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序章 山奥の魔法陣設計士と、虹色の訪問者

 ざあざあと、容赦なく降り注ぐ雨が深い山林を濡らしていた。 標高の高いこの山地では、雨雲が低く垂れ込め、昼間であるにもかかわらずあたり一帯は深い青灰色に沈んでいる。木々の葉を叩く重く途切れのない水滴の音が、森の静寂を塗りつぶすように響き渡っていた。そんな荒天の中でも、小さな作業小屋の軒先では一撃の音が規則正しく刻まれていた。 手元の丸太に向かって、重厚な鉄の刃が真っ直ぐに落ちる。 乾いた鋭い破砕音とともに、固い木肌が綺麗に左右へ二つに割れた。割れ目から覗くフレッシュな木肌から、立ち上る独特の甘い芳香が漂う。



「……ふぅ。今日の燃料は、これで十分かな」



 十四歳の少年アルスは、ブカブカの魔法使いの帽子を細い指先で少しだけ押し上げ、額に浮かんだ僅かな汗を拭った。大きすぎる帽子のつばから覗く彼の顔立ちは、初対面の誰もが思わず目を見張るほどに整っていた。白磁のようにキメの細かい肌、大きな瞳、柔らかい輪郭。少女に間違えられることも珍しくないほど可愛らしく、中性的な雰囲気を纏っている。しかし、その奥にある瞳の色彩は、決して子供のそれではない。世俗の雑多な欲望からかけ離れた、澄み切った静かな知性と達観がそこに宿っていた。アルスは腰を伸ばすと、背中に背負った異物。カタツムリのように先がぐにゃりと渦を巻いて歪んだ、年季の入った木の杖の位置をさりげなく直した。現代の洗練された魔法使いが見れば、「骨董品どころか、ただの歪んだ薪ゴミ」と鼻で笑い飛ばすようなシロモノだ。いまや王立魔法学園や軍部を中心に普及している「現代魔法」の世界では、装飾性の高い鉄製や貴金属製の高級な杖こそがステータスであり、魔法力の出力を高める絶対の触媒とされている。さらに、現代魔法の常識において魔法とは「無詠唱」で即座に発動させるのが天才の証であり、正義であった。泥の上に足で複雑な術式を描いたり、古臭い韻文のような呪文を朗々と言い上げたりする行為は、旧時代の無駄だらけな「古典主義魔法」として侮蔑され、歴史のゴミ箱へと切り捨てられていたのだ。



だが、彼らは根本的に勘違いしている。



 アルスは作業小屋の庇から雨の滴る樹海を見つめ、静かに思考を巡らせる。現代の魔法使いたちは、魔法力の出力というものを「生まれ持った魔力という器の大きさ」と「持つ杖の価値」だけで測ろうとする。しかし、それはシステムの一端しか見ていない浅薄な見解に過ぎない。本来の魔法出力とは、明確な文法に基づいた数式だ。「杖の魔力出力強化 × 詠唱による文法調整の有無 × 大地への魔法陣記述によるシステム同期」これら複数の変数を掛け合わせ、最適化されたコンパイラ(翻訳器)として世界(自然)のプログラムにアクセスするプロセスそのものが、魔法という現象なのだ。(本来、魔法陣とは誰かを傷つけるための兵器じゃない。この世界に満ちている自然という巨大なシステムと対話をし、相互理解を深めるための「弁証法」だったはずなのに……)自然のエネルギーを一方的に浪費するのではなく、一時的に借り受け、その調和と世界の成り立ちを観察する純粋理論の探求。それこそが、始祖が遺した本来の魔法設計思想だった。しかし三千年前、始祖が考案した基幹魔法陣のデータは盗み出され、時の権力者たちの手によって軍事利用のためにコードを悪質に改変された。自然との対話というプロトコルは破棄され、一方的に自然界から魔力エネルギーを強奪・搾取する殺戮と破壊のシステム。すなわち現在の「現代魔法」へと書き換えられてしまったのだ。(……だから僕は、こんな山奥で静かに暮らしていたいんだよ。始祖様の理論は美しいけれど、魔法陣なんて大層なものを広げなくたって、自然は最初からそこにあり続けているんだから)薪を両腕で抱え直し、アルスが家の中へ戻ろうとしたその時だった。ぬかるんだ山道の奥から、ビシャリ、ビシャリと重い足音が近づいてくるのが耳に届いた。「おお……アルス殿!アルス殿はおられるか!お願いじゃ、どうか……どうか王都へ来てくれぬか!」姿を現したのは、高級なシルクのローブを泥まみれにし、雨に打たれて濡れネズミのようになった一人の老人だった。一見すれば哀れな徘徊老人だが、その手に握られた杖の先端には、国を一つ買えるほどの巨大な魔結晶が嵌め込まれている。彼こそは、現・現代魔法界の頂点に君臨し、王立魔法アカデミーの権威を一身に背負う「大賢者」その人であった。



