一年前
いつか来る日とは思っていた。
いずれ、直面し、受け止め、乗り越えなければいけないことであると。
***
その日はやけに静かな朝だった。
いつもと同じ城。いつもと変わらない雄大な空。けれど鳥のさえずりすらない不気味な静けさに包まれていた。
アレクセイは妙な胸騒ぎが怖かった。直感が告げるのだ、『何か恐ろしいことが起こるぞ』と。
城の廊下を足早に、キルヴィの部屋へと向かいながら、拳が震えていた。
キルヴィの部屋の前まで来て一瞬ノックを躊躇った。鼻の前まで上げた手を止め、どうしてだか心臓がうるさかった。
コンコン、と意を決して打ち付けるが、辺りはシィンと静まり返ったまま動かない。
扉の向こうから微かに風がカーテンを揺らす音がした。アレクセイは「はっ」とした。
「キルヴィさま、失礼致します」
返事を待たずに扉を開けた。左手にあるベッドを見るとキルヴィの姿がない。喉がヒュっと言い、首がのろまにベッドの向こうのバルコニーへと続く窓を見た。窓は開かれており、優しい穏やかな風がカーテンを揺らしていた。少し強くなった風が白いレースのカーテンをふわりと膨らませた瞬間、裾の下からバルコニーに倒れているキルヴィの姿が見えた。
絶叫してしかるべき衝撃に全身が打たれた。だが喉は叫ばなかった。叫べなかった。
ああ、来てしまった。そう心が呟いた。
涙がこぼれそうだった。手足がただの棒と化し、総身から力が抜けていく。
足を引きずるように懸命に動かしてキルヴィのもとへ駆け寄った。傍へ膝をつき上半身を抱え起こした。
キルヴィはあどけない寝顔をさらして、あまりに無防備に眠っていた。無防備というより、受け入れようとしているように見えた。常に背後に控えていた”死”という存在に、身を委ねてしまおうとしていた。
痣は消え、日を浴びたことのないような白い肌に朝の黄色い光が眩い。
それがなおさらキルヴィの終わりを示唆しているようだった。
「キルヴィさま」
誰にも届かない、自分にも微かな囁き声が出た。
だが、キルヴィの瞼は震えた。
「キルヴィさまっ、キルヴィさまっ」
祈りにも似た心持で名を叫んだ。虚空に声が広がっていった。
「お、お起きくださいっ、キルヴィさま」
すがるように言うアレクセイに、キルヴィは瞳をうっすらと開けた。
「————…」
唇が震え、言葉を紡いだ気配がした。
そして、キルヴィは笑った。
喉が詰まった。胸が塞がり息がままならず、喉の奥でつぶれたうめき声がした。
「聞こえ、ませ…」
キルヴィが目を閉じた。
キルヴィが、自分の腕をすり抜けて行ってしまう。浮かんでいた笑みもするすると指をすり抜けて、意識と共にどこか手の届かないところへ行こうとしていた。
「———どうして」
アルが大好きだと言った幼いキルヴィの姿が目の前をちらついて、ぎゅっと目をつむった。
熱で潤む目で謝られたことも。
笑って走り回ったことも。
泣きながらしがみついてきたことも。
全て昨日のことのようなのに、時間はキルヴィの命を削りながら過ぎていた。
キルヴィの軽い体を抱き上げて、立ち上がる。
キルヴィの胸が上下するのを見ながら、キルヴィはもう二度と目を覚まさないのかもしれないと思った。
「ただ、生きたいと———ただそれだけのことなのに」
やるせなさで体が震えた。
キルヴィをベッドに寝かせ、アレクセイはトルティの部屋へと向かった。
***
アレクセイは使用人の休憩室で目を覚ました。
ぼんやりと天井を眺めているとき、キィと蝶番のきしむ音がして、白髪の黒い服に身を包んだ男がうっすらと笑いながら休憩室に入って来た。
「目は覚めたか、馬鹿弟子」
「…久しいですね、師匠」
「殿下の御前で失態を演じた言い訳でも聞かせてもらおうか」
フィエールの寒々しい微笑みにアレクセイは総毛だった。
こたえる夢に加えて最悪な寝起きだ。
苦々しい表情のアレクセイをフィエールが笑いながら見下ろしていた。
「師匠でないことくらいはわかってました。普通に、腹が立ったので、潰したくなって」
「阿保かお前は」
「申し訳ありません」
「そんな心のこもってない謝罪は逆に失礼だぞ」
「師匠を潰すイメージトレーニングです」
「殺すぞ」
師匠の殺すは意外に本気だったり半分冗談だったりするが、今回は前者と見た。
「殿下の御容態を損ねるようなことは外でやれ」
「殿下がどうかなさったのですか!?」
「うるさい」
跳ね起きるアレクセイを容赦なく蹴り飛ばし、フィエールは腕を組んでアレクセイを見下ろす。
「今目を覚まされたところだ。お前はどこだと仰って心配なさっておられたから、こうして呼びに来た。」
「殿下が?」
「嬉しそうにしやがって、癪だな。殴ろうか」
「理不尽」
アレクセイの幸せは、今手元にある。
「行かなければ」




