春の庭
まだ春の浅い時期、古川家の庭は萌えてきたばかりの若葉の淡い緑で満ちていて、花壇のカラフルな花色があいまってパステル画を見ているような気持ちにさせる。
蘇芳が初めて連れてこられたこの家は、どうやら自分の父の家らしい。
今までは、母親と二人で暮らしてきた。二人暮らしではあったが、時々父が訪ねてきて可愛がってくれていた。
幼い蘇芳にはどうして父が一緒に住まないのか不思議に思うこともあったが、物心ついた頃からずっとそうだったので、それを母親に問いただすことはなかった。
ただひとつ、母がそれを蘇芳に申し訳なく思っていることは知っていた。なぜなら蘇芳はテレパスだから。
母は絵本に出てくる妖精のような、線の細い儚げな人だった。やさしくて夢見がちな少女のような人。そして見た目の通り病弱な人だった。それでもがんばって働いて、蘇芳を育ててくれた。
その無理がたたり、あっけなく母親は儚くなってしまう。ひとりになってしまった蘇芳は、当然のように父親の蔵人に引き取られることになり、この古川家へと連れてこられたのだった。
テレビで見たヨーロッパの邸宅のような美しい建物、これがこれから自分の家になるなどと、蘇芳は自分には似つかわしくないとさえ思っていた。
「さあ蘇芳。今日からここが蘇芳の家だ」
玄関を開けた先は開けた玄関ホールになっており、きょろきょろしながら蘇芳が入っていくとひとりの男性が恭しく一礼した。
「お帰りなさいませ旦那様。そして、お初にお目にかかります、蘇芳様。執事の駿河と申します」
「初めまして、蘇芳です。よろしくお願いします駿河さん」
「おお、礼儀正しいお坊ちゃまですね、旦那様」
「そうだろうそうだろう――さて蘇芳、まずはおまえの部屋へ案内しよう。それからおまえの弟も紹介しないとな」
「弟? 弟がいるんですか?」
「ああ、ヒカルというんだ。仲良くするんだぞ」
玄関ホールで話していた時だった。
「その子があの女の息子なのね?」
女性の声がした。子供心に突き刺さるほど冷え冷えとした声で、蘇芳はびくっと怯えてしまった。玄関ホールの奥、東側のリビングルームから出てきた女性はゆるやかなウエーブを描く黒髪の、背の高い人だ。冷え切った目で蘇芳をにらんでいる。
この人が自分に対してマイナスの感情を持っていることは伝わってくる。ただそれが怒りなのか悲しみなのか憎しみなのか、まだ幼い蘇芳には判別がつかない。
「紘代」
「その子をこの家に入れるというの?」
「紘代、待ちなさい――駿河、蘇芳を部屋へ」
「かしこまりました。さ、蘇芳様、お二階にお部屋をご用意してございますよ。こちらへどうぞ」
蘇芳は言われた通り駿河についていった。後ろで紘代と呼ばれた女性と蔵人がもめているのが聞こえたので心配だったが、駿河が促すので立ち止まることもできず部屋へと案内されていった。
蘇芳の部屋は上品な水色の壁紙の一室だった。案内されてすぐ駿河は「お飲み物をお持ちします」と出て行ってしまったため、手持無沙汰でベッドに座った。
まだ十歳にもなっていない蘇芳にも、先ほどの紘代が蘇芳を歓迎していないことはすぐにわかった。それはあの紘代こそが父の本妻であるからに他ならない。蘇芳の母と蘇芳の存在が許せなかったのだろう。
「――僕、ここに住んで本当にいいのかなあ」
ぽつりとつぶやいた言葉は青い壁紙に吸い込まれて消えた。
その後、駿河に勧められて庭を散歩した。ついていくという駿河を断り、門から外に出ないという約束でひとりにしてもらった。
この家の中で蘇芳が知っているのは蔵人だけ。初対面で面と向かって嫌悪をむき出してきた紘代を見た後だったので、他の人たちも蘇芳のことを受け入れてくれるのかどうか怖かったのだ。
屋敷の建物沿いに歩いてきて、建物の角に差し掛かった時、頭の上から女性の怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら蔵人と紘代が口論している部屋の下まで来てしまったらしい。見上げると二階の窓に女の人の背中が見えた。
「――!」
意識を向けてしまったからか、紘代の強い憤りがテレパシーで伝わってくる。その感情は痛いほど蘇芳の幼い心に突き刺さる。
だから蘇芳は必死にそこから離れた。建物から離れ、きれいに整えられた植込みをくぐり、細い小道を小走りに進む。
やがて少し開けた場所に出た。淡いピンクのつるバラがどっさり絡まった東屋があり、石造りのテーブルセットが置いてある。
――ここまで来れば、あの声は聞こえない。
ほっとしてしばらくこの東屋にいようかと思い立ち、蘇芳はピンクのバラの塊に向けて歩き始めた。
ところが、近づくにつれてテーブルセットの下に何かがもぞもぞ動いているのが見えてきた。
何だろうと近づくと、幼稚園くらいの小さな男の子だった。テーブルの下に隠れるように膝を抱えて座っている。
相手が自分よりずっと幼い子供だったから怖くなかったのだろう。あるいは放っておけなかったのかもしれない。蘇芳はできるだけやさしく聞こえるように声をかけた。
「君はだれ? どうしたの?」
