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夏①

 北国の夏は駆け足だ。

 暑くなってきたと思っても、空気はさらりと爽やかで、ぎらぎら太陽が照りつける時でも木陰に入ればびっくりするくらい涼しい。朝晩などは寒いくらいだ。

 街からちょっと離れると、広大な畑や水田が広がり、のどかな風景が続く。きぃんと冴え渡るような青い空に入道雲が立ち上がり、けれど空気はからりと乾いているので、ほんのわずかの柔らかな風で心地よい涼を取ることができる。


 自宅に隣接する畑に弁当を届け、弥生は自転車を引いて自宅までの道を歩いていた。隣接するといっても、畑は相当に広く、重たい水筒と弁当は手で持っていくには距離があったので、自転車に積んで持っていったのだ。

 家人は畑で働いているが、弥生は家事一切を請け負っているため、これから家に帰って家事の続きをするつもりだ。

「弥生、戸締りちゃんとしてね」

「はーい」

 自転車で畑の中を走るわけにいかないので、すぐ脇のアスファルトの道に出て、畑沿いにいくことにした。

 そんなに大きな道じゃないけれど、それなりに車の通る道。自転車で走り出してすぐに人が歩いているのにすれ違った。

(見たことのない人だな)

 そう思ってすれ違った瞬間、自転車が何かを踏んでぐらりとバランスを崩した。


 がしゃん!


 自転車ごと転倒してしまった。

「大丈夫?」

 すれ違った人が戻ってきてくれた。

「あ、すみません」

 見ると、二十歳くらいの男性だった。にこっと笑った顔がさわやかで、弥生はおもわず見惚れてしまい頬を赤らめる。男は自転車を立てると、弥生に手を差し出した。弥生はぼぉっとしたままその手をとり立ち上がった。

「弥生!」

 後ろから声がした。畑から中年の女性が心配そうな顔で走ってくる。弥生の家族だ。

「あ、奈緒子さん」

「どうしたの? その人は?」

「へへ、自転車で転んじゃって、助けてもらったの」

「あらまあ」

 奈緒子はほっとした顔で男にぺこりと頭を下げた。

「どうもありがとう、うちの弥生はおっちょこちょいだから」

「弥生ちゃん……っていうんだ」

「あ、はい。二ノ宮弥生です」

「俺は麻生一平。よろしく」

 弥生を立たせる為に取った手にちょっと力が篭る。不思議に思って一平の顔を見上げると、やさしそうな瞳でにこっと笑っている。弥生はちょっとドキッとした。

「麻生さん、このへんじゃ見かけないね。旅行かい?」

「はい、大学の夏休みで。あっちこっち回ってみようと思いまして」

「へえ、何にもないところだよ?」

「いや、目的はこれです」

 一平がそういってかばんから出したのは一眼レフカメラ。

「風景写真撮るのが趣味なんですよ」

「なるほどねえ」

「あの、もしよかったら畑の写真撮らしてもらっていいですか?」

「ああ、いいよ」

「ありがとうございます」

 奈緒子は畑仕事に戻っていった。

 弥生は一平がカメラを構えて写真を撮り始めたのをちょっと見ていたが、「それじゃ」と自転車に乗ろうとした。だが。

「痛!」

 右の足首に痛みを感じてよろけ、自転車に体重を預ける格好になった。

「どうかしました?」

 横にいた一平はすぐに気づいて声をかけてきた。弥生の様子を見て、足をひねったことに気がついたのだろう。「ちょっと失礼」と弥生の足元にしゃがむと、足首の様子を見て言った。

「腫れてきてる。すぐ冷やしたほうがいいな。さっきの人、呼んでこようか?」

「いえ、大丈夫、一人で帰れます」

「無理だって」

 確かに、足首はずきずきと痛みが増してきている。

「わかった、とりあえず帰るなら手を貸すよ。ひとりじゃ歩けないだろ? うちは近く?」

 そういうと一平は弥生を自分につかまらせて自転車をたてると、肩を貸して弥生を自宅まで連れて行った。

 家に入ると、さすがに一平はついてこなかった。家の中なら片足で跳ねても床を這っても救急箱のところまでは行けるので、弥生は丁重に礼を言って別れた。

 何とか救急箱から湿布薬を取り出してて痛む右足首に貼り、テープで固定して上から靴下を履いた。包帯代わりだ。ふう、と人心地ついて椅子に座っていると、奈緒子が帰ってきた。

