前編
年が明けた平成二年(一九九〇年)。早速の大仕事がやってきた。
イギリス首相の来日――それに先立って、イギリス警察がドヤドヤと日本に押し掛けてきた。
日本での警衛警備について、警察庁と綿密な打ち合わせを重ねているそうだ。
俺には何故か、その警察庁への出頭命令が下された。
(また、面倒なことが待っていそうだな……)
その予感は、見事に的中した。
警察庁に足を運んだ俺を待っていたのは、イギリスの警備警察の面々。
その中でも異彩を放つ、若い女が声を掛けてきた。
「来たか……お前の名前は、我が国でも知られている。MI5を潰してくれた、要注意人物だとな」
名乗りもせず、いきなり挑発されては良い気分はしない。
一見して理知的な美女だが、尊大な態度がそれを損なっている印象だ。
「お前を呼んだのは、一つ聞きたいことがあるからだ。それだけに答えてもらおう。では、聞くぞ……アイアン・ハッグという名を知っているか?」
聞いたことの無い名前だ。
しかし、その名前が持つ意味は大体だが想像が付く。
「……そいつが、貴国の首相の命でも狙っているのか?」
「フン……お前は、私の質問にだけ答えればいい。その答えについて考えるのは、我々の仕事だ」
「そうかい……だが、こちらも内閣の端くれでね。そちらの所属を名乗ってくれなければ、内政に関わる重要な情報は渡せない」
女は、俺がそう回答するのも計算ずくであったようだ。鼻で笑うという、挑発的な態度を取ってくる。
相手の立場によっては、口に出来ない情報もある。それを踏まえて、女が自分の所属を言うとも思えないが……さて、どう出てくる?
「所属は、秘密情報部。名は、ベスで通っている。これでいいか?」
秘密情報部……MI6か!
映画でも名高い、イギリスの諜報部……真実とは限らないが、出まかせで口にする名前とも思えない。
それに、MI6が捜している相手となれば、なおさらアイアン・ハッグとやらが殺し屋の可能性が出てくる。
ベスの態度は気に入らないが、ここは協力の姿勢を見せておこう。
「お会い出来て光栄だ。俺の方は、名乗る必要は無いな。アイアン・ハッグとやらだが……残念だが、日本側では何も掴んでいない。この日本に入り込んでいる確証があるのか?」
俺からの質問に対しては、ベスは素早く手を出して遮ってくる。
どうやら有益な情報を持っていないと分かれば、俺のことはもう用済みらしい。
「理解してくれると思うが、我々の任務は極秘だ。日本政府……特にお前は、邪魔をしないでくれ」
分かった、分かった。そうジェスチャーで応えて、俺は警察庁を後にする。
話になりそうにない相手と問答を続けるよりも、俺は俺の情報網を駆使した方が早そうだ。
電話を掛けた相手は、アメリカの国防情報局……俺のカウンターパートだ。
「アナ、急な電話で悪いが教えてほしいことがある。アイアン・ハッグ……この名前、そちらで何か掴んでないか?」
「私に電話くれて嬉しいわ、ヤマト。それに、貴方の役にも立てそうよ」
受話器の向こうで応えるアナの声は明るく、その内容は俺にとっても喜ばしいものであることを期待させた。
こういう時に、信頼できるカウンターパートを築いておくのは自分のためになる。
「アイアン・ハッグ……そいつは、香港を拠点にしていると思われる暗殺者よ。確か……連合王国の首相が日本を訪問するのよね? 気を付けて……そいつは、本国よりも警備が手薄と思われる日本で、首相暗殺を目論む公算が大きいわ」
「あぁ、分かっている……助かった。礼を言うよ、アナ」
本心からアナに感謝して、俺は電話を切る。
アイアン・ハッグ……来るなら、来い。日本の威信を損ねるようなマネは、この俺が阻止してやるぜ。
* * *
英国首相がお見えになる日まで、まだ時間がある。
首相が日本滞在の間、宿泊するホテルを念のため調査しておきたい。
そんな情報は無論、警備の都合上、教えてはもらえないだろう……そう思ってダメ元で尋ねてみたら、案外とすんなり教えてもらえた。
その上、俺にも同じホテルの一室を用意してくれるとは。
日本政府も見習ってほしい気前の良さだ……などと、うわべだけで判断するほど俺もお人好しではない。
ベスの態度といい、英国は俺を信用していない。むしろ監視を付けて、行動を制限したいと思っているくらいだろう。
しかし、ここは日本。イギリス本国のように、公安警察やMI5が我が物顔でターゲットをマーク出来る訳ではない。
その俺が、自分からカゴの中へと入ってきた状況を、彼らも逃したりはしないだろう。
(まぁ、いいさ。俺の敵は英国じゃなく、アイアン・ハッグだからな)
ベスたちには、好きにさせておけばいい。そう考えて、俺は指定されたホテルを訪れた。
