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星の林

 できるだけ遠くに。

 確かにそう念じてランダムにテレポートしたが、どうやら予想以上に遠くに来てしまったようで優はびっくりした。隣で肩を貸したままの一平も驚いた顔をしている。

 どこかの山か高原だろうか。離れたところにぽつりぽつりと灯りが見える。その手前は広く開けていて、放牧地のような印象だ。どうやら、そのわきにある林にテレポートアウトしたようだ。夜空は晴れ渡っているようで、びっくりするくらいたくさんの星が瞬いている。白くボウッと輝いて見えるのは天の川だろうか。

 そして肌寒い。東京では夜はまだクーラーをかけている人もいるくらいだというのに、この気温差。標高が高いのか、冬の厳しい地域なのか。

 でも、どこでもいい。とりあえず今二人に必要なのは休息だ。優も一平も精神的な疲労がたまっているし、特に一平は体力的にもきついようで息が上がってしまっている。その証拠に木にもたれかかってからずるずると座り込んでしまった。

 優はその隣に座った。あたりは静かで、虫の声と、風にゆられた葉擦れの音しかしない。

 ほっとした。安心しきれる状況ではないが、ここなら見通しが利くので誰かが近づいてくればすぐにわかるだろう。

 それに一平が一緒にいる。

 そっと一平を見ると、息は落ち着いてきたようだが、ひどくだるそうな顔をしている。何日も薬で眠らされていたのだ、無理もない。

 優はそっと手を伸ばして汗で前髪が貼りついた一平の額をそっとぬぐった。ハンカチも何も持っていないので、素手なのは勘弁してほしい。

「無理させちゃったね」

「んなことないよ」

 優が言うと、一平は平気だと静かに笑って見せる。

 いつもの一平のやさしい笑顔。

 胸の奥が暖かくなって、満たされていく。一平がいなかったこの三日間はぽっかりと何かが欠けてしまったような空虚さがあった。彼の存在がこんなにも自分の中で大きかったなんて驚きだ。

 一平の額に触れた手に伝わってきたぬくもりが、彼がここにいることを実感させてくれる。

 いるんだ。ちゃんと、ここに。

 自分の隣に。

「――あれ」

 ぱた、と温かいものが頬を伝って膝に落ちた。

 ほっとしたからだろうか。今になって体が震えはじめる。

「ふ……うぅ」

 自分で自分を抱きしめるようにしてぎゅっと縮こまり、止まらない涙を見せないように一平に背を向けて、優は声を殺して泣きだした。

 清野に聞かされた話。

 叶野の言葉。

 優の未来をすべて刈り取るようなビジョンだった。

 そして大沼。

 あの時一平が目を覚まして助けてくれなかったら一体どうなってしまっただろう。大沼に乱暴されて、その後一生あそこに閉じ込められて叶野に処置を繰り返されていたかもしれない。

 けれど絞り出すような嗚咽を隠すように背後から抱きしめられた。ズシリと重みがかかり、胸の上あたりに腕が回されてぎゅっと優を閉じ込める。抱きしめられていると気がついて照れて恥ずかしい気持ちもあったけれど、どうしても離れられない。

「怖かったよな――あっ、今さらだけど俺が触って怖くないか」

 優は首を横に振り、体をよじって正面から一平の腕の中におさまった。一平のTシャツをぎゅっと握ってしがみつく。ほっとしたように一平の大きな手が背中を軽くポンポン、と叩いた。

「あのゴリラ、もっとボコってくればよかった」

「うん――あの人も、怖かった」

「――『も』? まさかその前もひどい目にあったのか?」

 頬に手を当てられて上を向かされた。一平がまっすぐに、心配そうに自分を見つめている。

 優はぽつりぽつりと言葉を切りながら今までの出来事を話した。南美のこと、清野に会って連れてこられたこと、そして清野や叶野から聞かされた話。話が進むにつれて一平の顔はどんどん青く、どんどん険しくなっていく。

「それで、健康診断受けさせられて……二か月くらいしたら、処置――始めるって……言われて」

 消え入りそうな声で話す言葉が途切れた。二人ともそれきりしばらく口を利かずにただ座っている。

 優は話したことを後悔し始めていた。今のを聞いて、一平が自分のことを嫌いになってしまっていたらどうしよう。妹としてすら見てもらえなくなったら、今度こそ自分の心は耐えきれないだろう――

「あいつら――なんてことを!」

 急に一平が優を、優のすべてをかき集めるように、きつくきつく抱きしめた。

「あいつら、人の尊厳を何だと思っているんだ」

 抱きしめる腕が小刻みに震えているのがわかる。怒りに震えているのか、泣いているのかわからないけれど。

 やがて自分を落ち着かせるように一平はひとつ大きく深呼吸した。

「優、約束するよ。もう絶対奴らに指一本、髪の毛一本だって触らせない。絶対だ」

「――うん」

 恐怖と嫌悪感で支配されていた優の心が暖かいもので満たされていく。マイナスの感情が解けて薄れていく。

 何も考えず、今はただこの幸福感に浸っていたい。たとえ一平が自分のことを妹だと思っているとしても――

「好きだ」

 一平が耳元で囁いた。

「――え」

 一平が腕の力をゆるめ、優と顔を合わせる。間近すぎて心臓がうるさいほどに早鐘を打つ。

 今、一平は何と言った? 

