終章 『決着』
あれ程の強さを誇っていた、イリューンの攻撃が当たらない。
いや、当たってはいる。当たってはいるのだが、全てが男の眼前で、見えない風船に阻まれたかの如く弾き返されてしまう。
何度も風を切る音が虚しく響き渡る。その間、仮面の男は一歩もその場から動かなかった。
イリューンの後方からディアーダが叫んだ。怒声だった。
「ユリシーズ査察官の話を聞いた時は、半信半疑でしたが…その仮面! 間違いなく我が故郷の物…! 何故その仮面を手にしている! 答えろッ!!!」
しかし、仮面の男は相変わらず何も口にしようとしない。感情の変化さえ読み取れない。
舌打ちをし、ならば、とばかりにディアーダは駆け出し、呪文を唱え始めた。その手に巨大な火球が作り出され、次の瞬間――!
「炎にて焼かれ、浄化されよ! 『Salamander』ッッッ!」
打ち放たれた火球は眼前で閃光を発し、無数の火蜥蜴が仮面の男に躍りかかった。が、その攻撃も、仮面の男に触れる前に全て緑の風に打ち消された。
「…な!?」
すぅ、とゆっくりとした動きで仮面の男が手を伸ばす。その延長線上にはディアーダの姿。
瞬間、イリューンは大剣を振るうと、その腹でディアーダを横殴りに薙ぎ倒した。
否や、刃風が吹き荒れた。アリーナの外壁に、横一直線の凄まじい傷跡が刻まれた。
吹き飛んだディアーダは地面に激突、二度、三度とバウンドしながら胃液を吐いて転がる。勿論、イリューンがそうしなければ今頃は真っ二つだ。
(…ちぃ…ッ! どうする…ッ!?)
八方塞がり。攻撃は通用しない。向こうの攻撃は見えない。そして、一度でも食らったならば死が待っていた。
ジョージは上からそれを見ていた。見ていることしかできなかった。
逃げることも出来ず、かといってアリーナに降りることも出来ず。
(こ、これは今までとは違うよな…! 別に闘わなくたって死にはしない…! そ、それに…俺が行ったって…何も出来やしないし…! 降りていったって…こ、殺されちまうし…)
足の震えが止まらない。何度も何度も頭の中で言い訳をしつつ、ジョージはその場に立ち尽くすしかなかった。
『…また、逃げるのか?』
そんな声が聞こえた気がした。父の声だった。
続いて、またも聞き覚えのある声が脳裏に響き渡る。
『…良いご友人をお作りになられました。』
ゲオルグの声。手紙に書かれていた一節。その一文だった。
寂しげなディアーダの声が聞こえてくる。
『…待つ人がいるのですから…まだいいではないですか。』
酒場でのイリューンの言葉が蘇る。
『…俺にだって苦手なモンぐらいあるし、世の中は怖いモンだらけさ。…けどよ、そんな臆病な自分に負けちまったら、あとはただ飲み込まれていくだけだろう? そんな奴らに負けちまったら悔しいじゃねぇか。…死んだら何も出来ねぇ。死ぬのは怖ぇ。でもよ、恐れて死んじまったり、恐れて大事なモンを盗られちまったらまるでバカみたいじゃねぇか。…俺は負けるにはいかねぇんだ。いいか、負けたら負けなんだよ!』
震えは止まらない。唇を何度も噛み、考え、拳を握り締めた。
ジョージにとって、イリューン、ディアーダとの三人旅は苦しいものに他ならなかった。
数え切れぬほどの怒りと、絶望感があった。
けれども、憎めない二人だった。
どうしてもイリューンを、そしてディアーダを憎むことが出来なかった。
羨ましかったのかもしれない。何処までも自由で、強く、逞しいイリューンの姿が。
憧れていたのかもしれない。目的を持って生きるディアーダの姿に。
今、その二人が苦しんでいる。自分の目の前で、死への階段を登ろうとしている。それなのに、相も変わらず自分は震えることしかできない。
何故だか涙が出てきた。動けない自分が悔しくて、情けなくて、仕方がなかった。
今まで何をしてきたのか。自分は何の為に生きているのか。ただ生き残りたいだけで――生き残って、それでお前は、何かを得られたのか?
