後編
イギリス首相が来日するまで、もう時間も無い。
首脳会談の後、銀座の街を視察する予定と聞いて、実際のコースを歩いてみた。
途中、喫茶店に立ち寄って考えてみる。もし俺がアイアン・ハッグなら、どこで首相暗殺を試みるだろうかと。
テラス席から銀座の街を行き交う人々を眺めつつ、頭の中で想像を広げる。
(……それにしても、注文したコーヒーが出てくるのが遅いな)
辺りの席は全て埋まって、混雑している。気長に待つこと数分、やっとコーヒーをトレイに乗せたウェイトレスがやってきた。
「お待たせしました――あっ!」
ウェイトレスがテーブルの上にカップを置いた瞬間、彼女の指がカップの取っ手に引っ掛かった。
テーブルの上でカップが横に倒れ、中に入っていたコーヒーが流れていく。俺も膝の上を、少しばかり濡らしてしまった。
「申し訳ありません! 大変失礼しました! お着替えをお持ちしますので、こちらへ……」
ウェイトレスは大声で謝りながら、グイグイと俺の腕を引っ張る。
そこまで大事には至らなかったが、彼女は俺の言葉なんかには耳を貸す気配を見せない。
ウェイトレスに引っ張られるまま、俺は店の奥へと連れられていった。
やがてドアが開けられ、押し込まれたのは更衣室。そこで俺は、彼女と向き合い言ってやった。
「その制服は、ここで調達したのか……アイアン・ハッグ?」
その名前を出されて、ウェイトレスの表情が凍り付く。
悪いが、その綺麗な顔と何よりHカップのおっぱいは、一度見たら忘れられないぜ。
「今回は俺も、ズボンを脱がざるをえない状況だな……」
「えぇ、そうね……ねぇ、ここなら誰にも見つからないし、声も聞こえないわよ……」
「そうか、そいつは都合が良い……誰かを暗殺するにはな」
アイアン・ハッグが俺を更衣室に連れ込んだのは当然、情事のためじゃない。
俺も、そんな気は起こしていないし、敵の作戦も読んでいる。振り向きざま、曙光を構える。
俺を狙った凶弾は、曙光の鞘に弾かれて壁へとめり込んだ。
更衣室の窓が半分だけ開かれ、そこから銃口が差し込まれている。
窓の向こうにいる人物の顔は見えない。そいつは俺の暗殺に失敗したと分かると、凶器を引っ込めて素早く退散していった。
チラリと見えた拳銃は、形状からサイレンサー付きのワルサーPPKだったと判断できる。
(ヤツを追うのは、後だ。今は――)
相変わらず、はしっこい。
アイアン・ハッグは、俺が窓の外に気を取られている内に更衣室を出ていった。
が、今度はお前の思い通りには行かないぜ。
「動くな! アイアン・ハッグ、お前には首相暗殺の計画を企てた嫌疑が掛けられている。事情聴取に応じてもらうぞ!」
アイアン・ハッグが開けたドアの先から、ベスの声が威勢よく響き渡る。
私服警官の大群を従えて、得意気な様子だ。
アイアン・ハッグは驚愕の表情で俺を振り向く。
そう、俺を罠にハメるつもりが、逆にお前がハメられたって訳だ。
銀座の下調べをしていたのは、俺だけじゃない。俺が立ち寄った喫茶店の客も、全員がイギリス側の人間だったのさ。
「本当に……私の負けね。ねぇ……貴方が取調べしてくれるなら、何でも話してあげるわよ」
観念したアイアン・ハッグが、俺にすり寄りながら囁いてくる。
俺が身を引くと、彼女の腕を両側から私服警官が取り押さえて、外へと連行していった。
ベスは、俺と並んでそれを見送る。首相暗殺を未然に防げた自信からか、ベスはいっそう尊大な態度で接してきた。
「オイ、ヤマト。お前がホテルで言った意見を、私が取り上げてやったおかげで解決できたな。もし本当に日本で暗殺事件など起きようものなら、日本は世界中からバッシングの嵐だったぞ」
全ては、自分の手柄と言いたいのか。可愛くないヤツめ。
だが、見下した物言いの中にも感じられるものがある。こいつ自身、俺に借りがあると分かっているようだ。
「ベス、一つ提案がある。アイアン・ハッグからは、まだ有力な情報を聞き出せる見込みがある……連合王国にとって、有益な情報だ」
「何だ? ここで言ってくれれば、我が国の捜査官が聞き出してやろう」
この女なら、そう言うと思ったさ。
しかし、ここで強硬に出ては水の泡。あくまで下手に出るのが、得策。
ちょうどベスも、アイアン・ハッグを捕らえたことで慢心していることだしな。
「……その捜査官に、東アジア出身の人間はいるのか? これは、極東の人間だけに通じる、微妙なニュアンスが必要なんだがな……」
「ふむ……よし、その聞き出した情報は全て我々に開示するという条件で、お前もヤツの取調べに協力することを許可しよう」
やはり、俺への警戒を緩めているな。
忘れるなよ。最初にお前自身が言った通り、俺は貴国の防諜機関を破ったスパイなんたぜ。
* * *
そして、イギリス首相来日の日がやってきた。
スケジュールは滞りなく進み、首相は今、銀座三越を訪問中だ。
アイアン・ハッグの自供によれば、殺し屋はもう一人いるとのことだった。
それが、喫茶店の更衣室で俺を狙った犯人に間違いない。