「弥生、けがしたんだって?」

「奈緒子さん、何で知ってるの?」

「さっきの人が知らせに来てくれたんだよ。自転車もここまで持ってきてくれたよ」

「ええ!」

「親切な人もいるもんだねえ。本当に、世の中いろんな人がいるよ」

 奈緒子がふう、とため息をついた。

「今日はあともう少しで畑のほうは終わりだから、あっちはたっちゃんに任せて、あたしはこっちに戻ってくるよ」

「それは――すみません、私がけがなんかしたから」

「気にしない気にしない」

 弥生はこの日は一日上げ膳据え膳になってしまった。いつもなら午後は少し休憩して、洗濯物の片づけや夕食の支度をして過ごすのだが、いつも頑張ってくれてるからね、なんて奈緒子に言われてのんびりさせてもらった。

 のんびりしていたら、いつのまにか昼間会った一平のことを考えていた。

 なんだかとっても気になる。ぼーっとしていたら、顔を覗き込んできた奈緒子がにやりと笑った。

「なあに? 弥生、さっきの男の子が気になる?」

「な、な、奈緒子さん!」

「あら、図星?」

 奈緒子がけらけらと笑う。弥生はぷう、とほっぺたを膨らませた。



 翌日。

 湿布を貼って寝たおかげか、元々ちょっとひねっただけだったのか、朝起きたらほとんど足首の痛みは引いていた。無理しないで休んでいて、と言う奈緒子を大丈夫だからと畑に送り出し、弥生は洗濯を干しに庭に出て行った。

 大きな真っ白いシーツをばさりと広げて干すと、風が吹いてばさばさと揺らす。今日もよく乾きそうだ。天気も良くて気持ちがいいので、腕を上に上げてうーんと深呼吸をした。


 そのとき、背後でがさっと物音がした。

 弥生の表情が急にこわばり、音のするほうをばっと勢いよく振り返る。ちょうど家のかげになっているその向こう。

「――誰? 誰かいるの?」

 あたりには誰も見当たらない。家の向こう側は見えないが、それを確かめに行く勇気はない。足元に置いた洗濯籠をそっと掴んでじりじりと縁側へ戻る。そっと縁側へあがったときに後ろから声をかけられた。

「おはようございます」

「ひゃっ!」

 弥生は文字通り飛び上がって驚いた。持っていたかごを思わず放り投げてしまい、かごはテーブルにぶつかってがしゃっと鈍い音を立てる。振り返ると、こちらもびっくりした顔の一平が立っていて、弥生は一気に肩の力が抜けた。

「あ……驚かしちゃったかな」

「き、昨日の」

 弥生はほっとした顔で大きくひとつ息を吐いた。

「ごめんなさい、びっくりしちゃって」

 はは、と恥ずかしそうに笑いながら弥生は居住まいを正し、一平を見上げる。

「昨日はありがとうございました。今日はどうしたんですか?」

「うん、昨日撮った写真、プリントしたから持ってきたんだ」

 一平はそう言いながら背負っていたデイパックから封筒を取り出して弥生に渡した。中にはいつも見ている畑の風景が写真に納まっていた。空の青さと一面の畑の緑、畔に植えてある背の高い満開のひまわりがあざやかなコントラストで収まっていて、普段より鮮やかに見えるから不思議だ。

