悪女ロズリーヌ04
(どういうことだ? 私が今までロズアトリスとして目にしてきた彼は何だったんだ?)
彼が先ほど言った「貴方は私の何を知っているのです?」という言葉が頭の中で巡っている。
(彼のことを良く知っていると思っていたのは、私の勘違いだったのか……)
本当に彼のことを知らなかったのだと思い知らされて、ロズリーヌは内心落ち込んだ。これだけ彼のことを何も分かっていないのだから、別れたのはやはり、正しかったのだろう。しかし、良い気分ではない。
顔の下半分を扇子で隠し、視線を下げて黙っているロズリーヌを、ティモシーはしばらく探るように見つめていた。そうしてロズリーヌが視線を上げると、何事も無かったかのように新しい話題を振った。
「そういえば貴方、彼──マクシム兄上に絡まれていましたね。何故か彼は貴方を目の敵にしているようだ。レディに絡むなんて。母親が違うとはいえ、兄弟としてお恥ずかしい限りです」
ティモシーは現皇帝と皇貴妃の元に産まれているが、マクシムは現皇帝と皇后の間に産まれた二番目の皇子であり、兄弟仲はそれほどだと聞いている。とはいえ年上のマクシムを兄上と呼ぶのだから、それなりに弁えているらしい。マクシムの性格上、目立った衝突がないのはティモシーが配慮しているからだろう。こうしてロズリーヌに詫びるのも、マクシムのフォロー……いや、皇室のフォローに違いない。
ならばとロズリーヌは穏やかに答える。
「気にしていませんので、お気になさらず」
「寛大ですね。けれど相手は皇族に聖女様です。口だけでは済まず、いつか社交界から追い出されてしまうかもしれないと考えたことは?」
鋭い指摘だった。ただ絡んでくるだけならいなせるが、いつか二人に実力行使をされそうで困っていたので、素直に頷いた。
「えぇ、まぁ、そうですね」
「そうなってしまったらどうしようもありませんから、そうなる前に手を打つべきだと思いませんか?」
「えぇ」
「そうですよね。では私と婚約してください」
「えぇ!?」
「二つ返事で同意してくださるなんて嬉しいです」
にこりと笑いかけられて、ロズリーヌは焦った。それは同意の返事ではない!
「違います! いまの『えぇ』は驚きの『えぇ』で!」
「ところでロズリーヌさん。私から『女神の赤い首輪』を受け取りましたね?」
ぐっとこちらへ身を乗り出すように圧をかけられて、ロズリーヌはまた「えぇ」と頷いてしまった。
「私はプロポーズのつもりでそちらを渡したのに、受け取っておいて断るなんて、あんまりではありませんか?」
「何だって!?」
これには驚かざるを得ず、ロズリーヌは思わず敬語も忘れ、上ずった声で叫んでしまった。
一拍置いて冷静な自分を召喚し、喉を鳴らして声と言葉を繕うことにする。
「……こほん。で、でしたら、お返しいたします」
ロズリーヌはティモシーの胸の前に『女神の赤い首輪』を突き返した。するとティモシーは口元に手を当てて泣いてみせた。
「酷い人だ。二億ルーブも払って貴方にプロポーズをしたというのに。しくしく」
明らかに嘘泣きだということは分かるけれど、二億という金額には焦る。
「そ、それは大変申し訳なく……」
しかしここでロズリーヌはハッと気づいた。
「いや、ちょっと待て。これを渡してくれたとき、貴方はお礼と言っていただろう。プロポーズのためだなんて、嘘だ」
一方的に流されはしないぞ! という強い意志表示をしたつもりだったが。
「兼ねているんですよ。信じられないというのなら、形式に乗っ取りましょうか」
ティモシーはさらりと言ってその場に跪き、ロズリーヌの手から『女神の赤い首輪』を抜き取ると、そっと差し出すように掲げた。
「ロズリーヌ・トリオール伯爵殿。私と結婚してください」
まるで物語の中のような理想的なプロポーズにドキリと心臓が高鳴ったけれど、さすがのロズリーヌにもこれは面白半分の冗談ということが分かった。この流れで本気のプロポーズなんてあり得ない。
「殿下。お遊びはそこまでに……」
「ティモシー第三皇子殿下が悪女ロズリーヌにプロポーズ!? 悪女ロズリーヌが皇室の一員に!?」
突然飛んできた大声に目を向けると、右目にモノクルをした黒髪の青年貴族が仰け反って驚いていた。
ロズリーヌは慌てて声を張り上げる。
「これは冗談……あっ!」
ロズリーヌが完全に否定する前に青年貴族は走っていってしまう。去っていく青年貴族をぽかんと傍観していたロズリーヌの耳を、ティモシーのそよ風のような笑い声がくすぐった。
「ふふふ。これで、貴方は私のプロポーズを受け取ったことになりましたね」
「……まさか!? 謀ったな!?」
ティモシーはまた「さぁ、どうでしょう」と笑ってみせる。
(やられた! 殿下は大した策士だ!)
