍵だった。
銀色のディンプルキーがひとつ、それにリズニーグッズのキーホルダーがつけてある。ピンクのラインストーンがびっしりと張り付けてある、リッキーマウスのシルエットのデザインだ。鍵本体には一平が結んだのだろう、赤いリボンがついていた。
「鍵――これって」
「うん、新しいマンションの合鍵。実は、昨日契約して、ってか蘇芳に頼んでたんだけど、昨日病院で会った時に蘇芳から鍵をもらったんだ」
「え――いいの?」
「あたり前だろ?」
カーブからフロートが現れ、あたりは興奮の渦に巻き込まれる。電子音がメインの明るく華やかな曲に乗って、キャストたちが華やかに躍りさざめく。自然に観客もテンションが上がり、大きなBGMのせいもあって話し声も自然と大きくなる。
「一平さん、ありがとう。すごく、うれしい」
優は目を輝かせて笑って、もう一度手の中の鍵を見た。
「ひょっとして、さっきのお店でキーホルダー買ってくれたの? これも、すごく欲しかったの。だから、――あれ?」
そのとき優は鍵についているリボンに、何かが一緒に結びつけられているのに気がついた。そして、それを見つめたまま、固まってまった。
その横を、パレードが大音響を響かせながら通過していく。人々の歓声も最高潮だ。
けれど、優も一平も、パレードに振り向くことはなかった。二人には、パレードの曲すら耳に入っていない。
リボンに結びつけられた、小さな指輪のせいで。
「――その、俺……こん――さい」
「え? 何て言ったの?」
パレードは終盤にさしかかり、有終の美を飾るように一際賑やかにフロートが通る。
「俺と……て……さい!」
「ごめん、周りの音がうるさくてよく聞こえないの」
「だ、だから」
そのときちょうどBGMが一曲終わり、瞬間的にあたりが静かになった。だが、テンパってる一平はそれに気がつかなかったようだ。その言葉をとびきり大きな声で言ってしまった。
「俺と結婚して下さい!」
あたりは水をうったように静まり返り、そばにいた観客が一斉に二人に注目した。
「なに? プロポーズ?」
「え? どこどこ?」
「ほら、あの二人」
「えーマジ?」
「それで、どうなった?」
周囲の観客がざわざわし始めて、二人は注目の的になってしまった。
けれど、それどころではない。今、一平は何と言った? 優はぽかんと口を開けてただ真っ赤な顔をした恋人を見つめるしかない。
周囲も遠ざかっていくパレードそっちのけで二人を囲み、固唾をのんで行方を見守る体勢に入ってしまっている。
優の後ろにいた大学生くらいの女性のグループが「ほら、がんばって」とか「彼氏、返事待ってるよ」などと励ましてくれて、やっと事態が飲み込めてきた。途端に胸の奥底からかあっと全身を熱が回る。恥ずかしくてびっくりして――うれしい。
優は一平を見た。いつになく真剣な顔で、自分を見つめている。けれど、いつものような余裕はなく、どこか不安そうな瞳の色だ。逆に優は少しだけ冷静になることができた。
もちろん、返事はひとつしかありえない。
「――はい。一平さんのお嫁さんに、してくれますか?」
一平が目を見開き、見る見るうちに目一杯の笑顔になっていく。けれど、その笑顔はすぐ見えなくなった。優の目の前には、一平の広い胸。気がついた時には、強く抱きしめられていた。
それと同時に、周囲にいた人たちが一斉に拍手と歓声を送る。
歓声と興奮は波のように伝わって、輪の外側にいた人たちまで広がっていった。
何とか人の輪から抜け出した二人は、手をつないで離れたところまで走ってきた。
「うわー、恥ずかしかった」
走ったせいなのか恥ずかしかったせいなのか、ほほが赤い。人気の少ないアトラクションの裏側で、二人で笑った。
「優、さっきの鍵貸して?」
「うん」
優が鍵を手渡すと、一平は鍵から指輪を外して優の左手を取った。
そっと、薬指に指輪を嵌める。
指輪は優の誕生石のピンクトルマリンがついた、繊細なデザインのプラチナリング。優の指の上でやさしく輝いている。幸せそうに笑った優が、指輪を嵌めた手を一平の背中に回し、二人はまた抱き合った。
「いろいろあったけどさ、もう絶対離さないから。今度こそ絶対守るから。一生かけて、幸せにするよ」
「私も、もう離れないから。だから、一平さんが私を幸せにするんじゃなくて、一緒に幸せになろうね?」
「そうだな」
一平の顔が近づいてきて優は目を閉じた。
ちょっとかさついた唇に塞がれてもう言葉を紡ぐことはできない。でも、もう言葉は必要なかった。
いつの間にか日は暮れて、ぽつりぽつりと現れた星が空を彩る。
二人でそれを眺めながら、優はこの空を一生忘れないだろうと思った。
本編はこれでおしまいです。
あと一本番外編を載せて完結設定をする予定です。




