67話 保津川
夕暮れ時、辺りは少し薄暗くなりだしていたが、まだ六月十九日(現代では7月8日)、まだまだ明るかった。
今、俺は桶を持ち保津川で水を汲んでいた。
隣にはお香の姿もあり、俺と同じように桶を持ち、川の水を汲んどる。
「この川の水で俺は育っていってん」
俺は保津川の流れを見詰めてそう言った。
お香も川の流れを見詰める。
夕暮れ時、魚達が川から跳ね上がっとる。
水面に飛んでいる虫を食う為や。
「この川の水を飲み、この川の水で米を焚き、この川の水で作物を作り、それを食べて育ってきた」
いつか言ったような言葉やった。確か久にも同じような事を言うたな……
「へぇ」
お香が小さくそう呟く。
「俺にとっては命のような存在なんや」
「綺麗な川だね」
お香が保津川を見詰めてそう言う。
「私の故郷の河越にも大きな川があってさ、入間川って言うんだけんど、私もよくそこに水浴びに行ったよ、幼い頃にさ、だけど飲み水は井戸だったなぁ」
「そうか、この辺は井戸なんかあらへんからなぁ、水はとにかくこの川やねん」
「へぇ、田舎だねぇ」
「やかましいわ、変わらんやろ田舎者め」
「うるせえ」
そう言いお香が微笑む。
俺は保津川の水を畑に撒いとった。
お香も手伝ってくれていて畑に水を撒いていた。
畑では、いんげんやおくらが実っている。
「何作ってんの?」
水を撒きながらお香が俺にそう尋ねてきた。
「色々やなぁ、ミズナに大根に、南蛮渡来の獅子唐に金時人参言うのも作っとるわ」
「知らね」
「獅子唐も金時人参も食えば百人力になるらしいわ、おとんが面白がって行商人から南蛮渡来の作物の種買うんや。ぎょうさん作って又行商人や京で売れば金になるとか言うてなぁ」
俺は笑いながらお香にそう言った。
ふふふ、とお香も笑っとる。
空はまだ快晴で蝶が畑を舞っていた。
「そろそろ飯時やし、水撒いたら家に戻るか」
俺は畑に水を撒きながらお香にそう言った。
「はぁ?まだ太刀の鍛練するよ?」
「……は?」
俺は水を撒く手が止まった。
昼飯を食った後、休憩はあったものの二刻半(3時間)は鍛練をしたぞ。
しかも、ひたすら構えから摺り足で前に移動するだけの反復行動を……
「勘弁してくれ……」
「駄目だよ、繰り返さないと」
「腹減ったわ」
「鍛練終わってからだ」
そう言いながらお香が畑に水を撒く。
「……おもんないねんて、退屈やねんあの動作繰り返すのん」
「ぐだぐだうるせえ、弱音は許さないっつったろ?付きっきりで教えてやっから覚悟しな?」
お香が水を撒くのを止めて俺を見詰めそう言う。
「えぇ……ほんまか……」
俺は呟くようにそう言った。
「ほんまや」
冗談ぽくそう言うとお香は笑い出した。
「…………」
俺は半ば諦めて、無言のまま水を撒いていった……
そろそろ辺りは薄暗くなってきていた。
畑で水を撒き終えた後、再び俺は庭で太刀の訓練をしとった。
ただ竹竿を構えて、そのまま摺り足で素早く前に進むと言う動作だけを延々と……
多少の不満はあるものの俺は文句を言わず、延々とその反復動作を繰り返していた。
お香は俺が動く度に、その動作をじっと見ては、「もう一度」「もう一回」と繰り返し言っている。
ちゃんと見てくれとるんやろか……
時刻は分からんが、だいぶ日が傾いてきている。
空腹を感じ、腹がグルグルと鳴り出す。
「…………」
空腹の為に力が抜け、尚且つ無心になった俺は竹竿を構え、さっと前に移動した。
体がフワッと浮き、軽くなる感じがした。
……あれ?今の感覚……
「良いよ、晩御飯食べに行こう」
お香がそう言う。
「終わりでええの?」
俺はお香にそう言った。
「良いよ、お家戻るべ」
……はぁ……やっと終わった……
俺は家の壁に竹竿を立て掛けて、お香と並び玄関へと向かっていった……
夜も更けて、今は離れの小屋の蚊帳の中で俺一人が寝そべっていた。
もうすでに晩飯を済ませ、湯浴びも終えていた。