初めて自分に向けられたティモシーの謀は実に見事で、ロズリーヌは悔しさを通り越して感心した。どの時点でここまでのことを思いついたのか知らないが、鮮やかすぎて不平不満も出てこない。
本物の策士に圧倒されたロズリーヌは、無言で騒ぎ始めたホールを眺めた。おそらくあの青年貴族がふれまわっているのだろう。社交界で話題になった出来事は、三日以内に王都中を駆け巡る。それだけの速度を持つ噂話を今更否定したところでどうにもならない。むしろティモシーも本気で婚約をしたいわけではないだろうから、この場限りの冗談としてこの後何事も無ければいずれ風化するだろう。と、ロズリーヌが考えていると。
魅惑的な香水の香りが鼻腔を撫でた。
「──今度、婚約証明書にサインをもらいに伺います。こちらはサインの対価としてお納めください」
彼のはちみつ色の瞳が目と鼻の先にあった。
ドッと呻いた心臓を押さえるために胸へ手を持っていったところで、自身の首元で『女神の赤い首輪』が輝いていることに気がついた。
「あ……」
「やはり、そのネックレスは貴方に一番似合います。それでは、良い夢を」
ティモシーは恭しく礼をして去っていった。
彼の姿がホールの人混みに消えて見えなくなると身体から一気に力が抜け、ロズリーヌはへなへなと柵に寄りかかった。
「ほ、本気……なのか? この私と、婚約?」
「一方的に婚約を突き付けて去っていくなんて、相変わらず性格の悪い皇子様です!」
心臓に悪い行為ばかりするティモシーに翻弄されたロズリーヌが疲弊している一方。マルティーニは憤慨した様子で腰に手を当てている。男爵令嬢として六つの時にデビュタントを終えたマルティーニの方が、十二でデビュタントを迎えたロズリーヌより社交界経験は長い。
「私の知る殿下はこのような人ではなかったのだが、マルティーニはあのような殿下の一面を知っているようだな?」
「ローズ様が知らないのは当たり前です! ティモシー殿下はローズ様……ロズアトリス様の前でだけ猫を被っておいでだったのですよ! 私としては、ようやく本性を現したな! というところです!」
ロズリーヌは「そうだったのか?」と小首を傾げた。
「けど、ロズアトリス様と婚約破棄なさって一ヵ月足らずでロズリーヌ様と婚約しようだなんて。……まさか」
マルティーニは口元に手を添え、ロズリーヌに耳打ちした。
「ロズアトリス様がロズリーヌ様と同一人物だってことを知っているのでしょうか?」
これにはロズリーヌも扇子を広げて言い返す。
「まさか。私がロズアトリスだということは大聖女エラヴァンシー様とアドリアン様、それからマルティーニと執事のピエールしか知らないはず。知りようが無いはずだ」
四人とも口は堅い。もし『ロズリーヌ』が世渡りのためにロズアトリスの被った仮面だと彼が気づいているのなら、別のところが発信源だと考えた方が良いとまで思えるくらいには。しかし別の発信源にも心当たりはなく。ましてや完全に俗世を排している聖女ロズアトリスと、今日初めて会話をした悪女ロズリーヌが同一人物とみられるほどの失態をしたとも思えない。
というよりそもそも、ロズアトリスと婚約破棄して間もなくロズリーヌに婚約を申し出たからといって、ロズアトリスとロズリーヌが同一人物だと気づいていることにはならないだろう。自由の身になったから他の者と婚約を考えた、と推測するのが一般的ではないか。
それを指摘すると、マルティーニは事も無げに言った。
「だって、殿下はロズアトリス様にめろめろでしょう? 婚約破棄したくらいで諦めるはずがないので」
「殿下がロズアトリスにめろめろ?? 諦めるはずがない??」
政略結婚を強いられてへろへろの間違いでは? 諦めるはずがないって、何を?
とロズリーヌ──ロズアトリスは思うのだが。マルティーニは確固たる自信を持っているようで、「殿下のローズ様センサー、侮れない。気を付けないと!」と鼻息を荒くしている。
(とにかく、ロズリーヌがロズアトリスだということに気づかれていなければ良いが……)
一抹の不安を胸に抱きながら、ロズアトリスは夜風に攫われる長い黒髪を押さえた。
「私……婚約破棄したはずの人と再び婚約することになったのか……?」
ロズアトリスの呟きは、宵闇の中で輝く女神の瞳──夜の帳にかかる月に吸い込まれていった。




