第1話:宴の誘い
4月13日(月)
「...どれにすっかな」
人通りもまばらになった1年生のフロアに、浜通裕靴は立っていた。彼は廊下の側にある壁に寄りかかる。
(...部活、何にしよう。できれば楽なところが良いな)
彼は天井を見上げると、ぼんやりと格子状の模様を眺めた。楽な部活に入りたいと云う気持ちはあるのだが、いまいちはっきりしない。
(...帰宅部も悪くは無いんだけどな)
裕靴はまだ着慣れないブレザーの袖を整える。どこにも所属しない選択肢もあるが、それもどこか違うような気がした。部活には入っておきたい。でも何もしたくない。
「いや、でもなあ...」
彼がブツブツ呟きながら廊下につっ立っていると、視界の隅に人影が見えた。放課後のこの時間、1年生のフロアには殆ど人が居なかったので、その人影は遠くでもよく見えた。
「...誰だ?」
彼は頭をひねる。すると人影はだんだんとこちらに近づいてきた。上履きの靴音が廊下に響く。もしかしたら、見回りに来た先生かもしれない。見つかったら非常に面倒くさいし、入学して早々トラブルに巻き込まれるのは御免だ。
裕靴は廊下の奥に視線を向ける。よく見ると、人影は紺色のブレザーに朱のリボン、灰色のスカートを身にまとっていた。同級生の女子らしいと気付き、彼は安心する。きっと忘れ物か何かを取りにきたのだろう。
だが彼女はまさに裕靴の真正面で、派手に転んだ。手に持っていた鞄がドサリと床に落ちる。
「...」
彼は黙り込む。こういうシチュエーションの場合、どう声をかけたら良いのか分からなかった。これは逃げ出すのが吉か。
彼女はしばらく床に倒れ込んでいたが、やがて緩慢な動作で起き上がり、こちらを向いた。よく見ると、割と顔立ちは整っている。
「ねえ」
裕靴は気怠そうに壁に寄りかかる。
「...何だよ」
「目の前でか弱い女子高生が転んだってのに、声一つかけてくれないの?」
裕靴は言葉が出なかった。これは非常にまずい。今、自分は面識の無い女子から因縁を付けられている。しかもどうやら、自分のした行為は彼女の気に障ったらしい。どうすりゃ良いんだ。
「...聞いてる?」
彼女の声が一段階低くなった。まずい、せめて適当な一言だけでも言っておかなければ。
「...えっと」
「うん」
「すみませんでした」
裕靴は形だけでも謝った。彼女は腕を組みながら考え込む。
「...それだけ?」
「え」
「だから、それだけかって訊いてるの」
(...面倒くさいな)
裕靴は眉間にしわを寄せて、彼女の方を向いた。彼女は座り込みながら、長い髪を弄んでいる。
「あー、寂しいなー。私って同級生の男子からも見捨てられているんだー」
彼女は絵に描いたような棒読みで口にする。嫌々原稿を読み上げているみたいだ。
「...だから何だよ」
裕靴は呆れ返った視線を向ける。すると彼女は、いきなり立ち上がると彼に詰め寄った。
「...え」
彼は心拍数が上がるのを感じた。完全に油断していた。それに顔がいささか近い。
「ねえ」
「どうした」
裕靴は唾を飲み込む。彼女は距離を詰めたまま、一息に告げた。
「私と一緒に、部活を創らない?」
「...は?」
彼はしばらく、情報処理が追いつかなかった。
*
「...で、どういうことなんだよ」
裕靴は椅子に腰掛けると、傍らの机に頬杖をついた。彼の隣には、先ほど彼に詰め寄った女子——朱鞠内宴が座っている。
「さっきは驚かせちゃって、ごめんね」
彼女は、微塵もすまなく思ってなさそうな声で謝った。裕靴は溜め息をつく。
「なんで何も無い場所でコケるんだよ」
「あれ、わざとだから」
「は?」
彼は思わず低い声を出してしまった。つまり目の前に居るこの女は、意図的に転んで自分の気を引こうとしていたのか。なんて狡猾な奴だ。
「...マジかよ」
呆れ返る裕靴を見て、宴は笑った。
「いや〜、やっぱり君、反応が面白いね」
「...そうか」
「だって浜通くん、さっきからずっと仏頂面じゃん」
「そりゃ、部活見学に行こうとしてたのを妨害されたんだからな」
彼は教室の時計を眺める。この教室は宴のクラスのもので、裕靴は不法侵入している形だ。
「浜通くんは、どの部活にするか決めたの?」
宴は頬杖をつきながら尋ねる。亜麻色の髪が風でなびいた。
「いや」
「これから決める感じ?」
「まあな」
宴はここだけの話、と言わんばかりに囁く。