フロントで尋ねると、ご丁寧に部屋番号まで指定されている様子。
ホテル側にも話は通してあるらしく、安全を証明するために隅々までチェックしてくれとのことだ。
とりあえず部屋に荷物を置いて、本格的な調査はそれからだ。
日本では珍しい女性のベルボーイ――ベルガールと呼ぶべきか――が、荷物を運んでくれる。
目鼻立ちが、はっきりとした美人だ。その上、Hカップはあろうかという巨大なおっぱいと相まって、モデルにでもしたいくらいだ。
そのベルガールに案内されて、部屋の前までやってきた。荷物を受け取ろうとすると、部屋の中まで持って行ってくれるとのことだ。
お言葉に甘え、彼女が開けてくれたドアを先に通る。そこで、首だけで振り返って一言。
「最近のホテルは、サービスがいい。教育が行き届いてるようだ」
「ありがとうございます。お客様には、失礼が無いよう言いつけられていますので」
「ほぅ……それは、どこの“夜総会”か“舞庁”で教わった?」
「はい、私は――」
言いかけてハッとしたベルガールの手を素早く掴んで、部屋の中へと引き入れる。
うっかり答えそうになったことで、ボロが出たな。
「引っ掛かったな……香港からの長旅、ご苦労さん」
「な、何のことでしょう……? えぇ、私は香港出身ですが、れっきとしたこのホテルの……」
「とぼけんなよ。“夜総会”や“舞庁”上がりのホステスを雇用するには、ここのホテルは格式高いぜ」(※夜総会と舞庁は、どちらも香港の性風俗店)
俺の指摘を受けて、ベルガールは表情を曇らせる。
その貌すら、色気が漂うようだ。
「鬼婆と言うからには、どんな醜悪な顔を拝めるかと思っていたが……殺し屋にしておくには、もったいないな」
反論は無し……こいつが、アイアン・ハッグで確定だな。
正直、一目見ただけでは、この女がそうだとは見抜けなかった。
ホテル側にイギリス警察やMI6の息が掛かっている以上、それらが放った女性捜査官という線もあり得るからな。
だから、カマを掛けてみたんだ。このベルガールが俺の監視役なのか、それとも殺し屋なのか、あるいは無関係の人間なのかを見極めるために。
「……やられたわ。私の名前まで、見抜いていたなんて……さすが、MI5の名を地に落としたと言われる男だけあるわね」
こいつ……俺のことを知っている? それで、俺に近付いてきたのか。
首相暗殺を行う上で、MI6より俺の方を警戒していたという訳か。
自分の目的を妨げる最大の要因として俺を見込み、亡き者にするのが目的だったか。
「負けたわ……ねぇ、騙そうとしたお詫びに、ベッドの上で私と楽しまない?」
そう言いながら、女はベルガールの制服を脱ぎ始めていった。
上半身をはだけさせ、見事なHカップの谷間をさらけ出す。本当に、夜総会か舞庁の小姐じゃないのか。
「ベッドの上で刺すのは、男の役目だぜ。女に刺される趣味は無い」
海外でならともかく、日本国内でハニートラップに引っかかっては、末代までの恥だ。
しかも鼻の下を伸ばしている間に命を奪われたりした日には、死んでも死に切れない。
アイアン・ハッグからの申し出をクールに断っていると、部屋のインターホンが鳴らされた。
「……ベルガールが客室に荷物を運んだまま戻らないんで、別の従業員が呼びにでも来たか? いいや、違うな。賭けてもいい、部屋の前まで来ているのはMI6だ。この部屋には、監視カメラが付けられているからな」
確かめた訳じゃないが、半分以上はハッタリじゃない。
MI6なら、そこまでやったとしても不思議ではない。監視カメラの映像を見て、アイアン・ハッグを捕まえるチャンスだと思って駆け付けてきた可能性は十分ある。
「俺がドアを開けなくても、マスターキーぐらいは用意してるだろうな。いいか、大人しくしてろよ」
半裸のアイアン・ハッグと向き合ったまま、ジリジリと扉の方へと歩み寄る。
その間、敵は衣服を戻す動きすら見せずジッとしている。
ドアまで辿り着くと、返事をしてノブを回す。勢いよくドアが開かれ、数人がドカドカと室内に入り込んできた。
その先頭に立っているのは、あのベスだった。彼女は俺のことなど見向きもせず、部屋の奥まで突き進んでいった。
「くっ……ヤツは……? どこに隠した、お前!」
ベスの後を追うと、彼女は室内をキョロキョロと見回して声を荒げていた。
その言葉の通り、アイアン・ハッグは姿を消していた。ほんの一瞬、目を離したスキの早業だ。
「さて、ね……ビデオを巻き戻して見てみたら、どうだ?」
ベスは憎らし気に俺を睨みつけると、大股に部屋を出て行こうとする。
その背中に、一つだけ助言をしてやった。
「ただ……ヤツは近い内に、また顔を見せるだろうさ。首相の前にまず、この俺の命を狙いにな」




