83話 蜂
昼が過ぎていた。
部屋の壁には飯田家のあの黒く重い槍が立て掛けられている。
すでに昼食も済ませていた。
今、俺は上半身裸でいた。
音羽が小刀と竹の毛抜きを手にしとる。
肩の傷を縫った糸を取ってもらう為やった。
お香もじっとその様子を窺っている。
プチン、プチンと糸を切ると音羽は毛抜きで俺の肩から糸を抜いてゆく。
「……あぁ……」
それが地味に痛い。静かな部屋の中やから尚更痛く感じる。
「……くぅ……」
傷跡から糸を引かれる度に痛みが身体に染み渡る。
「しばしのご辛抱」
十四の音羽が落ち着いてそう言う。
「……あぁ……」
頭では分かっとるがほんまに地味に痛かった。
俺は歯を食いしばりその痛みに耐え抜いていた。
お香はまだ正宗の鞘を手にしながらも、俺のその様子を無言のまま見詰めている。
音羽は丁寧に少しずつ俺の肩から糸を抜いていった……
「私もその内、首の糸抜くんだね」
お香がそう呟き音羽にそう言った。
彼女はさすがに正宗を畳の上に置いとった。すぐ側にやけど。
「そうどすね、そやけどご無事で何よりどしたなぁお香さん」
「ふふ……そうだね……」
「二郎さんのおかげどすよ?二郎さん懸命になってお香さんの事助けようとしてましたもん」
音羽がそう言うとお香が俺を見詰め微笑んだ。
音羽……何を言うとんねん……
俺は照れ臭くなりお香から視線を逸らした。
と、その時やった。
ブーンと羽ばたく音が聞こえた。
開けられた窓から黄色いもんが入ってきて窓枠に止まっとる。
蜂や、大きな蜂が入ってきよった。
「……ちょっ、蜂やん、でかいぞ」
俺は窓を指差しそう言った。
俺が指を差すと二人も窓の方を見詰める。
「えらいこっちゃ、すぐ部屋出ましょ」
音羽が立ち上がり、部屋の入り口へ向かい襖を開けた。
俺も襖の外の廊下に出たが……
お香が鞘を手にする。
まさかとは思うが何をする気なんや……
そう思うとお香が鞘から正宗を抜き出した。
「お香……無理すんな、刺されるぞ」
俺がそう言うもお香は正宗を構え窓を見詰めとる。
相手は蜂とは言え相当でかいぞ。
「見てて音羽さん、これが塚原の血だよ」
お香は床の鞘を拾うと窓枠に止まる大きな蜂目掛け投げつけた。
その瞬間蜂が飛び、お香の方へ向け襲い掛かっていった。
ビュン……
と、音がする。
お香が刀を振り抜いた。
その動きは凄まじく速く、俺と音羽は廊下でポカーンとしとった。
「……は?」
俺は小さくそう呟いた。
「え?」
音羽も小さくそう呟いている。
畳の上には真っ二つに切られた大きな蜂が羽根をばたつかせてもがいている。
俺と音羽はその様子を見て微動だに出来ずにいた。
「凄いね……この刀、おらも驚いた」
お香が刀を見詰めそう言うとるが……
驚くのはこちらの方やった。
お香の動きが半端やない。化け物が如く速かった。
今までのお香の動きよりも格段に速く目にも止まらんかった。
こいつ……人か?
そう思う程やった。
「す、凄いお香さん!!」
音羽が感嘆の声を上げとる。
俺はまだ絶句したままでおった。
『こいつにこの名刀持たしたらあかんのちゃうか……一つの村滅ぼす程の力持っとるぞ……』
「すまないね、良い刀を虫なんか斬る為に使ってしまって」
そう言いながらお香が布で刀の刃を丁寧に拭いている。
「いいえ、かましまへん。うち凄い思いました……お香さん格好よろしいわぁ……うちあんなん見たん初めてどす」
音羽が声をあげそう言うとる。
「ずっと鍛練続けたからね、だけんどこの刀やはり凄いよ……」
お香が刀を拭き終えて刀をじっと見詰めとる。
その表情は恍惚としとった。それは男に惚れたかのような女の顔。
そんなお香を音羽がまた恍惚とした顔で見詰めとる。
俺はその光景をまだポカーンとして見とった。
「……俺……無理やぞ……こいつ越える剣士になるなんて……」
俺は小さくそう呟いた……
「お香さんお美しいのに格好もよろしおすなぁ……」
あれから音羽が恍惚の表情をしたままにお香の側にずっとおった。
お香は適当に答えながら正宗の鞘をずっと握り締めとった。
俺はと言うとお香が斬った蜂の始末をしたり、飯田の槍を磨いたりしていた。
完全に蚊帳の外やった。
「はぁ……」
小さく溜め息を吐く。そやけど美人でどこか男気のあるお香のあんな勇ましい姿を目の前で見ると音羽ぐらいの年頃なら惹かれてしまうんやろなぁ。
「お香さんお首お痛あらしまへん?ご無理せず言うてくださいね……」
