第13話 王国の影
扉が閉まる直前、廊下から元王の鋭い声が飛んできた。
「……いいか、偽物。最後に、最も重要な警告をしてやる」
足を止める。
「王妃イザベラには、我が妻には絶対に手を出すな。関わりを持つことさえ禁じる。視界に入ったら、全力で逃げろ」
(……我が妻に手を出すな? もちろんそのつもりだが……)
一瞬だけ彼の嫉妬心かなと思ったが、彼の声には本物の恐怖が混じっていた。
「いや、妻にはわしも太刀打ちできん。王妃イザベラは我が国の『影』を統括する、と言えばわかるであろうか。妻はすぐに、貴様が偽物の王だと見破るだろう。その場合、妻はわしを求めて取り乱し、貴様を詰問することだろう」
(取り乱す?)
(そんなことなかったけどな。楽しそうに見えた)
そんなイメージは、さっき会った氷の彫像のような女性からは想像もつかない。
「いいか、わが妻イザベラと関わるな。彼女は情に厚いところがあり、わしが偽物にすり替わったと知れば、悲嘆のあまり取り乱し、この城を血の海に変えてでも貴様を詰問するだろう。最後には、泣きながら貴様の四肢を一本ずつ切り落とすに違いない」
(いや、耳元で囁かれ、いい匂いがした)
「わしの身体が、……貴様が死ぬのは困る。とにかく、イザベラと関わらないことだ。いいな!」
バタン。
重い扉が閉まり、元王の警告が遮断された。
王の私室には誰もいなくなった。
彼は知らない。俺がすでに彼女と食事を共にし、スープを噴射し、そして――。
『今宵の主菜は、いかような愉悦を我に提供してくれるのか』という「王命」を叩きつけてしまったことを。
もう遅いってやつではないか。
「刺激的よ」と囁いた、あの甘い香りと、底知れない好奇心を湛えた瞳。思い出す。「私はイザベラ。よろしくね」とも言っていた。
元王の怖れていることは起きないのではないか。
「……まず、お願いがあるわ。言葉を発しないで」
(……え?)
俺はぎゅっと強く目を閉じた。
まったく前触れがなかった。
いつの間にか、王妃イザベラが部屋にいた。
彼女の瞳からは、先ほどの甘い光が消え失せていた。
代わりに宿ったのは、獲物の急所を正確に見定める、冷徹な狩人の視線。黒いイブニングドレスのスリットからはちらりと短剣が見えた。
「あなたの持っている、あの『王命』というスキル。あれは非常に強力すぎて、こちらの対応が難しいの。ディナーの席では、……やられたわ。だから、今は一切喋らないでくださる?」
彼女はそう言うと、華奢な指先で軽く空中に円を描いた。
瞬間、俺の喉の奥に、目に見えない鎖が巻き付いたような感覚が走る。
(スキル!? 喋らせないスキルをかけてきた!?)
実際、声が出ない。魔力の光のようなものが宙を舞っている。
俺は反射的に、小さく頷いた。
これはまずいのではないか?
喋れないということはスキルを使えないことだ。
いままでピンチを救ってくれた起死回生のスキルが無効になってしまっている。
イザベラは俺の頷きを見て、わずかに口角を上げた。
にこやかに微笑んでいるが、その瞳には、一切の情けなどない。
彼女は俺の顔をじっと見つめ、静かに、残酷な問いを投げかけた。
「……あなた。元の王と、入れ替わっているのかしら?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
冗談を言っているみたいな口調だった。それとも、俺を試しているのか。
逃げ場はない。
(正解。大正解だ)
彼女は気づいている。
元王が言っていた。王国の影を代表する彼女の洞察力は随一なのだと。
「答えは簡単よ。……もし、入れ替わっているなら、頷いてくださらない? 違うのなら、首を振っていただければいいわ」
絶体絶命。
スキルの発動条件だろうか。
頷けば、正体を認めたことになり、四肢切り落としコースとか?
首を振れば、嘘をついたことがバレて、さらに残酷な拷問が待っているとか?
そして声どころか手足が動かなくなっていることに気づいた。
(どうしよう! どうすればいい? 動けない!!)
俺の脳内でパニックが爆発する。
恐怖。落胆。逃避願望。
(もういやだ。消えたい。スキル「透明人間」を求める)
俺は、あまりの恐怖に、ガクガクと震えながら、ぎゅっと強く目を閉じた。
耐えきれず、俺はため息を大きく吐いた。
【スキル「ダメ人間」が発動しました】
「はああ。あーあ」
……静寂が訪れた。
(……あれ?)
恐る恐る目を開けると、そこには不思議な光景が広がっていた。
(しゃべっていないのに?)
イザベラが、不思議そうな顔で首を傾げていた。
彼女は確かに俺の目の前に立っている。だが、その瞳には、先ほどまでの「鋭い追及」の色が完全に消えていた。
「……あら?」
彼女は、俺という人間を視界に入れているはずなのに、その意識がすり抜けている。
まるで、そこに置かれた「古びた椅子」か「壁のシミ」を見るような、極めて希薄な視線。
「……なんだか、ぼうっとしてしまったわ」
彼女はぽつりと呟くと、あんなに執拗に追い詰めていたはずの「正体」への興味を、ゴミ箱に捨てるようにあっさりと放棄した。
「もういいわ。どうでも。もう遅いし、寝ないと」
彼女はそのまま、俺の横をすり抜けて部屋を出て行った。
俺がそこに立っていることさえ、もはや彼女にとってはどうでもいいことになっているようだった。
(……助かった!?)
俺はその場に崩れ落ちた。
手足が動くように戻っている。
最強の洞察力を持つはずの王妃が、今、俺を「そこに在るが、見る価値のない家具」か何かのように扱い、意識がすり抜けている。
喋らずとも、ただため息をつくだけでも、この世界で最も安全な「背景」になれる。
ダメ人間スキルは底知れない。最強のスキルにちがいない。
(……ダメ人間。……ダメ人間ありがとう)
スキルに多大なる感謝をささげながら、俺は王のベッドに横になる。
そこから眠りについて朝までは一瞬だった。
何も起きなかった。何も起きないことのすばらしさを俺は初めて知ることになった。
こうして俺は人生最大の危機を、ため息と「存在価値ゼロ」になることで乗り切ったのである。




