人として
――あぁ、そう言えば……ありがとうなんていつ振りだろう。
自然と口をついて出た言葉に、栄清は驚いた。
いつも言っていたつもりでいた。確かに、東京で仕事をしていた時は、取引先に言っていたことはあったと思う。ただ、それは当たり前のように来る文面に対する、常套句のようだったかもしれない……。
栄清はそんな自分自身に驚きとショックを覚えた。
「どうされました? 苦手なものでも?」
動きが止まってしまった栄清に、男性は心配そうに見つめてくる。
「……あ、いや……」
「ここはね、見ての分かる通り、商店も何もない小さな小島でしょ? 希望に添える食べ物を用意出来なくて申し訳ないです」
「……」
男性は器をテーブルに並べながら、話を続けた。
「私ももう九十越えた老いぼれですし、大したものをご用意出来なくてねぇ……」
「い、いえ、そんな……。私はご迷惑おかけしている立場ですし。一晩泊めて頂けるだけじゃなく、お食事まで用意して頂いて……こちらこそ、申し訳ありません」
栄清は慌てて頭を下げると、男性は最後の器をテーブルに置いてゆっくり腰を下ろし、ふんわりと笑った。
「いやいや。私としては誰かとまた食事が出来て嬉しいんですよ。同じ屋根の下に、誰かがいてくれる。それが妙に安心出来ると言いますか……。年のせいでしょうなぁ」
このご時世、見知らぬ人間を家に招くリスクは高い。しかし、人の良さそうな男性はそんなリスクをものともせず、善意に溢れた思いやり深い人柄だと感じた。
「お父ちゃん、変わってない……」
栄清の横にいたハナは、安心したような顔でポツリと呟いた。
「お父ちゃん、昔からそうなんだ。困ってる人を放っとけなくて、それを逆手に取られて嫌な目にも大変な目にも遭って来たけど、絶対、悪く言わないの。お相手さんも、それだけ困ってたんだろうって……」
「……」
ハナは、自分より人の為に心を割ける。そんな父が大好きで、心から尊敬できると笑う。
栄清は言葉もなかった。
「……立派、だな」
ふいについて出た言葉に、ハナも男性も不思議そうに首を傾げた。
「自分は、家族の為に頑張って来ました。いや、そうして来たつもりでいました。それでも……上手くいかなくて」
弱音を吐くつもりは無かったが、目の前で昇る温かな食事の湯気を見つめ、鼻先を擽る素朴で気持ちのこもった美味しい香りを感じていると、自然と零れ出てしまう。
「あなた、ご家族は?」
「……いました。六年前、離婚しまして」
「そうでしたか」
「その後は、母の看病の為に東京から帰って来たんですが、その母も先日……」
「それは、大変でしたでしょう」
あくまでこちらの気持ちに寄り添う男性の言葉。多くは語らずとも、寄り添ってくれていると分かる相槌に、胸と目の奥が熱くなる。
「そんなに沢山傷を負った状態で、こんな場所まで来てくれたわけですね。本当に、辛かったことだと思います」
違う。そうじゃない。
本当に大変で辛かったのは、きっと自分じゃなく周りの人間だったに違いない。
栄清はそう心の中で呟いた。
しかしそれを口に出来ないことの、自分の弱さに視線が下がる。