今日は少し疲れたな……
目を閉ざせば直ぐに眠りに就きそうな気がする。
しかし、俺は目を閉ざさずに暗い天井をじっと見詰めた。
明日再び京へ戻るんか……
小栗栖の与右衛門に槍を返さなあかん。
飯田家に伝わると言う家宝の重槍を……明智光秀であろう男を討ったあの名槍を……
問題はその後や、槍を返した後、おそらく与右衛門は俺に小栗栖に留まるように言うやろう。
その返答をどうするべきか……
音羽の事も気掛かりや……なんか知らんが俺に惚れてくれとるようや。
しかし、京に帰った久の事も気になるし……
「どないしよ……」
俺が小さくそう呟いた時やった。
ガタガタと音がして小屋の戸が開かれた。
「気持ち良かったべ、湯」
昨日と全く同じ事を言いながらお香が小屋に入ってきた。
「……また?」
俺は身を起こしてお香にそう言った。
「当たり前だ、私の寝床だ、ここは」
そう言い蚊帳の中に入ってくる。
「嫌?」
俺の横に座りそう言う。
嫌……ではなかった。
尼とは言え、かなりの美女やから……
「嫌ちゃうよ、そやけど……」
「ごちゃごちゃ言わないで、ほら、冷えるからさ」
そう言い、また俺の布団の中に潜り込んでくる。
「ほら、寝な?横になりな?」
そう言い身を起こした俺の腕を引っ張る。
「……はぁ……」
俺は小さく息を吐いて布団に横になった。
「冷えるべ?」
冷えるかな……もう夏やぞ。
しかし俺は何も言わずにいた。
お香は俺の腕に抱き付いてくる。
「……最後の動き良かったよ?」
俺にしがみつくお香が耳元でそう囁いた。
「……あぁ……」
刀の訓練の事か。
「一日であんな動き出来るなんてやっぱり、いし素質あんだね」
「分からん、そやけど腹減って力抜けただけやねんけどな」
「ふふふふふ」
お香が笑いながら俺の腕をぎゅっと締め付ける。
「だけんど、あの感じ忘れないようにね?毎日あれが出来るまで飯食わさせねえよ?」
「ええ?無理やんそんなん……」
「大丈夫だべ、おめえならね」
「……分かった……ほんなら続けるわ」
「おらが……私が無双の剣士に育て上げてやんべ」
お香が俺の手をぎゅっと握ってきた。
「ふっ……」
無双の剣士……か……
「俺は槍の方が得意やねんけどな」
「太刀の方が得意にしてやるよ?」
「俺ら足軽はな、基本的には使う武具は槍やねん。弓も鉄砲もあるけど基本は槍やねん」
「へぇ、でも関係ねえよ、太刀持ってさ、戦行けばいいべ。私も付いてくけどね」
「……え?戦に?お前が?」
「そうだよ?私はおめえさんの護衛を仰せつかったんだ。秀吉公からさ」
「……ふっ、はははは、それは京からここまで来る米俵の運搬の時だけやろう」
「関係ねえ……そう言わさせて?おめさんが戦行くならおらも付いてって護衛してやるよ」
「ふふふ、おなごが戦に行くんかい、しかも尼さんがかい」
俺は笑いながらそう言った。
「バレねえよ、頭巾かぶるし、それにおら……私は背丈でかいだろ?男物の服着てたらバレねえよ」
冗談なんか本気なんか分からんな……
「そうか、ほんなら護衛頼みますわ」
「任せといて、あとあんた鍛えあげねえとね?私より優れた剣術家に育て上げてみせるべ」
「無理や、そんなん、あんな速く動けん」
「大丈夫だ、いしには素質がある。私が言うんだから間違いねえよ」
ほんまかいな……
「もう寝るべ、また妙な事すんなよ?」
お香がそう言う。
昨夜は口付けして彼女を誘ったが……今夜は疲れて眠くそんな気は起こらんかった。
「あぁ……疲れてて目ぇつむったら直ぐに寝てまいそうや」
「私もだ……こうしてると心地よくて直ぐに寝てしまいそう……」
そう言いお香が俺の左腕に絡めた腕の力を強め、俺の手を握る力も強めた。
「……もう寝るべ?」
「そやな……」
少しだけ欲情したが、俺は目を閉ざした。
お香の温かさと柔らかさが心地よく、疲労もあり俺はすぐに眠りについていった…………