「優が、好きだ」

 はっきりとした言葉。まっすぐな瞳。

 優は目を見開いた。少なくとも一平が自分を好意的に見てくれていることはわかっているが、それを恋愛的な意味だと察せるほどうぬぼれることができない。一平の部屋にあった写真を思い出す。

 もし一平の妹の環が生きていて危険な目に遭ったら、きっと一平は同じように怒り、同じように助けるだろう。きっと抱きしめてもくれるだろう。ならば一平が優にしたこととどこが違う?

 だから聞きたい。今の「好き」という言葉の意味を。

 だから聞きたくない。「妹」と言われたら辛すぎるから。

「――妹、みたいに?」

 なのについ口をついて言葉が出てしまった。はっとして目をそらす。

「違うって! んなわけないだろ!」

 肩を掴まれる。少しだけ痛い。

「確かに会ったばかりの頃は、環――亡くなった妹と年も同じだし、重ねて見ていたかもしれない。でも、そんなのほんのちょっとの間だよ。俺は」

 ふっと肩を掴む一平の手から力が抜けて、そっと優の頬にその手が触れる。

「ひとりの女の子として、優が好きだ。さっき優が――その、危なかった時、心臓が凍りつくかと思った。俺以外の男が優に触れるのが我慢ならなかったんだ。すげえ腹が立って、腹が立ちすぎて自分が爆発するかと思うくらいで、ああいうの『嫉妬』っていうんだよな、多分。

 今、話を聞いて、優に辛すぎる思いをさせた奴らから絶対守りたいと思った。ずっとそばにいて、二度とそんな思いをさせないように」

 さわさわ、と風が吹いて、二人の頬をかすめていく。風は冷たいが、ほてった顔には気持ちいいくらいだ。風で揺れた優の前髪をそっと一平が直す。

「本当……に?」

「うん。だから、俺に優を守らせてほしい。気持ちを押し付ける気はないよ、そりゃ俺のこと好きになってくれればうれしいけど、そんなの強要されて好きになるものじゃないし、でも」

 何だかしどろもどろになってきた一平の言葉を聞きながら、まだ優はちょっとだけ信じられなかった。

 それは言っていけない言葉だと思っていた。妹扱いでもそばにいられればそれでいい、なんて思ったりもしていた。でも、心はどんどん貪欲になって、どんどん好きになって。世の中に何十億人も人間がいて、その中でたったひとり、自分が好きになった人が自分のことを好きになってくれる確率なんて限りなくゼロに近いんじゃないかとさえ思っていた。

 こんな奇跡みたいなことが、起きるんだ。

「私……一平さんのこと、好きでいていいの?」

「へ?」

「これ以上好きになっちゃいけないって、我慢しなくてもいいの?」

 おずおずと口を開く。今度は一平が目を見開く番だ。

「一平さん、私のこと妹みたいに思ってるって――だから、辛くなるから、妹のままでいなきゃって――」

 その先を続ける前に抱きしめられた。一平の首筋まで赤い。

「妹にこんな真似、しないよ」

「――うん」

「納得できないなら、優の気のすむまで言う」

 背中に回された一平の腕に力がこもる。

「好きだよ、優」

 耳元で囁かれる。

「優のこと、大事すぎて離したくない」

 額に一平の唇が触れる。

「妹とも他の誰とも違う。俺にとって優だけが特別なんだ」

 一平の体温に包まれながら、自分の中で気持ちが膨れ上がっていくのがわかる。膨れ上がっていっぱいになって、あふれだしてしまう。どうしても言わずにいられない。

「私も、好き。一平さんが大好きなの」

 優の言葉に一平が破願する。今まで見た中で、一番幸福そうな顔だと優は思った。

(私が一緒にいることで一平さんのこの幸せそうな笑顔を守れるなら――ううん、そうじゃなくて私が一緒にいたいんだ)

 大好きな人のそばに。


 一平の顔が近づいてきて、優は自然に目を閉じた。

 あたりは静かで、ただ降るような星空と木々の間を泳いでいく風が重なる二つの影を見守っていた。


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