第1話:婚約破棄? ちょうど今、清算書が書き上がったところです
国一つを買い取るのは、まだ序の口。
世界全体の資産価値を適正化する、エレナの壮大な「残業」が今始まります。
「愛などという、不確かな変動資産に投資した覚えはありません」
きらびやかな王宮の晩餐会。
シャンデリアの光が、私の婚約者――だったはずの男、ジュリアン王太子を照らし出している。
彼は隣に「真実の愛」だという少女・ミレアを抱き寄せ、声高らかに宣言した。
「エレナ・フォン・ロスタンド! 貴様との婚約を破棄する! 愛を解さぬ無味乾燥な女め、二度とその薄汚い帳簿を私の前で開くな!」
周囲の貴族たちから、さざ波のような嘲笑が漏れる。
ドブネズミ色の髪。地味な眼鏡。
いつも数字ばかりを追い、国の予算案を削ることしか脳がない「ケチな公爵令嬢」。
それが、この社交界における私の「市場価値」だ。
私は、手元の銀の懐中時計をパチンと閉じた。
21時03分。予定より三分の遅れ。
「承知いたしました、殿下。契約の解除、確かに受理いたしました」
私の声は、驚くほど平坦だった。
悲しみ? そんな非生産的な感情は、三年前の時点で償却済みだ。
代わりに私がしたのは、脇に抱えていた厚手の革表紙――彼らが「薄汚い」と呼ぶ帳簿を、優雅な動作で開くことだった。
「……何を、している?」
ジュリアンが眉をひそめる。
「清算ですよ、殿下。婚約が破棄された以上、私はもうあなたの『共同経営者』ではありません。これまでの投資、および立替金を即刻回収させていただきます」
私は懐から、一枚の、ひどく長い羊皮紙を取り出した。
それを床に投げると、紙は絨毯の上をさらさらと転がり、王太子の足元まで伸びていく。
「な、なんだこれは……。請求書だと?」
「いいえ、殿下。それは『死刑宣告』よりも確実な、現実です」
私は一歩、前へ出た。
豪華なドレスの擦れる音。しかし、私の耳にはそれ以上に、王宮のキャッシュフローが止まる「音」が聞こえていた。
「項目一。あなたがその隣のミレア様に贈った『深海の涙』。あれは王室費ではなく、私の個人資産からの貸付金です。利息を含め、三億二千万ゴルド」
「なっ、そんなはずがあるか! 王室には潤沢な魔力予算が――」
「ございませんわ。あなたが昨年の狩猟祭で使い切りました。私が帳簿の上で、私財を『寄付』という形で流し込んで穴埋めしていただけです」
ジュリアンの顔から、さっと血の気が引いていく。
私は止まらない。
ペン先が紙を裂くような、鋭利な声で続ける。
「項目二。現在、この広間を照らしている魔導シャンデリア。その魔力触媒の維持費。半年前から滞納されています。これも私が立替中。項目三。騎士団の防具新調費用。項目四。王宮で使用されている高級ワインの卸し元への支払い……」
「ま、待て! やめろ、エレナ!」
「……総計、百二十億八千万ゴルド」
広間が、静まり返った。
百二十億。
それは、この王国の国家予算の一割に相当する額だ。
「婚約期間という名の『猶予』は、今この瞬間をもって終了しました。殿下、一時間以内に全額お支払いいただけますか? できなければ――」
私は、眼鏡の奥の瞳を冷たく細めた。
「法的手続きに基づき、この王宮の備品、および、あなたの『王位継承権』を担保として差し押さえさせていただきます」
「ふ、ふざけるな! たかが女の算術で、この私が……!」
ジュリアンが取り乱し、醜く叫ぶ。
対して、私は一礼した。完璧な、それでいて体温の感じられない礼だ。
「算術ではありません。これが『現実』です」
隣で怯えたふりをしているミレアを見た。
彼女の瞳に、ほんの一瞬だけ、奇妙な「光」が宿ったのを私は見逃さなかった。
だが、今はどうでもいい。
私は背を向け、大扉へと歩き出す。
この国には、もう一ペニーの価値もない。
私がいない王都が、どうやって明日を迎えるのか。
楽しみですらあった。
広間を出た瞬間。
背後で、パチン、と小さな音がした。
魔法の灯りが、わずかに瞬く。
――一つ。
まずは、王宮の照明維持システムが、予算切れで「破綻」した。
「さようなら、無能な皆様。……私の計算は、一度も外れたことはないのですよ」
夜風に吹かれながら、私は銀の手帳に最後の一行を書き込んだ。
『旧王国への投資額:全額回収予定。回収方法:国家解体による資産整理。』
私の本当の「成り上がり」は、このゼロ地点から始まる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
「数字」と「論理」で敵を追い詰めるエレナの物語、いかがでしたでしょうか。
去り際のエレナが仕掛けた「百二十億の罠」。
彼女が去った後の王国で、まず何が「消える」のか。
そして、闇に包まれた王宮で王太子が最初に見る絶望とは――。
次話、第2話「代わりの聖女様、私の残業代も肩代わりしてくださいね」。
当面の間は1日3話を投稿予定です。
どうぞ、お楽しみに。