「...言っとくけど、この学校に碌な部活無いよ」
「本当かよ、それ」
裕靴は鼻で笑う。どこの高校も、部活動には力を入れている筈だ。事実、この私立収斂高校も部活動が盛んな高校で、サッカー部や吹奏楽部の強豪校である。
「いや、本当なんだって」
宴は呆れる裕靴をよそに、脚をバタバタさせながら文句を垂れる。
「だってこの高校の部活、サボれる場所が少ないじゃん。どこの部活も良く言えば一生懸命で、悪く言えば体力バカだし」
「科学部とか美術部は、比較的サボれるだろ」
裕靴は腕を組みながら呟いた。宴は首を横に振る。
「無理無理。『文化部はサボれる』なんて、漫画やラノベの中の幻想だって」
「...見学に行ったのか?」
「うん。でも科学部は天文コンテストに出るみたいだし、美術部も絵画コンクールを目指すんだって」
「そりゃそうか」
裕靴は考え直す。確かに学校側からしてみれば、サボってばかりで主たる目的の無い部活は迷惑でしかない。
「そういう訳で、私は新しい部活を創りたい」
宴は背筋を伸ばすと、裕靴に正対する。彼は宴の言わんとすることの意味が分からなかった。
「...はあ」
宴は不満そうに唇を尖らせる。
「リアクション、薄くない?」
「いや、だって部活に入りたくないなら、帰宅部に入りゃ良いじゃねえか」
「帰宅部は嫌」
裕靴の指摘を宴はバッサリ斬り捨てた。どこまで我儘なんだか。
「私はね、放課後の隠れ家的な部活を創りたいの」
「なるほど(?)」
彼は曖昧に頷く。確かに、そういう部活があれば楽かもしれないが...
「で、私はそこで放課後の暇つぶしをしたい」
「暇つぶしって、具体的にはどういうやつなんだ?」
「色々。ゲームもするし勉強もするし、ただ喋るだけのこともある」
宴の煩悩に塗れた理想を聞き、裕靴は苦笑してしまった。そんなのありかよ。
「...ちょっと待ってくれ」
彼は必死に笑いを噛み殺す。宴は怪訝な表情を浮かべた。
「笑ってる? 私は真面目に話して...」
「違う」
裕靴は椅子に座ったまま姿勢を正した。
「めちゃくちゃ良いじゃねえか、それ」
「え」
宴は口を半開きにする。裕靴の反応が予想外だったようだ。
「つまり、お前は放課後に堂々とサボる大義名分が欲しいんだろ」
「うん」
宴は頷く。裕靴は口角を軽く上げた。
「同感だ。俺も、もっと余裕のある部活に入りたい」
「え、じゃあ...」
宴は両手を膝の上で握りしめる。
「俺も、お前に協力したい」
「良いの!?」
彼女は興奮する余りに、椅子から腰を浮かせていた。余程嬉しかったのだろう。
「勿論だ。一緒に『隠れ家的部活』でサボろうぜ」
裕靴は不敵な笑みを浮かべる。最初は宴の理想に戸惑っていたが、だんだんとやる気が湧いてきた。自分でも分からないが、謎の高揚感に包まれている気がした。
「で、その部活の名前はどんな感じなんだ」
裕靴は椅子に座り直した。放課後の教室は、夕焼けでほのかに橙色に染まっている。
「当ててみて」と宴。
「...サボり部」
「ブー」
「余暇部」
「ブー」
「暇つぶし部」
「ブー」
裕靴は腕を組んで考え込んだ。確かにこういう名前だったら、活動内容がバレバレで認可して貰えそうに無い。
「じゃあ教えてくれ」
彼は白旗を上げる。宴は楽しげに笑った。
「仕方無いな〜、特別だよ」
「...そうか」
「准帰宅部、だよ」
「じゅんきたくぶ?」
「そう」
宴は嬉しそうに頷く。裕靴は意外と普通の名前だな、と思った。
「...帰宅部に準を付けてどうするんだよ」
「准ね」
宴は間髪入れずに訂正する。相当なこだわりがあるらしい。
「...その准っていうのは、どういう意味合いなんだ?」
「ざっくり言うと、自虐かな。部活として活動はするけど、やってることは帰宅部と変わらないから」
「確かに、そうだな」
裕靴は椅子に寄りかかって脚を組む。
「まあ、その名前だったら認可も下りるだろ」
「そうだね」
宴は脚をぶらぶらさせながら、愚痴を零す。
「でも、学園の事務局から認可が下りるのは、5人以上の団体なんだよね〜」
「...全然足りないじゃねえか」
「そう。だからそれが、専らの課題かな」
「何とかして、掻き集めることはできないのか?」
「いや〜、難しいと思うよ。だって皆は、もうこの時期に入る部活とか決めちゃうでしょ」
「それもそうか」
裕靴は伸びをする。果たして、5人も集まってくれるだろうか。最低でもあと3人必要だが...