 ここ数ヶ月、この老人は護衛を引き連れては何度もこの人里離れた山奥を訪れ、アルスの家の前で土下座を繰り返していた。どれほどの国家予算級の報酬を提示されても、どれほどの高い名誉や爵位を約束されても、アルスが首を縦に振ることは一度としてなかった。「大賢者様……何度来られても結果は同じですよ。僕は、この山での穏やかな生活と、自分のペースで行う魔法陣の研究だけで十分に満足しているんです。こんな大雨の中で土下座なんてされたら、見ている僕のほうが心苦しくなります。どうか体調を崩される前に帰ってください」アルスが心底困り果てたように吐息を漏らし、眉をひそめた、その時だった。



 「おじいちゃん! もうやめて! こんな偏屈なガキにここまで頭を下げる必要なんてないわ!」



 大賢者の少し後ろ、馬の背から飛び降りた小柄な人影が怒声を上げた。厚手のレインコートのフードが、激しい動作とともに払いのけられる。



「――っ!?」



アルスの息が、ピタリと止まった。



 雨粒を弾いて揺れる髪は、まるで濡れた宝石のように複雑な光を反射していた。勝ち気に吊り上がった強い意思を宿す瞳、透き通るような肌、凛とした立ち姿。少女の周囲の空気だけが、まるで別の次元であるかのように美しく輝いて見える。彼女こそ、幼くして七つの属性すべての精霊から愛され、異種属性の複合魔法すら独自開発したという歴史上最年少の最高峰魔法戦士「虹色のアリス」だった。(あ……なんだこれ……。すごく綺麗な魔力回路……。七つの属性が、一切のバグもなく完璧な並列処理でグラデーションを描いている……。こんなに美しいコード、見たことがない……)アルスの胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入る音がした。全身の血が激しく巡り、思考が真っ白に染まる。三千年の歴史を静かに解体・考察してきた彼の冷却された頭脳が、生まれて初めて「理論」ではなく「直感」によって麻痺させられていた。



一目惚れだった。



 しかしアリス本人は、目の前に立ちつくす華奢な少年が自分をどんな目で見ているかなど知る由もない。彼女は苛立ちを隠そうともせず、アルスに向かって強く指を突きつけた。「おじいちゃんがどれだけ偉大な魔法使いか分かってるの!?それなのに、こんな子供がおじいちゃんより強いだなんて、私は絶対に信じないわ!」言い終わるよりも早く、アリスの足がぬかるんだ地面を強く蹴った。シャイン――!と甲高い金属音が雨音を切り裂き、彼女の腰に差された細身の魔導剣が引き抜かれる。現代魔法の真髄にして最高峰の戦闘技術「魔法剣舞」。アリスの身に纏われた虹色の魔力が、剣身に高密度で圧縮されていく。一閃すれば巨大な岩塊すら一瞬で蒸発させる、容赦のない必殺の刺突。凄まじい風圧がアルスのブカブカの帽子を吹き飛ばしそうになる。だが。



ヒュン。



虚しく空を切る音だけが響いた。アルスはまるで休日の午後に庭を散歩でもするかのような、無駄の全くない最小限のステップでアリスの間合いから身体を滑らせていた。「なっ――!?」アリスが驚愕に目を剥き、即座に手首を返して第二撃の追撃に移ろうとする。風と火の二重複合魔法を剣にのせ、不可避の範囲攻撃へとコードを書き換えようとしたその瞬間。パチン。アルスが右手の中指と親指で、静かに弾きデコピンのような仕草をした。ただそれだけで、アリスの剣の周囲に形成されつつあった複雑な複合魔法の回路が、まるでバブルが弾けるように一瞬で分解され、ただの生ぬるい風となって消失した。「なっ……馬鹿な!?魔法が……私の複合回路が解体された!?魔法の発動を阻止されただけじゃない……剣技の踏み込みすら、この私が捉えることすらできないなんて……っ!」「みんな、そうやって自分を『魔法使い』だの『剣士』だのって勝手に分類して、決まった思考の檻に閉じ込めたがるんだ」アルスはアリスの怒涛の連撃を、両手を後ろに回したまま、身を翻すだけで全て軽々とあしらっていく。アリスの繰り出す鋭い斬撃は、まるで最初からそこにアルスが居ないことが決まっていたかのように空を切るばかりだ。「くっ……!だが、あなたこそその小汚い杖で何ができるっていうのよ!武器も構えずに私をバカにして!」「やめるんじゃ、アリス! それ以上はそのお方に関わってはならん!」後ろで腰を抜かしていた大賢者が、金切り声で制止に入る。「小汚い杖」と言われた瞬間、アルスはほんの少しだけ眉をひそめ、足止めの動作をやめた。背中からカタツムリのような歪な木の杖を慎重に取り外すと、泥で汚れないよう、軒先の乾いた地面へ大切そうにそっと置いた。「これは、僕たちの始祖様から代々大切に受け継いできた大切な杖なんだけどな……」「何なのよ急に! 降参のつもり!?」「ううん。魔法出力を最大化する方法を教えようと思ってね。現代の君たちは杖の質ばかり気にするけれど、一番効果的なのはね……『地面に直接、広大な術式ソースコードを書くこと』なんだ。でも、それだと実際の戦闘中には描く時間がないでしょう?」「……当たり前じゃない!一瞬の遅れが命取りになるのよ!何が言いたいの!?」「だからね」アルスは照れくさそうに微笑みながら、ぽつりと呟いた。



