最終章 三千年の対話と、終わらない設計図
地上は、死の静寂と赤黒い恐怖に包まれていた。学園の地下深くで起動した「反転魔法陣」の汚濁コードは、地下脈を通じて爆発的な速度で王都全域、さらには近隣の都市や大陸の主要都市へとネットワークを広げていた。かつて軍部が絶対魔力都市計画のために世界各地に埋め込んだ中継杭が次々と赤黒く光り輝き、大地を蝕む。「あぐっ……魔力が……命が引き抜かれる……っ!」「助けてくれ……!魔法が……解体できない……!?」王都の街頭では、最高級の貴金属の杖を誇らしげに掲げていた現代魔法使いたちが、次々と膝から崩れ落ちていた。彼らが誇りとしていた「無詠唱」も「高出力の魔結晶」も、根底のシステムごと強制強奪してくる反転魔法陣の前には、何の意味もなさなかった。出力を上げようと魔力を練れば練るほど、その魔力がそのまま反転回路の燃料として吸い上げられ、かえって自らの命を縮める悪循環に陥っていたのだ。「ヒッ……ヒヒッ! 無駄だ無駄だ!」地下空間で、ヴァルター教師が正気を失った笑い声を上げる。「この反転回路は、我が国の偉大な魔導技師たちが三百年かけて現代魔法の最適化コードとして組み上げた絶対のシステム!古典主義のガキ一人がどうこうできる規模ではないわ!世界中の命が枯れ果てるのが先か、我が軍が世界を平定するのが先か……いずれにせよ、旧時代の遺物は淘汰されるのだ!」
「……うるさいな」
アルスの一言が、地底の騒音を冷たく射抜いた。アルスの手に握られた歪んだ木の杖「始祖の鍵」から放たれる金色の光は、すでに地下空間の天井を突き破り、王都の空へ向けて極太の光柱となって昇り詰めていた。「アリス、準備はいい?」「……ええ! いつでもいけるわ!」アリスは二重、三重の防護障壁を自らの身に纏い、激しい魔力の奔流の中で鋭い眼光を放っていた。彼女の背後に揺らめくのは、赤・青・黄・緑・白・黒・紫。七つの属性すべてが完璧な調和を保って循環する、虹色の巨大な魔力翼だった。「僕がこれより、三千年間一族が書き継いできた全世界のネットワークを完全同期させる。世界中の反転コード(バグ)を洗い出すから……アリス、僕に迫る攻撃のノイズを全て切り払って」「任せなさい! あんたの指先一本、かすり傷一つつけさせないわ!」アリスが踏み込むと同時に、アルスは深く息を吸い込み、澄み切った声で「始祖の真実の詠唱」を紡ぎ始めた。「『世界の根幹にアクセス(ログイン)。権限照会:始祖の意志を継ぐ者』」
ゴォォォォォォォォォォォォン……!!!!