音羽がお香にぞっこんになっとる。
なんなんやこれは……
「お、音羽?ちょっと小便したいんやけど」
俺はお香に夢中の音羽にそう声を掛けた。
「はい、そちらの樋箱に勝手になさってください」
「仕切りとか無いか?目隠しするようななんか……」
「お香さん欲しい?仕切りみたいなん……」
音羽がうっとりとした表情でお香を見とる。
「別にいいんでないの?ね?二郎」
お香が笑みを浮かべながらそう言った。
「阿呆かお前」
俺がそう言うとお香はふふふと笑いだしとる。
「そやから仕切りいりまへんよ二郎さん」
音羽もそう言う。
はぁ……と俺は溜め息をしながら樋箱に小便をした。しゃがみこんだままに…………
「音羽お前に惚れてもうたんちゃうか?」
俺は夕食を口にしながらそう言った。
「知らね、女の子だしさ、良いんでねえの?」
お香もそう言うと夕食を口に運んだ。
時は夕刻、室内では燭台で蝋が一本だけ灯されとる。
俺らは例の如く一人分の膳を二人で食べていた。
「そやけど…………お前の動き速すぎるぞ、妖怪みたいやった」
「ふふ、何が妖怪だ馬鹿」
「あんなん……誰も避けれんぞ」
「二郎でも?」
お香は微笑みながら漬け物を口に運んどる。
俺はあの動きを思い返した。
大きな蜂を一瞬で切り裂くお香のあの動きを……
「……無理や……あんなん人じゃ無理や、しかもお前おなごやん」
「ふふふ」
「確かにおなごにしては背ぇ高いけど、男でもあんな動き無理やぞ……」
「二郎、あんたの動きも尋常じゃなく速いんだよ?」
お香が俺を見詰める。
「……そやけど……」
「あんたが私の振り避けた時の動きどんだけ速いか分かんねえ?妖怪と思ったよ?」
「ははは」
俺はつい笑ってしもうた。
「本当だ、本当にとてつも無くはええんだ」
「そうか」
「だからここ出たら又鍛練続けんべ?刀の鍛練」
「無理せんでええよ、お前の傷は致命傷寸前やったんやぞ?」
「すぐに治るよ、こんな傷さ」
そう言いお香が吸い物を口にする。
「音羽が俺じゃなくてお前に惚れてもうたからな、すぐに帰れるかな?」
「知らね、だけど可愛いねあの子」
「妙な気起こすなよ?」
「馬鹿でねえの?妬いてんの?」
「妬くかいな、少女の幼い恋心やんけ」
「私はさ、この方に惚れたからそんな気持ちになんねえよ?」
そう言うと正宗の鞘を手にした。
「……ただの刀やん……」
俺はそう言い刀から視線を逸らし吸い物を口にした。
「ふふふふ、嫉妬してんの?」
「するかい……」
「あははははは」
お香がそう笑った時やった。
さっと襖の戸が開かれた。
「お香さん!二郎さん!すぐにお逃げください!!」
血相を変えた音羽が俺らにそう言った。
……何かあったか……
俺は壁に立て掛けられた飯田の槍を手にした。
お香も瞬時に真剣な眼差しになり、鞘から正宗を抜いた。
「お香、お前はなるべく大人しゅうしとれ、まだ怪我癒えてへん」
「二郎、おめえさんこそ無理すんでねえ、私を甘く見るな」
「……音羽、どないした……」
「集団が門まで来とります!恐らく二郎さん襲いに!!」
徳二やろか……俺は槍を脇に携えた。
「腕がなるね」
お香が正宗を手にし、殺気を発しだしている。
「すぐにお逃げくださいませ!」
音羽がそう叫ぶが……
「音羽さん、私らが逃げておめさんは無事でいられるの?おめさんにも危害加えられる可能性あるべ?なら私らと逃げな」
お香がそう言う。
「構いまへん!もう直にここ押し寄せてきますよって!早ようお逃げくださいませ!」
「音羽、分かった、お前は安全な所に身を隠しとけ、後は俺らに任せえ」
俺は音羽にそう告げると廊下に出た。
夕暮れ時の屋敷の奥からドタドタと足音が聞こえてくる。
「ふぅぅ……」
俺は息を吐き廊下の先を見詰めた。
ドタドタドタ……
足音が徐々に近付いてくる。
「二郎、次はヘマはしないよ私はさ……」
お香が俺の隣に来てそう言った。
「だけんどもここは狭いね……大暴れ出来ねえべ」
すぐ側には庭へ出る戸があるが……
「よっしゃ!外出るぞ!」
俺は庭へ出る戸に向けて駆けた。
お香も後に続く。
戸を開け庭に出ると夕陽が庭を照らし、赤く染まっていた。
そんな庭の中心で俺らは槍と刀を構えた。
すると屋敷の廊下から雪崩れ込むようにたくさんの男達が姿を現した。
殆んどは見ぬ顔やったが、その中に見慣れた顔がおった。
徳二や。
それともう一人は陣中で少しばかり一緒におったアホ面がおった…………




