プロローグ
手を付ければ何でも人並み以上に出来るから、毎日がつまらなかった。
競い相手の兄弟たちより優秀だ、次の皇帝は殿下だなどと褒めそやされ、幼いながらに自分の地盤が固いことを自覚してしまうと、途端に何もかもがどうでも良くなった。次第に素行が荒れ、臣下たちに生意気な態度を取るようになっても、とびぬけて成績が優秀なのが変わらなければ皇帝への道は決して揺るがず。ますます世の中への関心は薄れていくばかりだった。
そんなとき。
齢七歳で政略結婚が打診された。
幼くても早熟だったので、皇帝にとっての皇后、あるいは皇貴妃であった自分の母のような存在となる相手を宛がわれるのだと理解した。
政略結婚相手は何人もの候補がいた。隣国の姫君や名門貴族の令嬢たち。次期皇帝に相応しい少女たちが並ぶ中──異色の人物が一人。
皇帝になることが約束された自分の婚約者に、平民出身の聖女?
姿絵は、頭に白いレースのヴェールを被って顔の下半分しか見せていない少女だった。
お前の価値は、次期皇帝の私の傍に侍るほどまでに高いのか? ならばこの目で確かめてやろう。
冷やかすつもりで、皇子ティモシー・ド・レピュセーズは婚約者候補の顔を見に行くことにした。
件の聖女は毎朝、朝の祈りさえ始まらない早い時間に大聖堂の庭園にいるという。
大聖堂にやってくると、調べた通り、聖女は庭園の白薔薇の生け垣に佇んでいた。
見る限り、普通の女の子だ。特別な価値も見出せそうにない。本当にこの少女が自分に相応しい婚約者なのか?
不満を抱きつつ、姿を隠しもせずに無言で見つめていると。
聖女は落ちかけた薔薇に手を伸ばし、朝露を孕む花弁に口づけを落とした。枯れかけていた薔薇はみるみるうちに蘇り、再び天に向かってはつらつと花を輝かせた。
けれどティモシーは知っている。聖女や聖人が使える【聖力】というものは、怪我を直せても生命力は一時的にしか回復できないということを。
「どうしてムダなことをするんだ」
ぶっきらぼうに声をかけた。
すると、聖女は「ムダ?」と首を傾げた。ティモシーは「そうだ」と言って聖女の傍に近付いた。
「そのバラは何をしたっていずれ枯れる。私の父上はいつもムダなことはするなとおっしゃるぞ」
「あなたにとってはムダかもしれないが、ほかの人にとってはムダじゃないってことがあるんだよ」
貴族の女性たちの優雅な話し方とは違う男勝りな話し方に、ティモシーは虚を突かれて言葉を返すことができなかった。
会話の切れ目を感じた聖女が次々に花へ聖力を注ぐのを黙って見守る。するとそこへ、若い女性に車いすの背を押され、痩せた老夫がやってきた。
老夫は薔薇の香りを楽しんでいるようで、目を閉じたまま、ゆっくりと近付いてくる。そうして聖女の前まで来ると車いすはぴたりと停まり、老夫は目を開けて、祈りを捧げるように手を組んだ。
「小さな聖女さん。いつもありがとう。この薔薇が枯れるまでは、頑張れる気がするよ。本当に、ありがとう」
若い女性は会釈をして車いすの背を押した。若い女性と車いすの老夫は薔薇の回廊を進んでいき、やがて大聖堂の方へ消えた。
「……あの人に残された命の砂は少ない。あの人は毎朝このあたりを散歩して、このバラを見るのを楽しみにしているんだ」
ぽつりと口に出した聖女に、ティモシーはほとんど反射で言い返す。
「花になんか使わずに、本人に聖力を使ってやればいいだろう? そしたらあの老人の命そのものが伸びる。まぁ、それもあまり意味のないことだろうがな。彼はもうすぐ天へ行くだろうから」
「それじゃぁ、君は毎日どうして起きるんだ?」
「何?」
急に脈絡のないことを言われて、ティモシーは変な生物でも見るような顔をした。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「目覚める理由があるから人は毎日起きるだろ? 私は、毎朝この花を少しでも長く咲かせるために起きている。じゃぁ、目覚める理由がなかったら──君はどうする?」
意味が分からなかった。
これまでティモシーの人生において、分からないことというものは無かった。なんだか急に、目の前の聖女の背が伸びて見える。自分より身長が低いのに、見下ろされているような気がする。
苛立ちを覚えていたティモシーは、一笑に伏し、子どもながらにたっぷりの皮肉を込めて言ってやった。
「ハッ! 私ならベッドで寝ているかな」
揶揄したのに。
ほろり、と。これまでぴくりとも動かなかった聖女の唇が緩んだ。
「私もそうする」
陽光を浴びた薔薇の蕾が綻んだような、無垢で可憐で、眩しくも寂しさを駆り立てるような微笑だった。
幼いティモシーは、彼女を形容する儚いという単語を知らず。また、聖女が何かを伝えようとしていることは分かっても、これもまた理解できないのだった。
ただ、心が揺らぐような掴みきれない感覚に、苦しいとまで感じる何かの気配を感じた。
生まれて初めて、『彼女のために何かをしてあげたい。寂しい笑顔ではなく、楽しそうに笑う姿を見たい』そう思ったのは、どうしてなのだろうか。彼女の一瞬の笑顔に価値を見出したのは、なぜだろうか。




