二十年
シュガルが町を見下ろしていると、空中を流れていたマナの筋が溶けるように消えていくのに気づいた。
色づいた筋が、一つ、また一つと薄れていく。
それらは陽光の下の霧のように散り、薄まり、まるで最初から何も奇妙なことなど起きていなかったかのように消えていった。
残ったのは、澄み渡る鮮やかな青空だけだった。
穏やかで。
残酷なほど、いつも通りの空。
ああ……
マナの流れが消えた。
シュガルの脳裏にその考えがよぎり、彼は目を細めた。
それから、強化された視界でレイナの屋敷の方角を見つめ続けているキエラの方へ顔を向ける。
「キエラ」
彼は言った。
「何が見える?」
「私は……」
彼女は言いよどんだ。
異変が始まってから初めて、キエラでさえ自分が目にしたものに確信を持てないようだった。
本当に、今のを見たの?
彼女の眉がわずかに寄る。
自分の視界を使っていても。
自分の目が捉えたものに自信があっても。
レイナの屋敷で見えた光景は、受け入れがたいものだった。
しばらくして、彼女は続けた。
「……どう説明すればいいのか分かりません」
シュガルは待った。
キエラの視線は、遠くに固定されたままだった。
「ですが、虎が現れて」
彼女はゆっくりと言った。
「鉄牙猪を倒しました」
シュガルは彼女を見つめた。
「……本気で言っているのか?」
「はい」
「レイナの屋敷に、二体の魔獣が現れた」
シュガルは状況を整理するように、声に出した。
「一体は鉄牙猪。そして虎が現れ、それを倒して去った……?」
キエラは答えなかった。
シュガルは再び窓の方へ向き直り、屋敷の方角を見た。
彼の立っている場所からは、キエラが見ているものは見えない。
それでも、彼の顔に浮かぶ不安はさらに深くなっていった。
「レイナの屋敷で、何が起きているんだ?」
その問いは、静かに彼の口からこぼれた。
すでにこの状況が、普通の説明で片づくものではなくなっていることを、彼は理解していた。
「ギルドマスター」
キエラが言った。
「どうしますか?」
シュガルは片手を口元へ上げた。
指で軽く口を覆い、いつもの考え込む姿勢になる。
普段なら、その仕草は彼が自分を落ち着かせ、結論へ向かおうとしている合図だった。
だが今回は、情報が少なすぎた。
町全体に及んだマナの異変。
消えたマナの流れ。
鉄牙猪。
それを倒せるほど強力な虎。
そして、そのすべての中心にあるのは、レイナ・スタシアの屋敷だった。
シュガルが答えを出す前に、執務室の扉が開いた。
グウェンが慌ただしく入ってくる。
いつもの落ち着きは、明らかに崩れていた。
「ギルドマスター」
彼女は息を弾ませながら言った。
「下に来ていただく必要があります」
シュガルは手を下ろした。
しばらく、ただ彼女を見ていた。
それから、扉へ向かって一歩踏み出す。
「……行くぞ」
キエラはすぐに動いた。
グウェンが脇へ退く。
そして三人は、共に執務室を後にした。
※※※
マナを断たれた時、何かがおかしくなった。
すべてがめちゃくちゃになる前に、私に理解できたのはそれだけだった。
最初にあったのは、音だけだった。
一つの激しい鼓動が、周囲の何よりも大きく、私の身体の中で鳴り響いていた。
そして、私の身体が地面に落ちた。
私が倒れたのを見るなり、レイナとマーカスが駆け寄ってきた。
二人の足音が、荒れ果てた中庭に、速く不規則な響きを刻む。
レイナは迷うことなく私のそばに膝をついた。
私の身体からどれほどの血が流れ出ているのかを見た瞬間、いつもの落ち着きが崩れた。
マーカスは彼女の向かい側に膝をつき、私の傷一つ一つ、皮膚の裂け目一つ一つ、身体が内側から開いていくように見える場所を目で追いながら、表情を険しくした。
周囲の音が、少しずつ遠のいていく。
すべてが背景へ沈んでいった。
その瞬間、存在しているのは四人だけのように思えた。
私。
レイナ。
マーカス。
そして、マリアダ。
それ以外は、何も意味を持たなかった。
マリアダは少し離れた場所に立ち尽くしていた。
彼女の両手は胸の前で宙に浮いたまま震えていた。
手を伸ばしたいのに、自分では動かせないかのように。