――また逃げて、それで本当にいいのか?
ゴクリ、と唾を呑む。意を決し、ゆっくりと顔を上げた。
躊躇いながらも剣を抜いた。深呼吸を一度。そして――二度。
足が震えた。竦んだ。
行くな、行くな、と頭の何処かで、幾度となく危険信号が発し続けられていた。
だが、それでも――
それでもジョージは、ありったけの勇気を振り絞り、アリーナ中央の仮面の男目掛けて駆け出した。
「――こ、こんちくしょぉぉぉぉおおおおおッッッ!!!」
雄叫びを挙げた。剣を構えて飛び掛かった。観客席の数段目から、柵を乗り越え真っ逆様。落下速度は踏み込みの早さを軽く凌駕していた。
「――んなっ!? ジョージ、おめぇッッッ!?」
イリューンが驚きに声を挙げた。それと同時に、落下してくるジョージに気付いた仮面の男だったが、時既に遅し――
ジョージは仮面の男と大激突。そして、跳ね飛ばされたかのように地面をバウンドすると、壁際まで転がり、砂埃をあげてようやく停止った。
「う、うぐぅ…あぅ…」
ジョージは呻き声を上げた。全身を強く打ち、とてもすぐには起きあがれそうになかった。
お世辞にも、格好良い助太刀ではなかった。
しかし、イリューンはその結果に目を見張った。
ジョージの剣は、見事に仮面の男の腕に突き刺さっていた。あれ程までにイリューンが攻撃しても当たらなかった一撃が――血が流れ、仮面の男が苦痛に大きく仰け反った。
「…そうか! そういうことか! …でかしたぁッ! ジョージッ!」
イリューンの頭上で電球が光り輝いた。
まるで台風のような防御。そして、真空の生み出す攻撃。つまり、その鉄壁の防御は、竜巻状にしか発生しない。逆を返すならば――
大剣を担ぎ、イリューンは駆け出した。それに気付くや、仮面の男は腕に刺さる剣を乱暴に引き抜き、放り捨て、真一文字に魔剣を振り払った。
併せてイリューンは斜めに跳躍んだ。
真空波が発生している最中は即ち、渦が引き延ばされているという事。つまり、その身体は無防備な状態に他ならない。
担ぎ上げた剣を凪ぎ払った。ヒット! が、浅い!
肩口から血を吹き出し、仮面の男が後退る。そして、胸元で魔剣を構えた。
間髪入れずイリューンは突っ込み、大剣をその足下目掛けて振り下ろす。
ガツン、と地面に切っ先が触れるや否や、その鍔を踏み台に駆け上り上空へ――いつもの数倍高く飛び上がった。
防御の体制に入っている時は即ち、空気の壁が最も薄い場所がある。頭上だ。
イリューンは空中で両手を大上段に構えた。光が集まる。理力の剣が作り出された。
二つの影は重なり、交錯した。激しい炸裂音が轟いた。
弾かれ、宙で一回転。地に片膝を立てて降り立つや、イリューンは音を立てることもなく、猫のように後ろへと飛び退さった。
そのまま、二人は動かなかった。お互い、全く動こうとはしなかった。
時間だけがゆっくりと過ぎ去っていく。
観客のいないアリーナで、今正に、影の決勝戦が勝負を決しようとしていた。
やがて――静寂は、凄まじい亀裂音によって打ち破られた。
仮面の額から右頬にかけて、深くヒビが走った。
ビシ、ビシと音を立て、仮面が崩れ落ちていく。それを慌てて片手で覆い隠し、
【…グぅぉぉぉぉぉぉっっっッ!!】
男は初めて大声で呻いた。それは聞き覚えのある声だった。
「…待て…? まさか、お前…ッ!?」
イリューンが眉を顰めた。手で隠した仮面の下の素顔は――
「…まさか!? …ゴ…!? ゴードン!?」
【…キシャァァァァァァッッッ!!】
イリューンの声と同時に男は奇声を挙げ、魔剣を胸に携えたまま、人とは思えぬ跳躍力でアリーナの二階部分まで飛び上がった。
そして、そのまま凄まじいスピードで走り去ってしまった。
呆然とするイリューン。見たものが信じられなかった。確かに仮面の下の素顔は、ガルガライズの宿屋の主人――イリューンに魔剣探索を提案した、あのゴードンだった。
…イリューンの恩人でもある彼が、何故?
