心
風鯨の力で人型の聖霊にまつわりついていた嫌な匂いを払うと、聖霊は幾分落ち着いて、目は赤いままだったが、力が暴走しそうな危うさはすぐに消えた。
我を取り戻した聖霊は風鯨に頭を下げた。
《ヴィアトーレイェメ殿、手間をかけさせたネ》
〈おたがいさまだよ〉
《はっ、このご恩は必ずや》
風鯨からサルマーたちに視線をずらす。
聖霊の視線は明らかに、多分に軽蔑を含んでいた。
《さて—――覚悟はいいアルか。キルヴィに手を出すことがどういうことか、教えてやるネ》
聖霊の怒りは、悲しさに満ちていた。
こぼれない涙が油となって、内で燃える炎に注いでいるような、愛情と、怒りと、悲しさが、入り乱れて身を焦がすような、そんな魔力を放っていた。
地面にうずくまる狩人は聖霊の情動を繊細に感じ取り、無いはずの心が割れてしまいそうで、意味も分からず涙がこぼれた。
《主らのような者どもの為に、キルヴィは命を削ったアルか》
聖霊の纏う魔力が揺らいだ。
《護られた分際で、キルヴィを害そうなどと―――》
聖霊の押し殺した感情が、痛いくらいの後悔が、鋭く、サルマーの胸を刺し貫く。
聖霊の激情は、単なるサルマーたち侵入者に対する怒りではない。大切なものを傷つけられたことが、ただただ悲しく、かわいそうで、悔しくて仕方がない。言葉にならない。
そういう感情を嫌というほど味わってきたサルマーに分からないわけがなかった。
「…ごめんなさい、ごめんなさい、風鯨、わたしは、ただ」
全身が震え、声が震え、喉が詰まる。
おかしい。おかしいのだ。
さっきから何かがおかしい。
あの王子に魔法をかけられてから、どうしようもなく胸がざわつく。
人を傷つけることに感傷的になったことなどなかったはずなのに。
「苦しい…っ」
胸に重い鉛がぎゅうぎゅう詰められているような心地に、サルマーは思わずそうこぼした。
「サルマー!どうした!?」
「聖霊よ、どうかお気を沈めて!」
「せいれい、さま…お願い、サルマーを」
「サルマー!しっかり!」
仲間の声に、もっと胸の苦しさは増した。
(嫌だ、嫌だ、助けて)
声にならない叫びが喉の奥で重なり合い、ぶつかり、消える。
《…キルヴィは、優しいな。主にすら、幸せであれと。》
〈さるまー、こころ、だよ。それ、こころ。たいせつなもの〉
「こころ…?」
サルマーは、異国の言葉であるかのように繰り返す。
久方ぶりの響きだ。
一瞬何のことかと瞬いて、固まり、見開かれる。
《感情アルよ。ヒトしか持たない、厄介極まりない性質ネ》
〈おもしろいよねぇ〉
風鯨と人型の聖霊の反応は対照的で、人型の聖霊は厭わしげに、風鯨は楽しげに口を開けていたが、どちらもどこか遠くを見て、それぞれ不思議な瞳をした。
胸が苦しいのは、感情などという厄介な主が帰還したせいらしい。
サルマーの目に確かに、光が戻り、陰りが夜に吸い取られるのを、仲間はあっけにとられて眺めていた。
《…キルヴィが主の幸せを願うなら、我は何もせずに行くアル。だが》
人型の聖霊は冷ややかにサルマーを見下ろす。
《神代の残糸にあのようなこと、二度と命じるでない。聖霊は他のものを傷つけては力を失うアルよ。ヴィア様のご容赦、無駄にするな》
それだけ言うと、人型の聖霊は風鯨に目礼をして、風の中へと消えていった。
その場に、下の街の喧騒が戻ってくる。
呆然と、呆けていた面々はにわかに我に返り、体を震わせた。
風鯨は静かに面々を見下ろしている。
エビがサルマーに「終術の祝詞を」と言った。
《偉大なる聖霊よ 下げ給いし慈しみに感謝する》
まともに目を合わせることはできなかった。
サルマーの声はかすれていた。
「ありがとう、ごめんなさい」
サルマーは、ぶるぶる震える肩を抱きしめて、生まれて初めて悲しさからでない涙もあるのだと知った。