「うわあ! きれい」

「あと、これも」

 畑で働いている奈緒子と奈緒子の夫の達郎が写っていた。二人ともとてもいい笑顔で、気持ちがほっこりする。

「ありがとうございます! すごく素敵ですね」

「そう言ってもらえるとうれしいね。足はどう?」

「ええ、もう痛みは引きました」

 弥生がにっこりと笑う。

「今日はこれからどこか撮影に行くんですか?」

「まだ決めてないんだけど、少しこの辺をぶらついていい場所があったら撮ってみようかなと思ってるんだ」

「じゃ、もし時間があるなら、よかったらお茶でもいかがですか?」

「え、悪いよ」

「そんなことないですよ。昨日のお礼だと思ってください」

 すぐに冷たいアイスティーを二つ淹れて弥生が縁側に戻ってきた。家の中より、ここのほうが気持ちいい。

「ありがとう。実はちょっと喉が渇いてたんだ」

 二人で縁側に腰掛けて、遠くで働いている奈緒子たちを眺めながらのんびりアイスティーを飲む。たわいもない会話が始まったが、すぐに家の電話が鳴った。

「あら、ちょっと待っててくださいね」

 弥生は言い置いて電話を取りにいった。

「はい、二ノ宮で――」


 弥生の言葉がそこで途切れる。電話を取ったときに名乗った後は一声も発さず、すぐに力任せに受話器を戻してしまった。そのままへなへなと電話台のところに座り込んでしまう。

「弥生ちゃん? どうした、大丈夫か?」

 一平があわてて駆け寄ってきたが、弥生はがたがたと震えて固まっている。

「――見てるの」

「え?」

「麻生さんがうちに来てるのも、見てるの」

 それから一平のほうを振り返ったが、弥生の顔色は蒼白で目の奥にはおびえた影がありありと見て取れる。

「麻生さん、すみませんけど、今日のところは帰ってください」

 一平はぴん、ときた。

「ひょっとして、ストーカーか何かか?」

 弥生はびくりと体を震わせたが、そのあと小さくうなずいた。

「年明けくらいから、時々今みたいに私のやっていることを覗き見してるような電話がかかってきたり、ポストに隠し撮りした私の写真が入ってたり……」

「警察には?」

「一応、届出はしてあるんだけど、特に被害が出てるわけじゃないから、巡回を増やしてくれたくらいで――だから、麻生さん、関わらないほうがいいですよ。今日のところは帰ってください」

「何言ってるんだ、そんな顔してるのに置いて帰れるわけないだろ」

「――」

 弥生は目を伏せた。本心はひとりでいるのは怖い。けれどこの人はほぼ初対面に近くて、なのにそんな事情につきあわせるわけにはいかない。必死に表情を取り繕い、笑顔を作って見せた。

「大丈夫ですよ、家の中までは入ってきたことないですから」

「今まではそうでも、これからはどうだかわからないぞ。俺が訪ねてきたこと、そいつは知ってるんだろ? 脅かすわけじゃないけど、ストーカーなら他の男が近づくのも腹を立てるんじゃないか?」

「――」

「お母さんは昨日の畑? 俺、呼んでくるよ」

「あ、奈緒子さんはお母さんじゃなくて」

「違うの?」

「あ……親戚、です」


 結局、一平が奈緒子を呼んできた。事情を聞いて、奈緒子と達郎も家に戻ってきた。警察にも連絡し、いつも来てくれる堺巡査が様子を聞きに来てくれた。小柄な人当たりのいい制服警官だ。

 一連の騒ぎがやっと収まったのはもう夕方近くになっていた。

「ストーカーが誰かはわかっているんですか?」

「いや、わかってないんだよ。遠くから姿をみかけたことはあるんだけど。背の低い、やせぎすの男だったよ。警察は巡回してくれるし話も聞いてくれるけど、具体的な被害がないと積極的には動いてくれないからね。家族で何とかするしかないんだよ」

 奈緒子が言うと、達郎が続けた。

「幸いうちは農家だから、いつでも誰か家にいるからね。弥生だってそんなに出歩く必要はないから、その点は安心なんだけど、家に引きこもってるわけにもいかないし、いつストーカーが不法侵入してくるかもわからないからね。なんとかしたいんだけど――」

 一平を除いた三人がはあ、とため息をつく。その様子を見ていた一平が、思い切った様子で「あの」と声をかけた。

「もしよかったら、俺、しばらくボディーガードしましょうか」

「え!」

「まだ夏休みも始まったばかりだし、しばらくは気ままにあちこち回るつもりで特に予定を決めているわけじゃないから時間はたっぷりあります。もし迷惑じゃなかったら、しばらく番犬しますよ」