勿論、疑問に答える者などいる筈もない。
後には静けさだけが残った。
トマス君主は腰を抜かしたまま、ガックリと項垂れるしかなかった。
――魔剣は、奪われたのだ。
血にまみれたアリーナと、がらんとしたコロセウムの観客席。
倒れたままのジョージと、動けないディアーダ。そして、立ち尽くすイリューン。
やがて、何とかジョージは立ち上がり、ふらつく足取りでイリューンへと歩み寄った。ディアーダもまた、咳き込みながら、腹を押さえて上体だけをようやく起こした。
「げほっ…ひどいですね。もうちょっと優しい助け方は…無かったんですか? げほっ!」
「贅沢言うんじゃねぇよ。三枚に卸されなかっただけでも有り難く思うんだな。」
「…イリューン…」
「おぅ、ジョージ! さっきはやるじゃぁねぇか! おめぇにしちゃぁ上出来だったぜ!」
そうじゃぁない、と言いたかったが言い出せなかった。ただ夢中で、とにかく気が付いたら剣を構えたまま飛び降りていた。
生きていることが奇跡だと思った。しかし――悪い気はしていなかった。
自分にとって、守りたい物がなんだったのか。それは未だ解らない。だが、ジョージは今、生まれて初めて自分の意志で行動したような、そんな気がしてならなかった。
「そうそう、そういや、コイツには一言聞いておかなきゃならねぇよな?」
突然、イリューンはそう言い出すと、ツカツカと歩き出す。そして、未だ項垂れたままのトマス君主の襟首を掴み、思い切り持ち上げた。
「げ、っげぇっ!? …ぶ、無礼なッ!? ぐ、ぐは…っ!」
「うぉぉぉぉぉい!?」
ジョージは驚きに目を丸くするしかない。感動のシーンが台無しだ。
「おい、王様よ? いや、君主だったっけか? ま、イイや。おめぇさん、どうして魔剣を賞品にしようと思った? 話しぶりからすると、こうなるってこたぁ知っていたみてぇじゃねぇか? えぇ?」
この男は君主だろうが容赦はしない。その傍若無人ぶりに、トマス君主は顔を真っ赤にして嗄れ声を張り上げる。
「き、貴様ら…ッ! 貴様らの素性は解っているのだぞ!? 我が国に逆らって――!」
うるせぇ、とばかりにイリューンはいきなりボディブローをかました。トマス君主は、げはぁ、と息を思い切り吐き出すと、そのままがくん、と昏倒した。
「お、おぃぃぃッッ!? な、何を…ッ!?」
「まぁ、気にすんな。ディアーダ、おめぇならダイバーの真似事ぐらいできんだろ? まともにやったら、コイツぁ何時まで経ったって話ゃしねぇよ。頼むわ。」
「…まったく…人使いが荒いお人です。」
そう言いつつも、何故かディアーダは微笑んでいた。ディアーダの笑顔を見たのは、ひょっとすると、これが初めてかもしれなかった。
近づき、すっとディアーダはトマス君主の額に右の掌をかざした。左の掌はイリューン、ジョージへと向けられる。どんな事をするのかは解らない。ギルド中退のイリューンは当然の事、ジョージもまた初体験だ。
「…どうだ?」
「…焦らせないでください。私は専任ではないのですから…浅くしか潜れないんです。それに、君主の見ていた物が事実とは限らないことも、承知しておいてください。」
光が向けられた右の掌に集まっていく。やがて、ディアーダは呪文を唱え始めた。
「深淵なる闇の彼方、人の心に潜ることを許したまえ。願わくばその記憶を繋ぎ、眼の裏へと映さん事を――『Tarsius』――!」
瞬間、ディアーダの掌から光の矢がジョージ、イリューンの額を貫いた。
脳裏に、臨場感のある映像が浮かび上がった。
城の中を歩いている。赤絨毯の敷かれた豪勢な部屋。
