3. 袋の底の、ひと掴み
野へ帰る朝が、とうとう来てしまった。
朝露が、草の穂さきで白く光っている。露を踏むたび、爪さきがつんと冷たい。夏が、終わるのだ。
私たちのひと群れは、寒いあいだ、南の水の涸れない川筋をたどって暮らす。獣の道を追い、木の実の在り処をめぐって、また春を待つのだ。この丘を離れれば、次にここへ戻れるのは、麦がまた金いろに色づくころ。指を折って数える気にもならないほど、ずっと先の話になる。
あちこちで荷がまとめられていく。皮袋がふくらみ、子どもが背負子にくくられ、犬がそわそわと足踏みをする。名残を惜しむ声と笑い声が、朝もやのなかに溶けていく。ゆうべまであれほど賑やかだった丘が、ひと呼吸ごとに、しんと寂しくなっていくようだ。
祭りの終わりには、決まったばかりの若い二人が、双方の群れに囃されながら火のまわりをひと回りする。今年もふた組、みんなの手拍子に送られて、照れくさそうに歩いていった。見送る娘たちの目は、うらやましさが半分、寂しさが半分。
私はといえば――つい、目が丘のてっぺんを探していた。探してから、自分にあきれる。なんで、あの変わり者なんかを。
私のひと群れも、寝ぐらの枝を払い、獣の皮をたたんで、発つ支度をはじめている。サナ婆さまが慣れた手つきで干し肉を分けているのを、私はぼんやりと眺めていた。ここを離れれば、あの丘も、丘のうえのあの男も、しばらくは、ただの思い出になってしまう。そう思うと、胸の奥がしくりと痛む。あの人は、あんなに痩せていたのに。ちゃんと冬を越せるだろうか。凍えて、飢えて、ひとりぼっちであの穴のそばにうずくまっている姿を思い浮かべると、足がすくんで動けなくなりそうになる。
その騒がしさのなかで、私はふと、干した麦の穂に目をとめた。
束のなかに、ひときわ肥えた穂がまじっている。ほかの倍も粒が太くて、手のひらにのせるとずしりと重い。日にかざすと、金いろの粒がひとつぶひとつぶ、宝石みたいに光る。穂のひげが、指の腹をさらりとくすぐった。なぜだろう。この穂から、どうしても目が離せない。
婆さまなら、きっと叱るだろう。麦は天からのいただきもの、粒のひとつだって粗末にするな、と。だから私は、この気持ちをうまく言葉にできない。ただ、この肥えた粒を、どうしても食べて終わらせてしまいたくない。その重みだけが、私と『生きている水』とを結ぶ、たったひとつの糸のように思える。この糸を手放してしまったら、私はもう、あの丘とも、あの人とも、二度とつながっていられない。そんな気さえするのだ。
私はその肥えた穂を、そっと、誰にも見られないように皮袋のいちばん底へしまいこんだ。あの窪みでもういちど水を笑わせるには、きっといい麦がいるはずだから。そう自分に言いわけをしながら。けれどほんとうは、それだけではない気もしていた。
「ウネ、なにをぐずぐずしてるんだい。置いていくよ」
サナ婆さまのしわがれた声が飛んでくる。私はあわてて皮袋の口を結わえた。この袋の底の重みのことは、婆さまにも、誰にも言えない。自分でもうまく説明できないのだから、なおのことだ。
◇
丘を発つそのときも、イシュはやっぱりあの穴のそばにしゃがみこんでいた。
荷が積みあげられ、子どもらが先を争って駆けだしても、この男は腰をあげようとしない。痩せた背中を丸めて、寒いあいだもたったひとり、この凍える丘に残るつもりらしい。ひとりで冬を越すなんて、考えただけで背筋がすうっと寒くなる。
私は荷のなかから、干した肉と木の実をひと包み抜きとって、彼のかたわらに置いた。
「これ、置いていく。冬は、ここ、なんにもないんでしょう」
「いらない。石は腹を空かせない」
「あんたは空かせるでしょう」
イシュはしばらく包みをじっと見ていた。それから、のろのろと手をのばして、それを受けとる。「……悪いな」。ぶっきらぼうだけれど、たしかにそう聞こえた。
そうしてイシュは、ふいにこちらへ顔を向ける。いつもは遠くばかりさまよっている目が、そのときだけはまっすぐ私を見ている。そうやってまっすぐ見つめられると、なぜだか、胸のあたりがくすぐったくなった。
「ウネ」
「……なに」
「次の祭りまで、死ぬなよ?」
それだけ言うと、彼はまた石のほうへ向きなおってしまう。
――なんて不器用な人だろう。達者で、とか。ありがとう、とか。もっとほかに言いようがあるだろうに。それを、死ぬなよ、だなんて。
けれど、その勝手な言いぐさが、少しもいやではなかった。むしろ、そう言ってもらえたことが、じんわりと嬉しかったのだ。
風が吹いて、彼の癖のある髪をふわりと揺らす。その癖のかたちを、私はいつのまにか覚えてしまっている。頬が熱いのは、きっと、朝日のせいだ。
列にもどると、サナ婆さまがちらりと私を見て、ふんと鼻を鳴らした。何も聞かないでいてくれるのが、この婆さまの優しさだ。
歩きだしても、私は幾度もうしろを振り返った。丘は少しずつ遠ざかり、かちりという乾いた音も、だんだん風にまぎれていく。みんなの背中はもうずっと先だ。早く追いつかなきゃと頭ではわかっているのに、足がなかなか前を向いてくれない。それでも私は、あの痩せた背中が小さな点になって消えるまで、ずっと見ていた。
揺れる皮袋の底で、ひと掴みの麦が、一歩あるくたびにかさりと鳴る。まるで、またあの丘で会う約束の合図みたいに。その音を聞いていると、遠ざかるはずの丘が、なぜだか、少しも遠くならない気がした。




