第四話 ハニートラップにはご用心
それほど広くないパブの店内は、ほとんどのテーブルが既に埋まっていた。
俺はカウンターに腰掛けて適当に食事を注文すると、周囲の会話に耳を傾ける。
聞こえてくるのは、大半が英語だ。街と隣接するアイルランド・ドニゴール州で話されるゲール語でなければ、俺にも聞き取れる。
(しかし……どうも、俺が期待した内容とは違うな)
プロテスタント系住民と切り離された場所、かつ酒の席となれば、カソリック系住民たちが抱える不満なども聞けるかと思ったが。
実際に耳に入ってくる話題は、イギリス政府や警察に対する不満とは無関係の、彼らの穏やかな日常の断片だった。
「こんばんは」
周囲の会話に聞き耳を立てていると、すぐ側で女の声がした。
明らかに、俺に向けて挨拶をする声が。
「……こんばんは」
無視すれば、かえって怪しまれる。そう考えて返事をする。
相手は、二十代半ばの女性。身長一七五センチの俺と、さほど変わらない長身だ。
だが、より特徴的なのは赤い髪と鼻の上のソバカス。肌自体は白いから、それが余計に目立っている。
(ケルト系……か?)
典型的なヨーロッパ系の美女とは異なるが、どこかエキゾチックで柔らかな温もりを感じさせる不思議な魅力がある。
何より目を引くのは、はち切れそうな胸元……見立てではGカップはありそうな、巨大なおっぱいだ。
「珍しいお客さんだね。中国人?」
「あ……いや、日本人だ」
視線を彼女の顔に戻して答える。
確かに、店内では俺以外にアジア系の客はいなかった。
あれだけテロのニュースが放送されれば、観光客の足が遠のくのも頷けるか。
「へー、日本人! 会ったの初めてだよ。記念に一杯オゴらせてよ」
アイルランド人というのは、愛想が良く人懐っこい。穏やかな反面、ケンカっ早いところもあるが後腐れは少ない。
酒と歌と踊りが大好きという……ノゾミから聞かされた土佐っぽの気質に、どこか似ている。
彼女にしてみれば当たり前の交流の仕方なんだろうが、少し躊躇する。
「……悪いが、飲めないんだ」
チラリと辺りを窺えば、どのテーブルもかなりの速さで飲んでいる。
中にはギネスビールをチェイサーにして、アイリッシュウィスキーをストレートで飲むような酒豪までいる程だ。
俺の身体は十七歳……まだ、アルコールを分解する機能が出来上がっていない。彼らに合わせて飲んだりしたら、たちまち正体を無くしそうだ。
「そうなんだ。じゃあ、アルコールが入ってなければいいよね。私が作るよ」
せっかくの申し出を断った俺に嫌な顔もせず、彼女はカウンターの向こうへと立った。
店員ではないようだが……よくあることなのか、バーテンダーも気にする素振りを見せない。
手際よく三種類のジュースをシェイクして注いだグラスを、俺の前に出してくる。
鮮やかな金糸雀色をしたカクテルだ。
「このカクテルの名前は“シンデレラ”……十二時までの魔法を見せてくれるよ」
「……そいつは、素敵だな」
実態はオレンジとレモンとパイナップルのミックスジュースなんだろうが、気取った名前が一つ付いただけで感じ方も変わってくる。
心の中ではスパイらしくウォッカマティーニを呷っているつもりで、シンデレラを喉へと流し込む。
程よい甘みと酸味のバランスは、確かに魔法のような清涼感を生み出していると感じた。
「どう? 美味しい? 良かったら、もう一杯……作ろうか……。今夜……は……私……と……」
彼女の声が、どんどん遠のいていく。
違う……俺の意識が、おぼろげになっているんだ。
(しまった……眠り薬、か……)
抵抗しようにも、既に手足に力は入らない。
眠らされるだけなら、直接は死の危険は無い。だから、俺の予感も働かなかった訳か。
とは言え、こんな単純なハニートラップに引っかかるとは。
(俺としたことが……クールじゃ……なかった、な――)
* * *
「お目覚めかい? ミスター・シンデレラ?」
気が付くと、そこはどこかの狭い部屋の中だった。
地下なのか、それとも隔離された場所なのか。部屋の外の音は聞こえてこない。
俺の身体は当然と言うべきか、拘束されていた。
椅子に座らされた状態で手を後ろ手に組まされ、背もたれに縛られている。両足も椅子の脚にロープでくくり付けられていた。
目を醒ました俺に声を掛けたのは、魔法のカクテルを作ってくれた赤い髪の女だった。
「……膝は撃ち抜かなくていいのか?」
北アイルランドの武装組織――IRAは、グループ内での処刑として膝の上をピストルで撃つという話を聞いたことがある。
捕まえた俺を逃がさないため、あるいは拷問のために同じ手を使ってきてもおかしくはない。
「……私たちは、IRAじゃない」
女は俺の発言を冷ややかに否定した。その言葉の通り、俺の身は縛られてはいるものの外傷は無い。
IRAではない……だが、単独犯でもない。彼女は今、確かに「私たち」と言った。
次第に頭が完全な覚醒へと向かっていく。それと同時に、パブで眠り薬を盛られた時の記憶も蘇ってくる。
(あの時……グラスやシェーカーに、材料となるジュース以外の物を入れているような様子は無かった。ということは、俺が店に入る前からジュースか容器のどちらかに薬を仕込んでたことになる)
俺が、どの店に入るかなんて分からないはず。
つまり、捕らえる対象がいつ店に来てもいいように、普段から仕込んでいたってことか。
バーテンダーが何も言わなかったのも、この女の仲間だから……いや、もしかしたらパブにいた客も全員が……。
「……日本人というのは、本当みたいだね。……イェイ……マット……」
「……ヤマトだ」
女は、俺の荷物の中から取り出したパスポートを開いて、国籍を確かめていた。
日本人の名前の読み方が分かってなさそうだったので、自分から名乗ってやる。
「で……アンタの名前は? これから俺は尋問されるんだろう? 互いの名前が分かっていないと、不便だと思うが?」
「……メイヴと呼びな」
赤い髪の女――メイヴと俺の他に、部屋の中に人はいない。
部屋は狭く殺風景で、家具は俺が座らされている椅子以外には無い。
その中で、メイヴが背にした壁。そこに貼られた二つの旗が、存在感を放っている。
一つは、緑と白とオレンジの三色旗――アイルランド共和国の国旗。もう一つは、独立以前にアイルランド民族の象徴として用いられた、緑地に竪琴が描かれた旗だ。
どちらも英国国旗に組み込まれた、白地に赤いクロスじゃない。
(この二つの旗を掲げているところに、メイヴたちの主張が表されている。北アイルランドの連合王国からの離脱と、アイルランド島の統一を目指しているという主張。ということは……)




