第三話 北アイルランドの風は冷たい
ロンドンでの調査(名目は研修)を一度打ち切った俺は、宿泊していた民宿も引き払い出発の準備を整えた。
官房長官からもらった費用と相談して、どこを回るかは既に決めてある。
(まずはアイルランド首都ダブリン……そこから北アイルランドを目指す)
そのためには、海を渡って西のアイルランド島に行かなければ。
英国とアイルランドは、協定によって出入国に際して面倒な手続きは一切無い。
ただし、それは普通の旅行者の場合だ。俺は違う。
(日本からイギリス警察に潜入したスパイ……その上、公安相手に国際問題になりかねない発言までしている。すんなり渡航を許してくれるか……)
最悪の場合は、“好ましからざる人物”の烙印を押されている可能性もある。
そうなれば国外退去処分にされ、日本へと送還の身。入国審査の厳しい英国での調査は、かなり難しくなるだろう。
(が……今のところ、そういった御沙汰は無いな)
何か通達があれば、宿泊先に届いているはず。それとも、ひとまず滞在は許しておいて泳がすつもりか?
そうなると警戒すべきは、俺を張っている公安警察の私服だ。しかし、そんなのが尾けている気配も無さそうだ。
(俺のことは、まだスパイだとはバレていない……一丁前な口をきいてくる学生ぐらいにしか思ってない証拠か)
不安が消えれば、後は行動するのみ。
ロンドンを発った俺は、ウェールズの港町ホリーヘッドに到着。ここからフェリーで海を越えて、対岸のダブリンに入る。
一日掛かりの移動となったが、貧乏旅行の身だからなるべく飛行機には頼らない。
ダブリンの安宿にチェックインし、ここを拠点にイギリス警察の足取りを探っていく。
しかし――。
(めぼしい収穫は無し……やはり、北アイルランドを目指すか)
ダブリンでの調査に見切りを付けると、翌日は朝早くから移動を開始した。
アイルランド島には三十二の州があり、その内の二十六州がアイルランド共和国のもの。島の北端にある残り六州がイギリスの一部となっている、いわゆる北アイルランドだ。
ダブリンから、北に向かって走るバスに乗って四時間ほど。窓の外の風景が一変した。
それまで途切れ途切れに見えていた小さな村の代わりに、現れたのは南北をはっきりと区切る鉄条網。
のんびりと草を食む牛や羊の群れに代わって、そこに立つのはライフルを手にした迷彩服の兵士。
(国境だ――)
物々しい光景に、俺も思わず身を引き締める。
一応、英愛の協定はここでも生きているようで、入国自体はすんなりと行った。
乗客の荷物やパスポートのチェックなども無く、鉄条網脇の小屋の前に立つ兵士が、さっさと通れとばかりに手を振って終わりだ。
そこから更に、バスに揺られること一時間。目的地を告げる標識に書かれている都市の名前は、“■■■■デリー”。
(日本を旅立つ前に調べて知っていたが……実際にこの目で見ると、否が応でも対立というものを意識しちまうな)
俺が訪れた北アイルランドの街は、イギリス政府による名称はロンドンデリーという。
元々はデリーという名前だったのを、この地にやってきたイギリス人がロンドンデリーと改めたそうだ。
地元のアイルランド系住民は、イギリス人が付けた都市名を避けて昔の通りデリーと呼んでいるという話は聞いていた。
しかし、案内標識に書かれた“ロンドン”の文字を塗りつぶすくらい徹底していたとはな。
(……街の中は、それほど住民同士の対立が表面化している様子は見えないな。東側は、プロテスタントの居住区……アイルランド系住民の姿が見えないせいか?)
デリーは、街の中を流れるフォイル川によって東西に分けられている。
その西側にはアイルランド系のカソリック住民が多く住み、東側にはイギリス系のプロテスタント住民が住んでいるという話だ。
両者のエリアが棲み分けされているから、住民たちの暮らしの中に対立は表れていないのか……その棲み分けが、他ならぬ目に見える対立の図式だな。
(だが、日本でも連日ニュースになっているIRA暫定派のテロ事件……ここデリーで、その嵐が吹き荒れていないとは思えない)
だからこそ俺は、デリーの東側を訪れた。
バスを下りて訪問したのは、街の中心地に位置する警察組織――王立アルスター警察隊のオフィスだ。(※アルスターは、北アイルランド六州を含んだアイルランド島北部地方の名前)
残念ながら、ここではイギリス大使の紹介状も通じず怪訝な顔をされるだけで終わった。
IRA暫定派の所業と思しき爆破事件の記事を見せても、見ず知らずの日本人に捜査資料の開示などしてはくれなかった。
仕方なくオフィスを後にしようとしたところで、何かの予感が俺の背筋を凍らせた。
(死……俺だけじゃない。もっと大勢の……この場にいる全員を巻き込むぐらいの……)
俺には、危機に直面した際にそれを回避できるだけの予感――予知と呼ばないのは、あまりにも曖昧な感覚だからだ――が備わっている。
その正体が何なのかまでは分からないものの、明らかにこの警察オフィスの一階に死の予感がある。
そいつが強く感じられる一角を突き止める。そこにあるのは、何の変哲もないゴミ箱。
だが、咄嗟にそこに仕掛けられた死の予感の正体を察して、俺はフロア中に響く声で叫んだ。
「爆弾だ! 爆発物処理班を呼べ!」
* * *
緯度の関係から、アイルランドは午後四時には日が沈み暗くなる。
警察オフィスを出た俺は、夕闇を背にして太陽が落ちていく方角に向かって歩いていた。
やはりIRA暫定派が起こした爆弾テロに、ここデリーの警察も敏感になっていたんだろう。
あの後、すぐに爆発物処理班がやってきた。そして俺が察した通り、ゴミ箱の底に仕掛けられていた爆弾を速やかに処理してくれた。
(デリーに来たのは、正解だな。ここでの調査は、もう少し続けてみる価値がある)
IRA暫定派の闘争が激しい地における、イギリス警察の対策を直に見てやろう。
とりあえず今日のところの調査は切り上げて、夕飯と宿を求めることにする。
フォイル川を渡って、街の西側へとやってきた。こっちはアイルランド共和国と隣接する、カソリックの居住エリアだ。
茶色いレンガの街並みと、それを取り囲む城壁。そして、恐らく住民たちにとっては永遠に忘れられない惨劇の舞台――ボグサイドと呼ばれる地区に立つ。
荷物を入れたバッグを背負ったまま、俺は一軒のパブに入った。通りに面した所に店を構えてて、人の出入りが多そうだ。
(ここなら、何か腹を満たす物……それと、現地住民の生の声も手に入るだろう)