「まあ、何とかなるっしょ」
宴は呑気にペットボトルのお茶を飲んでいた。今日は裕靴を引き入れただけでも、十分な収穫なのだろう。
「そんなことよりさ、部室探さない?」
「部室か?」
「うん。やっぱり部活の活動には不可欠でしょ」
「...そんな教室、あったかな」
「でもこの高校、割と広いし。どっかに空いてる教室くらいはあるでしょ」
「そういうもんか?」
「まあ、流石にあるって」
「根拠が弱いなー...」
裕靴は手頃なメモ帳とシャーペンを取り出すと、話している内容を書き取り始めた。
「お、メモしてくれるんだ」
「そりゃ、他にすることも無いし」
「助かりますわ、副部長」
「...もうそれは決定なんだな」
彼はタイトルを書き込みながら零す。
「まあ、私が部長なのは決定だから」
「別に考案者=部長じゃなくても...」
「何か言った?」
彼女の声の圧に、裕靴は逆らえなかった。
「何も言ってないです」
「よろしい」
(...めちゃくちゃ上から目線じゃん)
彼はその言葉を飲み込んだ。いかんいかん、これを言ってしまったら大変なことになる。
「で、他に課題とかはあるのか? 部活を創るんだったら、顧問の先生も探さなきゃいけないだろ」
「あ、確かに」
宴は顎に手を当てて考える。
「でも、良い塩梅に空いてる先生は居るかな」
「どの先生も、多分どこかしらの部活の顧問になってるだろ」
「やっぱそうだよね〜」
宴は手に持っていたシャーペンで、顎をトントンする。少し膠着ぎみだ。
「となると、顧問探しも必要か」
裕靴はメモを眺める。そこには「部室探し」と「部員確保」、「顧問探し」の文字が踊っていた。
「...前途多難だな」
「まあ、何とかなるって」
宴はそう言うと鞄をまとめ始める。裕靴もそれに倣った。
「そろそろ帰るか」
「ねえ、浜通くん」
「どうした」
「家、どの辺?」
「N市」
「じゃあ、N駅まで一緒だね」
「そうか」
裕靴は呟きながらスタスタと教室を出る。宴は慌てて彼を追った。
「いや、スルーしないでよ!」
「はあ」
「ねね、私と一緒に帰らない?」
「...」
裕靴は言葉が出なかった。女子と一緒に帰ることなど、勿論初めてだった。それに不意打ちが過ぎる。
「...別に、良いけど」
「よしゃ〜。じゃあ、駅まで一緒ね」
宴は嬉しそうに歩きながら(スキップでも始めそうだ)、裕靴の隣に並んだ。
「...ああ」
裕靴は適当に答えながら、これは腐れ縁になりそうだと思っていた。
*
「でさ、部員の勧誘とかどうする?」
日没の近い街の中を、裕靴と宴は歩いていた。そろそろ街灯も点きそうである。
「非効率な方法は、やめた方が良いだろうな...」
裕靴は雲がまばらに浮かんでいる空を眺めた。なんかやけに綺麗に見える。
「そっか〜。でも一人一人に声をかけるのも面倒くさいし」
宴は裕靴の隣に並びながら、髪を撫でる。
「やっぱりターゲットを絞った方が良いかな」
「お前のクラスの奴は、どうなんだ?」
「あんまり興味は無さそうだったよ。何人かに声はかけたけど、『凄いね』って言われてそれっきり」
彼女は路上の空き缶を蹴る。黒っぽい色のそれは電柱に当たり、虚しい音を奏でた。
「...それは、脈なしだな」
「うん。確かに相手にされないとは思っていたけど、面と向かって言われたらくる物があるよね」
「...そうだな」
裕靴は鞄を持ち直す。ここまで宴に散々振り回されてきたが、少しだけ彼女の寂しさが分かったような気がした。
「でも、浜通くんに協力して貰えて、私は嬉しかったから」
「そうか」
宴は信号の前で立ち止まると、こちらを向いた。
「浜通くん、名前聞いてなかったね。何て云う名前なの?」
裕靴は少し躊躇いながらも、自分の名前を口にした。
「...裕靴」
「ゆうか? どういう漢字なの?」
「余裕の裕に、靴」
宴は目をしばたいた。
「靴?」
「そうだよ。変な漢字だろ」
裕靴は吐き捨てるように呟いた。自分の名前はあまり好きではない。もっと普通の名前を付けて欲しかった。彼は右手を握りしめる。
「別に、呼ぶのは『浜通』で良いから。俺の名前、そんなに好きじゃないんだ」
宴は信号が青になったのを見て、渡り始める。裕靴もやや遅れながら付いていった。
「でもさ、裕靴くん」
彼女は珍しく真剣な表情を浮かべながら続ける。
「名前が変なのは、私も同じだから」
「...同じ、か」