その情報は約束通り、ベスに伝えた。その暗殺者が当日、どこから首相の命を狙うかの情報も“アイアン・ハッグが言った通り”教えてやった。
案の定、ここにベスたちの姿は無い。
この場所――三越を見渡せる位置にあるビルの屋上にいるのは、ミズホと俺……そしてアイアン・ハッグの情報通り、ライフルを構えた殺し屋だけだ。
「引き金から指を離して、両手を上げろ。お前の計画は、完遂すること無く終わりだ」
殺し屋より先に、この場所に来て隠れていた俺たちが敵の背後から飛び出す。
三越から首相が出てくる瞬間に意識を集中させていた敵は、突如として上がった声に相当驚いたようだ。ライフルを放り出さんばかりの勢いで、こちらを振り返ってきた。
「なっ……いつから、そこに……!」
そいつはアイアン・ハッグとはまるで違う、凶相の男だ。いかにも、殺人を生業にしてるってツラだな。
「お前の企みは、とっくに知られていたんだよ。さっさと、銃を捨てな」
まさかアイアン・ハッグが口を割るとは、露ほども思ってなかったようだな。
敵は冷や汗で顔を濡らして、怯んでいる。そして言われた通り、ゆっくりとライフルを下に置いていく。
その動きに注視していると、奴は反対の手で拳銃を取り出した。喫茶店で俺を狙ったのと同じ、ワルサーPPKだ。
俺とミズホは、あらかじめ手にしていた互いの刀を合わせる。
「曙光!」
「暁光!」
青空に浮かぶ太陽と、同じだけの輝きが俺たちの手から生み出される。
それは、二人の絆を象徴する希望の光だ。
「日いづる国の天照らす聖剣!」
俺が持つ曙光とミズホの暁光が重なる時、俺の手には陽光の輝きをたたえた真剣――旭光が握られる。
殺し屋は俺に向かって、拳銃を撃とうと狙いを定める。引き金が引かれるタイミングに合わせて、俺は旭光から発せられる眩い光を奴に浴びせてやった。
目がくらんだ奴が撃った銃弾は、まるで見当違いの方向へと飛んでいく。
「酷いガク引きだな。それじゃ、プロは名乗れないぜ」
敵が視力を取り戻す前に、俺は素早く距離をつめて旭光を振りかぶる。
奴が持つ拳銃もライフルも、この一撃でバラバラに吹き飛ばしてやる。
「旭光・爆裂無尽斬り!」
光の剣は、銃器もろとも敵の身体にも衝撃を与える。
あえなく気絶した敵を抱えて、俺たちは屋上から地上へと下りた。
「ヤマト……そいつはッ!」
一階まで建物を下りて外に出ると、そこでベスと出くわした。
屋上を照らした旭光の光に気付いて、ここに辿り着いたみたいだな。
「今回は、そちらの手を借りずに済んだな。この男が、アイアン・ハッグと一緒に日本に入り込んだ……もう一人の殺し屋だ」
未だ気を失っている男の顔を拝ませてやれば、高慢なベスの顔がわなわなと震え出す。
「どういうことだ……? アイアン・ハッグの話では、こいつの配置場所は“セイコー”の建物の屋上じゃなかったのか?」
「あぁ、そう言ったな。だから、お前は三越の向かいにあるセイコーの時計台に上っていたんだろう。そして、俺たちは“ココ”に目を付けた訳だ」
俺たちが下りてきた建物の一階に入っている店を、ベスに指し示す。
ベスは俺の言葉の意味が理解できないといった具合に、目をしばたたいて呟いた。
「フルーツ……ショップ?」
そう、そこは銀座の千疋屋。
俺は最初から、ここに目を付けていた。そして、それをベスにも伝えた。
「俺は、確かに言ったぜ。敵が現れるのは、フルーツの建物の屋上だとな。ただし、香港出身のアイアン・ハッグの言葉通り……“水果“の建物とな」
「コレ、広東語でフルーツって意味だよ!」
語学に精通したミズホが、横からニッコリと笑いながら補足する。
ミズホにそのつもりは無くとも、自信家のベスにとっては大層な皮肉だ。
不勉強を指摘されて、さてベスは憤るか悔しがるか。反応を待っていると、思いがけず自嘲した。
「フッ……私の期待通りの男で、安心したよ。私の言いなりになるような、つまらない男に用は無いからな……」
負け惜しみかと思ったが、あるいはそれがベスの本心なのかもしれない。
初めから、俺の実力を試すつもりでいたのか。素直じゃない女だ。
「あぁ……今回は、お前の手柄にしておいてやろう。だが、常に私の上を行けると思うなよ? また、いずれ……世界的に大きな事件が起きた時にでも、楽しませてもらうぞ」
俺たちに背を向けて、自分が護るべき対象のいる三越方面へと戻っていくベス。
俺自身、ベスの鼻を明かすつもりが無かった訳じゃない。そういった思いからも、何としても俺の手で暗殺を防いでやろうと意気込んだのも確かだ。
(ああいう手合いと張り合うことで、任務もより上手く行くことがあると言ったところか。次に会う時にも、そうして俺が解決に導いてみせるぜ)
ベスが言うような、世界的な大事件……そいつは、この一九九〇の夏に早くも発生することとなる。
中東にあるイラクが、隣国クウェートとの国境を越えて侵攻するという大事件。その足音が、そこまで聞こえていた。