「そ、そんな麻生さん」

「――いや、お願いしよう」

 そう言い出したのは奈緒子だった。

「な、奈緒子さん! でも」

「そうだね、お言葉に甘えるとしよう。麻生くん、どこかホテルに泊まってるんでしょ? しばらくうちに泊まりなさいよ」

「奈緒子さん!」

「そうだな、それがいい」

 達郎も賛成した。

「よし、麻生くん、これから車出すから、荷物取りに行こう。弥生と奈緒子は麻生くんの部屋を用意しといてくれ。いいな?」

「はい、よろしくお願いします」


 あれよあれよという間に話が決まって、一平と達郎は出かけていった。

「ねえ、奈緒子さん、あんなに簡単に決めちゃってよかったの?」

 奈緒子と二人になった後に弥生が奈緒子に聞いた。

「うん。麻生くんはなかなか好青年じゃない。礼儀正しいし、見た感じ、着ている物や持ち物もいいもの持ってるし、お金に困った風じゃなかったからね。うちに泥棒に入ろうとかそういう目的はないでしょ。ストーカー男とは体つきも違うから、彼がストーカーかもっていう心配もないよ――それにね、何より決めては弥生、あんたよ」

「私?」

「うん、あんたがすんなり麻生くんを受け入れてるから」

「え――」

「初めて会ったとき、弥生はアタシのこともたっちゃんのことも警戒してたでしょ? 他の人もそう。けど、麻生くんに対しては警戒心が働かなかったね」

「そういえば」

「だから、よ。惚れたか、おぬし?」

「奈緒子さんっ!」

 ははは、と奈緒子は笑いながら押入れを開け、予備の布団を出して外に干した。その後ろで弥生は顔を真っ赤にしている。

 確かに奈緒子の言うとおりかもしれない。でも、それであんなに信用していいのかしら、と弥生は首をひねった。

 ただ、心のどこかに一平の滞在を喜んでいる自分がいるのも確かだった


 その日は何事もなく過ぎ、夜になった。

 一人増えた食卓はとってもにぎやかだった。奈緒子や達郎は一平にいろいろ質問して、一平もそれに素直に答えている。一平が東京から来たこと、お兄さんと暮らしていること、今は大学生で、去年ごたごたして一年留年してしまったこと、などなど。

 食事も終わり、奈緒子に勧められて一平は風呂へ向かい、弥生は台所で洗い物をしている。奈緒子と達郎は居間でテレビを見ているようだ。

 その合間から、弥生の耳には二人の会話がときどき漏れ聞こえてきた。

「麻生くん、人を探してるらしいぞ」

「どんな――」

「――やら、た……な――」

 テレビの音がひときわ大きくなり、二人の会話は聞こえなくなった。

(人探し? 何で私には聞かなかったんだろう)

 人探しなら、会った人全員にその人を知らないか聞いて回りそうなものなのに。そして、達郎にはその話をしたのに自分にはしていないのも変だな、と弥生は思った。

「お先にお風呂ありがとうございました」

 その時一平が風呂から上がってきた。

「お、麻生くん、どうだい一杯やらないか」

「いいですね! いただきます」

「弥生―! グラスと氷持ってきてくれ!」

「はーい」

 洗い物の終わった弥生が三人分のグラスと氷、冷えたソーダを持っていくと、達郎が茶箪笥からいそいそとウイスキーや焼酎を出してテーブルの上に並べていた。

「あ、ありがと。弥生、先にお風呂入っちゃいな」

「はあい」

 弥生は素直に風呂場へ向かった。


  弥生が席を外した途端、急に一平がそれまでの朗らかな表情を引き締め居住まいを正した。

「二ノ宮さん、お聞きしたいんですが」

「なんだい?」

「不躾なことをお聞きします。もしご気分を害されたら、どうぞ俺を叩き出してください――その、弥生ちゃんなんですが、お二人の親戚だって聞きました。――本当ですか?」

「何でそう思うんだい?」

 一平はちょっと考えている風だったが、意を決したようにまっすぐ二人を見た。

「俺、行方不明の恋人を探しています。彼女が弥生ちゃんにそっくりなんです。俺には、弥生ちゃんは彼女――優としか思えないんです」


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