「そうだよ。『宴』とかキラキラネームでしょ。しかも名字も『朱鞠内』で画数も多いし」
彼女はブツブツ言いながら路面を歩く。鈍く光るアスファルトの上を小石が転がった。
「でもね」
彼女は電柱の側で立ち止まる。
「私は、自分の名前を嫌いになっては無いよ」
だってアイデンティティだもん、と彼女は添えた。
「誰が何と言おうと、これが私だから。そこだけは、はっきりしてるよ」
何気なくそんなことを言う彼女を見て、裕靴は鞄を落としそうになった。
「...惚れそうになったじゃねえか」
「あ、そう? ちょっと格好良いことを言い過ぎたかな」
宴は急に恥ずかしくなったらしく、少しだけ頬が赤くなっていた。裕靴はふふっと笑う。
「まあ、確かにそうだな」
裕靴は沈んでいく夕日を眺めながら、宴の隣を歩く。数時間前に偶然知り合った女子なのに、どこか安心できた。
「じゃあもう、『裕靴』でも良いよ」
「うん。じゃあ裕靴くんも、私を『宴』って呼んで欲しいな」
「...確かに『朱鞠内』は長いよな。中学の時は何て呼ばれてたんだ?」
「まりちゃん」
(...流石にそれでは呼べない)
裕靴はそう悟り、呼び捨てで呼ぶことにした。
「分かったよ、宴」
「やった〜。じゃあよろしくね、裕靴くん」
「ああ。取りあえずは『准帰宅部』、創るか」
「うん」
宴と裕靴の長い影が、夕暮れの路面に映っていた。
*
(...あれ、無いな)
ちょうど同じ頃、私立収斂高校の一角でとある人物が動いていた。その人物は棚を漁っていた。
(...確かこの辺に、「資料」があったはず)
その人物は立ち上がると、部屋の全景を見渡す。棚の上には埃が火山灰のように積もり、輪郭が分からなくなってしまっている箇所もあった。さらに本棚にはいつ刊行されたか分からない辞書。壁にはソ連が描かれている、30年以上前の世界地図。
この部屋は、周りの教室に比べて時間が止まっているように見えた。それだけ長い間、忘れ去られていたのだろう。それにこの辺りは、人通りも少なかった。
そうだとしても、勝手に教室の鍵を盗んで侵入している事実は変わらない。だからなるべく早く回収してしまいたいのだ。その人物は額の汗を拭う。
「...いや、なんで無いんだよ」
時計を確認すると、そろそろ学校全体が施錠される時間だった。まずい、流石に出なければ。結局今日の探索では見つからなかったので、明日——いや明後日もまた出直して来るしか無いだろう。
その人物が荷物をまとめていると、廊下の向こう側から足音が聞こえてきた。それはだんだんとこちらに向かって来ている。
(...やべ。もう守衛さんの見回り時間かよ)
その人物は左右を見渡す。このままだと、自分の不法侵入がバレてしまう。色々面倒くさいので、それだけは避けたかった。何とか上手い方法は無いものか。
悩んだ末、机の下へと潜ることにした。古典的手法ではあるが、これでどうにかやり過ごすことができるだろう。今を乗り切れば、出る方法なんて幾らでもある。
やがて足音と共に、鼻歌が聞こえてきた。流行ってるアーティストのやつだ。守衛さんが鼻歌を歌うくらいなら、多分バレないだろう。頼む、自分の存在に気付かないでくれ。
永遠のように思われた数分間が終わり、足音は遠くへ遠ざかっていった。どうやらやり過ごすことに成功したらしい。その人物は息を吐くと、荷物をまとめて立ち上がった。
(...さて、帰るか)
扉を慎重に開けて外に出ると、そこには漆黒の闇が広がっていた。守衛さんが来た時に照明を消していくから、そりゃ当然か。それにしても、この暗闇だけは慣れないな。少しでも油断すれば吸い込まれそうだ。まあ、ブラックホールとかじゃあるまいし、そんなことは起きないと思うが。
その人物は渡り廊下を歩く。そう言えば忍び込んだ教室の施錠を忘れたような気がしたが、今はどうでも良かった。とにかく外に出たい。まだ危ない環境に居ることは変わらないし。
さらに歩くと、ようやく玄関が見えてきた。その人物は靴を履き替えると、靴底を潰した状態のままドアノブを触る。だが扉はびくとも動かなかった。どんなに揺さぶっても開かない。
そう、守衛さんは正面玄関を施錠した後、重たい何か(きっと段ボール箱か何かだろう)で玄関を塞いだのである。相手の方が一枚上手だった。
(...やられた。一晩中、高校に缶詰めかよ)
その人物は床に座り込むと、これからどうするかを考え始めた。




