1. パンが、息をした
麦が黄金いろに実って、空の高いところを鶴の群れが渡っていく。そのころになると、私たちは丘に集まる。
「おねえちゃーん!」
小さな子供が手を振りながら丘を駆け上ってくる。
私はにっこりとほほ笑みながら大きく手を振って応えた。
「あらー、ずいぶんと大きくなったねぇ」
一年ぶりの少女はまた少し背が伸びて、女らしさがほのかに現れてきている。そろそろお相手の決まるころだろう。
「ねえ、おねえちゃんは? いいひとは、まだ?」
「こーら。ませたことをお言いでないの」
三つ編みを揺らして追い払うまねをすると、少女はふふっと笑って駆けていく。まったく、近ごろの子は口が早い。
野を巡って暮らす者らが、どこからともなくめいめいの麦を背負ってやってくる。両手の指では足りないほどの人が、ひとつの丘の、ひとつの火のまわりに寄り集まるのだ。麦の実るたびの、年に一度の祭りだった。
ちょっと好奇心旺盛な地元の娘、ウネこと私の役目は、その皆の腹を満たすことだ。
焚火で焼けた平たい石のうえに、挽いた麦を水で捏ねた生地を薄く伸ばして並べていく。石の熱がじりじりと指先を舐めて、右腕の古い火傷の痕がひりつく。それでも焼ける麦の匂いが立ちのぼると、あちこちから子どもが駆けてくる。その待ちきれない顔が見たくて、私は麦の実るたびに、重い石臼を担いでここまで来るのだった。
粉をはたいた手の甲は真っ白で、三つ編みの先まで麦の匂いが染みついている。この匂いが、私は小さいころから好きなのだ。
「ウネ、こっちにもちょうだい!」
「こら、順番。押さないの」
両手にあまる数の口が、私の焼くものを待っている。誇らしい、と言いきれたらどんなにいいだろう。
けれどパンは、食べてしまえばもう無い。ひと晩眠って夜が明ければ、誰も昨日のパンのことなんて覚えていない。丘に石を担ぎあげる男たちのように、あとに残るものを、私の手は何ひとつ作れないのだ。
その丘のてっぺんには、古い石の環がある。私の婆の、そのまた婆の、もっと昔に立てられたと聞く低い柱たち。腰の高さもない苔むした石が、ぐるりと輪をなして並んでいる。『見ている者たち』だと皆は言う。それが何をどこから見ているのか、私は知らないし、たぶん誰も知らない。
祭りは幾日もつづく。日が落ちれば火が増え、笛と手拍子が鳴る。誘われれば私もひと回りは踊るけれど、目はすぐ焼き場へ戻ってしまう。もう、性分だ。
その三日目の晩に、私はしくじった。焚火のかげんを見あやまって、外は焦げ、中は生のままの半端なパンを幾枚も焼いてしまう。捨てるのは麦がかわいそうだ。ちぎって丘のふちの窪みに放り、朝になったら焼き直そう。そう思ったきり、笛の音と手拍子にまぎれて、私はすっかり忘れてしまった。
◇
思い出したのは、祭りも終わりかけたある朝のこと。
雨水を溜めた石の窪みの底に、あのちぎったパンが沈んでいる。透きとおっていたはずの水が白く濁って、ぷつ、ぷつと細かい泡をひとりでに立てていた。
顔を近づけると、つんと酸っぱい匂いが鼻をつく。饐えて腐ったのかと思いきやなんとも芳醇な香りを湛えているではないか。
こわごわ指ですくって、そっと舌にのせてみる。
「……酸っぱい」
舌のうえで、ぱちりと泡が弾けた。酸くて、けれどどこか甘くて、思わず眉が寄る。饐えた匂いのわりに、いやな味ではない。喉が渇いていたのもあって、私は椀に一杯すくってぐいと飲みほした。もう一杯。気づけば、もう一杯。
しばらくすると、腹の底からぽっと温かいものが広がって、指の先までじんとしびれてきた。なんだか、やたらとおかしい。ひとりでにやにやしている私を見て、通りかかった娘が椀を覗きこむ。
「なにそれ、ウネ。分けてよ」
娘にも椀を渡してやる。ひと椀、ふた椀。日が傾くころには、その水を飲んだ者から順に、頬を赤くして笑いだしていた。ひと舐めで効くわけではない。何杯も飲むうちに、じわじわとまわってくるのだ。
石の窪みは、大人が両腕で抱えるほどもある。汲んでも汲んでも、まだ足りるだけの濁り水が溜まっていた。椀は手から手へまわり、丘のうえはいつのまにか、わけもなく笑いさざめく渦になっている。
誰かが椀を掲げて言う。「丘の水が、笑ってらあ!」
その晩、野へ散るはずだった人たちは、誰も腰をあげなかった。あのシュワシュワとした水を、もうひと晩。そう言って、皆この丘に居残ってしまったのだ。そして肩を組み、楽しそうに夜通し歌う。こんなことは生まれて初めてだった。ウネはトロンとした目で、後にビールと呼ばれ、何十億人が喜んで飲む飲み物をまた一口含んだ。
◇
その騒ぎの端に、ひとりだけ水を見ずに丘の上の石を見あげている男がいた。
痩せて背が高く、どこか遠くばかりを見ている目をした男。名をイシュといった。
「あれを、もっと大きくする」
誰にともなく、イシュは古い石の環を指さして言う。
「あの石を、私の背より高く起こすんだ。腕を彫って、組んだ手を彫って、帯を彫る。『見ている者たち』が降りてこられる、ちゃんとした家を建てる」
どっと笑いが起きた。酔いも手伝って、皆が腹をかかえてはやしたてる。腰の高さもない石をどうやって起こすのか。誰が、なんのために。
けれどイシュだけは笑っていない。彼はふらりと私のそばへ来て、あの泡立つ窪みをまじまじと覗きこむ。そうして、いやに真剣な顔で言ったのだ。
「これは天からの贈り物だ。――ウネ。お前が呼んだのか?」
名を呼ばれて、心の臓がとんと鳴った。口をきいたことなんて、数えるほどしかないのに。
私のしくじりを。焦げて生焼けの、捨てるはずだったパンを。この痩せた男は、あろうことか贈り物と呼んだ。
「……呼んでないよ。あれは、ただのしくじり」
「しくじりが、こんなにたくさんの人を笑わせるものか」
まっすぐにそう言われて、頬がかっと熱くなる。からかわれているのではない。この目は、本気の目だ。それが、よけいに困る。
皆がまだ笑いさざめく輪の外で、イシュはたったひとり丘の固い土を掻きはじめる。石を起こす穴を掘るのだと言って。
骨の箆で、かちり、かちり。誰も手を貸さないその乾いた音だけが、夜通し星の下の丘に鳴りつづけていた。
私はその夜、なぜだか寝つけない。かちり、かちり。遠いあの音が、まるで胸の鼓動と、拍を合わせるように――。
◇
――これは今から一万二千年前ほど、気の遠くなるほど昔のお話。
鉄どころか青銅器も土器すらもない石器時代、後にトルコの『ギョベクリ・テペ』と呼ばれる丘に人類初めての文明が萌芽する――そんな原始時代の一風変わったロマンス。お楽しみください。