男の子はびくっと震えておずおず振り向いた。零れ落ちそうに大きな目には涙がいっぱい、小さい子であることを差し引いても整ってかわいらしい目元も鼻も真っ赤になっている。天然パーマのくりくりした黒髪が振り向いた拍子にふわりと揺れた。
蘇芳はにっこりと笑いかけた。泣いている不安そうな瞳を放っておくことはやはりできなかった。自分自身、大好きだった母と死に別れ、今日から新しい不安だらけの生活を始めなければならないのだ。だからこそその子に自分を重ねたのかもしれない。
男の子は真ん丸な目をさらに見開いて蘇芳を見た。
「――きんいろ」
「え?」
「かみのけ、きんいろ」
「ああ、そうか。そうだね」
自分の髪に降れた。
「だあれ? どこから来たの? うちの庭で何してるの?」
この家の庭を「うちの庭」と言うところを見ると、おそらくこの子が蔵人の言っていた義理の弟なのだろう。
「ひょっとして、君がヒカルくん?」
男の子――ヒカルは小さく頷いた。
「そっか、君が。僕は蘇芳。ヒカルくんのお兄さんになるらしいよ」
「え? お兄さん?」
どうやら聞かされていなかったらしい。ヒカルはびっくりした顔で蘇芳を見上げる。びっくりして涙は引っ込んでしまったようだ。
「うん。僕も今日からここで一緒に住むことになったんだ」
「でも、ボクと髪の毛の色、ちがうよ。目の色も」
ヒカルはすっかり好奇心で満ち満ちた目になっている。
「僕のお母さんがね、こういう目と髪の色だったんだ」
「ええ? お兄さんなんだったら、ボクのママの子供じゃないの?」
「お母さんは違う人だけど、お父さんは一緒だよ」
ヒカルはよくわからないのか、こてんと首をかしげた。子犬みたいでかわいい。
「まあいいや、ヒカルくん、そこで何してたの?」
するとヒカルはまた不安そうな表情に戻ってしまった。
「――ママが怒ってるから隠れてるの」
「――そっか」
「ママ、怒るとすごく怖いの。ボク、何かしちゃったかなあと思ったんだけど、するがが違うっていうから、だからママがにっこりになるまで待ってるの」
蘇芳は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。おそらくヒカルのママ――紘代が怒っているのは、蘇芳を蔵人が引き取ることに納得していないからだろう。そのせいでヒカルは母親の剣幕を恐れて庭に避難することになっているのだから。
なら、せめてヒカルが寂しくないように。
「じゃあ、お母さんのご機嫌が治るまで僕と遊ぼう」
にっこり笑って手を差し出すと、ヒカルはみるみる明るい笑顔になって大きく頷いた。
「じゃあ、お兄ちゃんって呼んでいい?」
「いいよ」
「うれしいな! ボク、お兄ちゃんが欲しかったんだ!」
「そうなの?」
「うん、それも金色の髪なんてかっこいい! お父さんのお部屋にある天使の絵みたいだ」
「はは、ありがとう」
それから二人は鬼ごっこをした。かくれんぼもした。一緒に歌を歌って、草の影に虫を探した。
「あ、きいろとみどりのむし!」
「ツマグロオオヨコバイだね」
「つま? おおおお?」
「バナナ虫って呼ぶ人もいるよ」
緑色の羽に、黒い斑点のある黄色い頭を持つ小さなカラフルな虫を見つけて大興奮のヒカルに蘇芳が説明する。
蘇芳は虫も植物も好きなので、小さい頃から図鑑と首っ引きな子供だった。その知識を総動員して聞かれたことにこたえていくと、ヒカルの目はいつの間にか尊敬で満ち満ちていた。
「お兄ちゃん、すごい! いろんなこと知ってるんだね」
「たまたま知ってただけだよ」
「でもすごい! かっこいい!」
「好きだからいっぱい図鑑とか読んで覚えたんだ。ヒカルだってさ、好きなものあるだろ?」
言いながらふと立ち上がると、空が薄くオレンジ色に変わりかけている。ずいぶんと長いこと一緒に遊んでいたようだ。
「ヒカル、そろそろお家に戻ろっか」
「うん! お兄ちゃん」
この短い時間でずいぶん懐かれてしまったようだ。新しく弟ができたことが蘇芳もうれしく、不安でいっぱいの新しい生活に味方ができたような気がした。
そうして玄関を二人でくぐる。すぐに駿河が出迎えに出てくる。そして二人が一緒にいるのを見てちょっと驚いた顔をした。
「お二人とももうすぐ夕食ですよ。着替えて手を洗ってきてくださいね」
「はい」
「はぁい」
そうしてそれぞれ部屋に戻ろうとした時だった。
「ヒカル!」
女性の声が近づいてきた。紘代だ。
紘代はヒカルのところまで来ると「お部屋に戻りましょう」とヒカルの手を取った。
「お兄ちゃん、またあとでね」
「うん、あとでねヒカル」
そういった瞬間、紘代にギッとにらまれて蘇芳はひるんでしまった。けれど紘代は何も言わずヒカルの手を引いて踵を返し、その場を後にする。
そしてその直後、誰にも気づかれることなく紘代とヒカルが家から消えた。
紘代の部屋には書置きがあり、蘇芳を家から追い出さない限り帰らないと激情のままつづられていた。
そして手を尽くして探したが、二人の足取りは杳としてつかめぬままただ年月だけが過ぎて行った。