アルスの言葉に応えるように、王都の、いや、大陸全体の地平線が激しく鳴動した。アルスを中心に、黄金の光の回路が放射状に伸びていく。それは現代魔法使いたちが「無駄」と切り捨てた、大知に刻まれし無数の緻密な魔法陣。三千年分の歴史の積み重ねだった。「な……なんという魔力量だ……!? 地球……いや、世界中の大地そのものが、あのガキの演算器になっているというのか!?」 ヴァルターが両目を血走らせて叫ぶ。「コードエラー(バグ)を検出。対象……軍部が設置した反転アンカー全四千八百基」アルスの瞳に、世界中の魔力線の流れがバイナリデータのように高速で流れ落ちていく。「解体プロトコル(デバッグ)を開始する!」「そうはさせるかぁぁぁっ!」 ヴァルターが懐から取り出した禁忌の魔導具を起動し、何十もの黒い誘導弾をアルスへ向けて解き放った。命を吸い上げる黒死の魔力弾だ。「させないって言ってるでしょう!!」アリスが風のように割り込んだ。 彼女の掲げる魔導剣が、七色の光を撒き散らしながら鮮やかな弧を描く。「『七色複合連閃』!」炎の熱波が黒死弾を焼き払い、氷の刃がその軌道を凍りつかせ、風の刃が粉々に打ち砕く。七つの属性が相互に増幅し合う完璧な連続攻撃。アルスが「美しい」と称賛したアリスの魔力回路が、絶大なる戦舞となってアルスの全方位を死角なく防護していた。「アリス、すごいよ……!精霊たちの干渉波長が、僕のデバッグ速度と完全に同期してる……!」「当たり前でしょ! 私が誰の婚約者だと思ってるのよ!余計なことは気にせず、あんたの仕事に集中しなさい!」「うん……っ!」アリスの言葉に、アルスの胸の奥が熱く跳ね上がる。一人で三千年の孤独を背負ってきた少年の背中に、初めて「背中を預けられるパートナー」が立った瞬間だった。「応答せよ、世界の記憶。……僕たちの始祖が望んだのは、奪い合いのための力じゃない。世界と人が、共に呼吸するための『弁証法』だ!」アルスが木の杖を高く掲げ、大地へ強く突き立てた。
「『完全世界改変オール・デバッグ』!!」
チュィィィィィィィィィン!!!!
世界から音という音が消え去った。次の瞬間、空を覆っていた赤黒い反転魔法陣の網目が、一瞬にして黄金色の優しい光へと書き換えられていった。 不快なノイズ音は消え去り、大気を満たしたのは、まるで森林浴をしているかのような清涼で澄み切った魔力の波動だった。「な……なんだ……? 体が……軽い……!?」「奪われた魔力が……戻ってくる……? いや、それどころか……傷が癒えていく……!?」王都で倒れていた現代魔法使いたち、悲鳴を上げていた市民たちが、次々と立ち上がった。彼らを包み込んでいるのは、自然界から押し付けられる圧倒的な暴力ではなく、じんわりと心身を癒やす「自然との調和の魔力」だった。「バ……馬鹿な……!?我が軍部が誇る反転コードが……上書き……消去されただと……!?現代魔法の優位性が……こんな……こんな子供の落書きのような魔法陣に……!!」ヴァルターは膝から崩れ落ち、自身の手にしていた贅沢な銀の杖がカラカラと音を立てて床を転がった。彼が心血を注いできた「強奪のシステム」は、アルスの純粋な「調和のコード」によって完全に消去されたのだ。「現代魔法が悪いんじゃないよ」アルスは静かにヴァルターを見下ろし、言った。「自然を忘れて、自分たちだけの都合でコードを弄くったのが間違いだったんだ。……これからは、少しずつでいいから、自然との対話の仕方を覚えていってね」地下空間に満ちていた禍々しい赤黒い光は完全に消え去り、そこには穏やかな黄金の残光と、雨上がりのような清々しい空気が漂っていた。事件から数日後。「反転魔法陣」の脅威から王都と世界を救った「無名の少年」の噂は、王立魔法学園や軍部の高層部を大きく揺るがしていた。大賢者の手回しによりアルスの存在は公にはされなかったものの、現代魔法の権威たちは一新され、アルスが提唱した「環境調和型(古典主義)魔法理論」が新たな標準カリキュラムとして導入されることが決定した。