ノックがされた。嗄れ声で「入れ」と一言だけを発する。
ドアが開く。現れたのは、女だった。深くフードを被り、神秘的な雰囲気を漂わせている。
紫の口紅。フードから洩れる亜麻色の髪。妖艶な笑みを浮かべたその女の顔は――見覚えがある。大会前に出会った女――サブリナだった。
立ち尽くすサブリナに向けて、嗄れ声が浴びせられた。
「…それは、やはり本当のことなのか? 我が国の持つ魔剣を求めて、邪教徒が動き始めているという情報は?」
「――は。その通りでございます。邪教徒はハルギス復活の為、五本の魔剣を手にせんと、君主…貴方を暗殺する事も視野に入れております。」
「ば…馬鹿な! この魔剣がここに有ると知り得るのは、同盟国コーラス、クラメシア共和国、そして砂漠の帝国ダバイだけじゃ! ……まさか?」
「ご想像の通り。…クラメシアが邪教徒と繋がりを持ったようです。」
「な…!」
「邪魔する者は暗殺も止む無し。それが邪教徒が国を持たぬ国、と言われるが由縁。クラメシアが何を考えているのかは解りませんが…このまま魔剣を保持するという事は、君主――貴方の命が危うい。」
ゴクリ、と唾を呑む音。君主の焦り、恐怖、緊張が伝わった。
サブリナは続けて言った。淀みのない話し方だった。
「…かくなる上は、強者に魔剣を託す方法は…いかがかと。今大会は世界に名高い大舞台。魔剣を手放したことが大々的に知らされれば、邪教徒もわざわざ強固な要塞都市である我が国に忍び入り、暗殺を行おうとするまでは至りますまい。このままむざむざと奪われるのを待つよりは充分意義があるかと。」
「じゃ、じゃが…! それでは、魔剣を失うことに変わりはない! 同盟国であるコーラスへの義理が…!」
「解っているでしょう? コーラスに協力を求めるということ。同盟を結んでいるとはいえ、我が国は中立国であるからこそ、今までどの国からも攻め入られずにいた。つまり…」
「クラメシアに喧嘩を売るような行為、という訳か…?」
「その通りでございます。君主、魔剣と、命。どちらが惜しいですか?」
トマス君主がまたも唾を呑む。言い淀む舌の動きが伝わる。
それら全てを「解っている」とでも言いたげな顔で、サブリナは言った。
「クラメシアも、コーラスも、元を正せば魔剣が争いの原因。中立国たる我が国が唯一の魔剣を手にしているのは、その抑制の為。しかし、二つの国は大きくなりすぎた。もし二つの国がどうしても魔剣を手にしたいならば、大会に出ればよい。そうすれば、無駄な血は流れずに済むというもの。邪教徒による暗殺の心配もなくなる。まさに、一石二鳥ではありませんか?」
サブリナが妖艶な微笑を浮かべた。それは甘美な――まるで、麻薬のような笑みだった。
そこで映像は突然、途切れた。眼前は真っ暗闇に包まれた。
気が付けば、ディアーダが膝を落とし、呼吸を荒げていた。
「お、おぉい、デ、ディアーダッッッ!? おぃ!?」
いいところで打ち切られた。クライマックス寸前でチャンネルを変えられたような、そんな感覚だった。
イリューンも同じ気持ちだったらしく、不満げな表情でディアーダに言った。
「――おい、もっかい、やってみるってのはどうなんだ?」
「む、無理を言わないでください…! これ以上は本職のダイバーでもない限りは…! 無断でダイブをしたと解ったら、今度は私達が追われてしまいます。…ダイブされた記憶と、最後の暴行の記憶を消すのが精一杯で…勘弁してください。」
だが、解ったこともいくつかあった。ジョージは言った。
「つまり…トマス君主は邪教徒に命を狙われていた。」