「最初から、書いておけばいいんだよ」



 アルスがトントン、と右足の爪先で軽く泥を叩いた、その瞬間。ピタリと。山林を殴りつけていた激しい雨が、嘘のようにピタリと止んだ。分厚い雨雲がまるで何かに割裂されたかのように中央から裂け、燦々と輝く日光が差し込んでくる。そして、変化は空だけではなかった。アルスの足を起点として、青白く澄んだ幾何学模様の光の筋が、爆発的な速度で地面を駆け抜けていった。足元の泥、濡れた草木、目の前の樹木、山肌、さらには彼らが立っている山全体、地平線の彼方に広がる山脈に至るまで、見渡す限り全土の大地に、目も眩むほど緻密で美しい巨大な光の魔法陣が浮き上がったのだ。「な……なんじゃあこの巨大すぎる魔法回路はぁぁぁっ!?山が……いや、大地そのものが光っておる……!?」大賢者はあまりの光景に目を丸くし、そのまま後方へひっくり返って絶叫した。アリスもまた、剣を構えた姿勢のまま完全に硬直し、視界の全てを埋め尽くす圧倒的な魔法の幾何学模様に息を飲んでいた。その光は、現代の粗雑な魔法陣とは比べ物にならないほど繊細で、まるで生き物のように優しく脈打っている。



 「僕たち一族はね、三千年間ずっと書き続けてきたんだ。世界中の大地に、目に見えない形で少しずつね。僕の代で、ようやくその全ての配線ネットワークが繋がった。だから僕は、わざわざ高価な杖を持つ必要も、無駄な詠唱をする必要も、今ここで魔法陣を描く必要すらない」



 光り輝く広大な大地の中央で、アルスは言った。「僕の魔法のアクセス領域(攻撃範囲)は、この世界すべてなんだよ」



ドォォォン……!



 彼の言葉に応えるかのように、晴れ渡った空の遥か高みで、祝福のような雷鳴が一つ、朗々と響き渡った。背景に広がる圧倒的な神威と、左頬をポリポリと照れくさそうに掻いている十四歳のあどけない少年の対比。世界そのものを掌握しているという事実の重みに、アリスは全身に寒気を覚え、ただ立ち尽くすことしかできなかった。圧倒的な実力差。いや、差という言葉すら生ぬるい。次元そのものが違う。この少年は、この世界というシステムの管理者オーナーなのだ。アルスは足元で美しく輝く光のラインを見つめ、心の中で静かに、誇り高き先祖へ向けて語りかけた。(……始祖様、ごめんなさい。僕、始祖様の知識を盗んだ『盗人の末裔』を好きになっちゃいました。でも、三千年も前の出来事だから……時効ですよね?)アルスがふっと息を吹きかけると、世界を覆っていた壮大な光の回路は、何事もなかったかのようにすーっと透明になり、大地の奥深くへと沈んで消えた。彼は泥で汚れた自分の服をポンポンと軽く払うと、未だに腰を抜かしている大賢者のもとへと歩み寄り、真っ直ぐにその瞳を見据えた。「大賢者様。僕、王都へ行きます」「お、おおお……! 本当かアルス殿!急に気持ちが変わられた理由は分からんが……感謝するぞ!これで我が国の、いや世界の魔法理論の歪みを直すことができる!」「はい。世界のソースコードの修正、引き受けます。……ただし、一つだけ条件があります」「条件……!?爵位か?王立アカデミーの最高責任者の椅子か?それとも国庫の半分か!?」大賢者が唾を呑み込み、アリスもまた「一体何を言い出すつもりなの……?」と固唾を飲んで緊張の面持ちで見つめる。アルスは一切の迷いなく右手を伸ばし、まっすぐにアリスを指差し、爽やかな笑顔で言い放った。



「君のお孫さん、アリスさんを僕にください」



「……は?」



 アリスの口から、間抜けな声が漏れた。「彼女の持つあの美しい魔力回路となら、三千年分の一族の対話も、もっと面白いコードに書き換えられそうだからね。……僕と結婚させてくれるなら、喜んで山を下りて王都へ向かいます。盗人の末裔と僕の相性、意外と悪くないと思うんだ」静まり返る山林。大賢者は開いた口が塞がらず、顎が外れそうな顔で固まっている。



そして次の瞬間。



 「け、けけけ……結婚なぁぁぁぁぁぁっ!???誰がアンタなんかと結婚するかぁぁぁぁぁっ!!!!」



 顔を茹で上がったタコのように真っ赤に染めたアリスの、怒りと恥じらいが混ざり合った絶叫が、雨上がりの爽やかな山々にどこまでも響き渡った。こうして、世界のソースコードを書き換える天才魔法陣設計士と、恋だけは思い通りにならない虹色の魔法戦士による、世界を巻き込んだハチャメチャなラブコメと無双の物語が、賑やかに幕を開けたのだった。



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