夕暮れ時。学園の最奥に佇む特別寮のテラスで、アルスとアリスは並んで腰掛け、赤く染まる王都の街並みを眺めていた。「ふぅ……これで一安心だね。学園の授業も来週から少しずつ落ち着きそうだし」アルスがブカブカの帽子を膝の上に置き、のんびりと淹れたての紅茶を啜る。「本当に……冷や冷やさせられたわよ」アリスは呆れたように溜息をついたが、その表情には柔らかい笑みが浮かんでいた。 彼女はそっと自分の手を伸ばし、隣に座るアルスの小さく温かい手に、己の指を絡ませた。「……アリス?」「なによ。文句ある?」アリスは少しだけ顔を赤らめながら、ツンとそっぽを向いた。「別に……あんたと一緒に戦って、あんたの背中を守るのも、悪くないって思っただけよ。『夫婦(仮)』の期間は終わったんだから……これからは正式なパートナーとして、覚悟しておきなさいよね」「……うん! 嬉しいな。アリスの手、すごく暖かくて……綺麗な魔力が伝わってくるよ」アルスが嬉しそうに微笑み、アリスの手を握り返す。初めは噛み合わなかった二人の歩幅が、いつの間にか完璧な隣歩調を刻むようになっていた。三千年の孤独の果てに、アルスがようやく見つけた、かけがえのない「対話の相手」。甘い夕暮れの風が二人の髪を揺らす。このまま、平穏で幸せな日々が続いていく。誰もがそう信じた、その時だった。
「……ん?」
アルスの表情が、ふと止まった。 彼の瞳の中で、微かな青い光のノイズがチチッと走る。「アルス? どうしたの?」「……おかしいな」アルスは握っていたアリスの手を解くことなく、空中に指先で小さな光の小円を描いた。先ほど解体した「反転魔法陣」の深層データ、そのさらに奥深く、始祖の基幹コードの根底へとアクセスしていく。「反転コードを完全に消去したはずなのに……その奥の『始祖様が遺したプロトコル』の最深部に……見たこともない暗号化されたエラー(バグ)が残ってる……」「え……?始祖のコードの中に……バグ!?」アリスが目を見開く。「うん。これは……三千年前の盗掘者が植えたバグじゃない。……もっと古い。始祖様ご自身が、あえて解読不能な形で隠した『未来への警告』だ」アルスの脳裏に、始祖の暗号が不穏な波長となって響いてくる。『この世界は、二重のシステムで構成されている』『表のコード(自然)が整いし時、裏のコード(真の崩壊)が起動する』と。「まさか……三千年前の事件すら、もっと巨大な何かの一端に過ぎなかったっていうの……!?」アリスの顔に緊張が奔る。「うん……どうやら僕たちの世界には、まだまだ僕の知らない構造上のバグが隠されているみたいだ」アルスは一瞬だけ困ったように首を傾げた。しかし、その瞳には恐怖や悲壮感など欠片もなかった。あるのは、未踏の理論に挑む研究者特有の、静かで旺盛な知性の輝きだ。アルスはゆっくりと立ち上がると、膝の上の帽子を頭に被り直し、背中の歪んだ木の杖を愛おしそうに撫でた。 そして、まだ不安そうに自分を見つめているアリスに向かって、まっすぐに右手を差し伸べた。
「アリス。僕の仕事は、まだまだ終わらないみたいだね」
「アルス……」
「王都での学園生活も楽しかったけれど……この世界の本当の設計図を正しい姿に書き換えるために、一緒に行こう。僕と君の二人なら、どんな複雑なエラーだって、絶対にデバッグできるから」少年のどこまでも澄み切った瞳と、迷いのない言葉。アリスは呆れたようにふっと息を漏らすと、迷うことなくその差し出された手を、力強く握りしめた。「もう……本当に人使いが荒いんだから!」アリスは最高の笑みを咲かせ、少年の隣へと並び立った。「いいわよ! どこまでだって付き合ってあげる! 世界の果てまででも、あんたの隣で剣を振るってあげるわ!」「ありがとう、アリス。……じゃあ、出発しようか」
夕陽が沈み、満天の星空が広がり始める世界の中へ。胸に果てしない理論と希望を抱いた天才魔法陣設計士と、彼を支える最強の虹色の魔法戦士は、新たなバグを修正するための「終わらない設計図」を手に、一歩を踏み出したのだった。
【エピソード一 完】