それに続けてディアーダは言った。
「そうですね。魔剣を狙う邪教徒とクラメシアとの間に、どんな約束事があったのかまでは解りませんが…」
「…そして、その為に魔剣を優勝賞品にした大会を行った。」
「もう一つ、解ったことがあるぜ。」
横からイリューンが口を挟んだ。
「あのサブリナって女は、やっぱり何か企んでやがったってぇこった。思った通りだぜ。…今夜、とか言ってたが、会わねぇ方が良さそうだな、コイツはよ…」
よく言うぜ、とジョージは苦笑した。ディアーダもまた失笑するしかなかった。
「ですが、あの淀みのない話し方からみるに…計画的だった、とみるのが順当な線ではないでしょうか。…そうとしか考えられませんしね。」
一応、ディアーダはそんなフォローを入れる。
「ま、あとは…このジジィからは聞き出せねぇよな。残念だが。」
まるでゴミでも見るかのように、イリューンは気絶するトマス君主に吐き捨てた。側近が見ていたら縛り首物の行動だった。
「…で、どうするよ、これから? おめぇら?」
イリューンの言葉に、しばし考えた素振りを見せた後、ディアーダは切り出した。
「…私は…事の顛末をマナ・ライ様に報告する義務があります。私の目的の一つは達成されました。…手掛かりが見つかった以上、『それ』を『する』のみです。」
未だジョージにはディアーダの目的は解らなかったが、それが家族に関する事なのだろうと、その程度は察することが出来た。
手掛かりとは、仮面の事か。それとも、邪教に情報を流していたクラメシアの事なのか。何れにせよ、ディアーダの言葉には怒りが含まれていた。
「ジョージ、おめぇは?」
「…俺は…俺にも、目的がある。コーラスへ戻らなくては…ならないんだ。」
ジョージは悩みつつもそう呟いた。コーラスへ戻ったとて、何があるわけではない。しかし、事のケジメを付けるためには、やはり一度戻らねばと考えていた。
「そうか。んじゃ、まぁ、ここでお別れって事だな。」
「イリューン、お前はどうなんだ?」
聞き返すジョージ。それに対し、イリューンは首を何度か捻りながら、
「ん〜…オレはまぁ…ガルガライズへ戻るしかねぇべな。…あの仮面…ゴードンの事が心配でなんねぇ…だからよ。」
ジョージは直接、それを見たわけではない。だから、イリューンの言う仮面の正体がゴードンだったという言葉が信じられなかった。
ふと、ゴードンの娘、メリアの姿がジョージの脳裏に浮かぶ。どちらかといえば、コーラスに戻るよりもガルガライズへ寄りたい気持ちがあった。
しかし、ジョージはそれを無理矢理、握り潰した。メリアの姿の後に、怒りに燃える父の顔が浮かんだからだった。
と、そこで全員、ぷっつりと言葉が途切れた。
ゆったりとした時間が過ぎていく。全員が、次に続く台詞を忘れているかのような――
口にしたくなかったのかもしれない。
それを口にしたなら、次に待っていることは一つしかないのだから。
時間にして一分程度の空白だった。
が、やがて意を決したように、ジョージは重い口を開き、切り出した。
「…そうか。…それじゃ、みんな…」
「んだ、な。お別れだな。」
「長いようで、短い旅でしたが…皆さん、元気でお過ごしください。」
すると、突然イリューンは高らかに嗤った。
「…おう、オメェ達も達者で暮らせよ! ん、じゃぁな―――ッ!」
イリューンなりの照れ隠しだったのだろう。言うが早いか、イリューンはそのまま背を向け小走りに駆け出した。そして、あっという間にその姿は小さくなり、見えなくなった。
その後、ディアーダもまた、ジョージに軽く会釈をし、歩き出した。
二人を見送るジョージの背中に、爽やかな風が吹き抜けていった。
いつも、離れたかった。もうこの旅を終わりにしよう、と何度となく考えた。
しかし、今、ジョージは言いしれぬ寂しさを感じていた。うっすらと涙が浮かんでいた。自分でも理解できなかった。何故、この別れがそんなに悲しいのか、全く解らなかった。
誰もいないアリーナで、一人、ジョージはトマス君主を見下ろす。
未だ君主は気絶しており、ピクリとも動かない。長居は無用、とジョージもまた君主を置き去りに、そっとアリーナを後にすることにした。
丁度、入れ替わりでダリューン王子率いる衛兵隊が到着。やがて、衛兵達は君主を担ぎ上げると、厳しい検問が敷かれ始めた。勿論、最後のイリューンの暴行や、ディアーダのダイブは記憶操作されているので心配はなかった。
既にド・ゴール市街は騒然としていた。しかし、それとは正反対に、ジョージの心は澄み渡り、清々しい気持ちだった。
ふと、空を見上げた。青空は何処までも高く、透き通っていた。
辛い日もあった。胃が痛む時を過ごした。
けれども、その全てが今は懐かしく、そして輝いていた。
自分は、いつかのあの日より、少しは成長したのだろうか…?
ジョージは何気なくそんな事を思った。そしてぐい、と目元を拭い、晴れやかな顔で――
コーラスへの帰路を歩み出した。
――――
「…と、ここまでがこの物語の序章、というわけじゃ。…おや?」
老人の傍らには、すやすやと寝息を立てる少年の姿。話が長すぎたのだろうか。それとも、夢中になりすぎたのだろうか。
本の三分の一を過ぎた辺りで、少年は寝入ってしまったようだった。
老人は立ち上がり、手にした分厚い本を閉じて椅子に置くと、手にしたカーディガンをそっと少年にかける。そして、ゆっくりと暖炉に薪をくべ、燃えさかる炎を見つめながら、もう一度椅子に置いた本と少年とに目を移した。
老人の目は優しかった。
再び本を手に取り、揺り椅子に身体をもたれかけ、暖炉の前で物思いに耽る。そして、
「…いつの日か、お前にも…その時が来るのじゃな。」
そう一言だけを呟いた。
老人の深意は解らない。少年は代わらず、気持ちよさそうに寝息を立てている。
また一つ、暖炉の薪がバチリ、と弾けた。揺れる炎は暖かく、そして、激しかった。
外は雪。極寒の吹雪。
外界から閉ざされた家の中は暖かく、その厳しさを感じさせないが、まさしく外は弱肉強食の世界だった。
「願わくば、この子が辛い思いをせぬよう。世界が乱れぬ事を…」
揺り椅子に揺れながら、老人はまた一言、呟く。
静かだった。
何も聞こえなかった。
老人は、再び手にした本を開いた。そして、まるで物思いに耽るような目で、物語の続きを読み始めた。
何も知らぬ少年は、未だ夢の世界で旅をしているに違いない。
夢の中で、物語の中のジョージ達と冒険をしているのかも知れない。
――そう。
まだ、この物語は、終わらない――
冒険は、終わらない――
大冒険日誌 第一部 完 劇続
ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございました。
残された謎、伏線については第二部、及び第三部で回収されることになりますが、非常に長いお話であることに変わりはなく、ただただ恐縮するばかりです。
願わくば、このお話を楽しんでいただけるならば、と切に切に願う次第です。
それでは、第二部にてお会いできます事を。
今後ともどうぞ宜しくお楽しみ頂けます様、お祈り申し上げます。