耳は硬く立ち、尻尾は動かない。
大きく見開かれた目には恐怖が浮かび、彼女は私を見つめていた。
まるで、彼女の足元で世界が止まってしまったかのようだった。
その時、鋭いひび割れる音がした。
硝子が割れるような音。
圧力に耐えきれず、卵の殻が砕けるような音。
マリアダが私の周囲に張っていた紫の結界がひび割れ、裂け、薄れていく光の破片となって消えていった。
だが、誰もそれを気にしなかった。
マリアダでさえも。
「なんてこと……」
レイナが息を呑むように呟いた。
その声は硬かった。
「血を失いすぎている」
彼女はすぐに動いた。
一番ひどく出血している場所の近くに手を押し当て、血を止めようとする。
反対側ではマーカスも同じように動き、顔に緊張を滲ませながらも、その大きな手で慎重かつ必死に処置を始めた。
「……ヴェーダ!」
レイナが叫んだ。
「こっちに来なさい!」
ヴェーダはすぐに中庭を駆けてきた。
「ここにおります、レイナ様」
彼女は二人のそばに膝をついた。
だが、私の姿をはっきり見た瞬間、その目が見開かれた。
血の量に、彼女は動揺していた。
傷も同じだった。
それは普通の切り傷ではなかった。
身体中に走る細く歪な裂け目。
外から斬られたというより、内側からの圧力で皮膚が裂けたような傷だった。
しばらく、ヴェーダはただ見つめていた。
「早く」
レイナが命じた。
「治しなさい」
その命令で、ヴェーダは我に返った。
「は、はい」
彼女は唾を飲み込み、私の身体の上に両手をかざして、頭を下げた。
「慈悲深き光よ、癒やしと再生の力をお与えください……」
柔らかな緑の光が、彼女の手のひらに集まった。
「治癒魔法」
その光が私へ広がる。
深い緑色のマナが、私の身体を包み込んだ。
痛みに触れるその温かさは、優しかった。
私は動けなかった。
何が起きているのかも、ほとんど理解できなかった。
思考は遅く、途切れ途切れで、痛みと闇の間を漂っていた。
それでも、その温かさだけは感じた。
それは傷に、慎重に触れていった。
一瞬だけ、安らぎのように感じた。
「申し訳ありません、レイナ様……」
ヴェーダが苦しげな声で言った。
「傷が深すぎます。私の力量では、治すのに時間がかかります」
彼女の手の周りの緑の光が揺らいだ。
強くなる。
弱くなる。
そして、また強くなる。
マナの流れが安定していなかった。
ヴェーダの呼吸は乱れ、どうにか治癒を定着させようと、必死にさらに力を注ぎ込んでいた。
「続けなさい」
レイナが言った。
その言葉が、ヴェーダを支えた。
彼女の顔に、小さな決意の火が灯る。
手が震え始めているにもかかわらず、彼女はさらにマナを流し込み、出力を上げた。
成功したかった。
役に立ちたかった。
レイナの命令に応えられるのだと、証明したかった。
だがその時――ヴェーダの表情が変わった。
「……何が、起きて……?」
レイナとマーカスが同時に下を見た。
緑の光はまだそこにあった。
治癒魔法は、まだ発動している。
だが、傷は閉じていなかった。
むしろ、広がっていた。
レイナとマーカスの間に、冷たい沈黙が流れた。
目の前で起きていることは、おかしかった。
完全に、おかしかった。
「止めて!」
レイナが鋭く叫んだ。
ヴェーダは即座に手を引き、半歩よろめくように下がった。
その言葉は厳しかった。
だが、レイナが彼女を責めたからではない。
レイナが、恐ろしいことに気づいたからだった。
「……くそ。傷が治っていない」
「治っていない?」
マーカスの声は硬かった。
「レイナ、この傷は悪化しています」
「見れば分かるわよ、老いぼれ!」
レイナが噛みつくように言い返した。
「それと、私にはレイナ様と呼びなさい」
こんな時でさえ。
額に汗を浮かべ、声に焦りを滲ませながらも、彼女はそこを訂正する余裕だけは残していた。
だが、その冗談に温かさはなかった。
歯は食いしばられ、顔は青ざめ、手は血に染まっている。
「分かりきったことを言う暇があるなら、解決策を出しなさい」
彼女は続けた。
ヴェーダは視線を落とした。
彼女の両手は、目の前で震えていた。
治癒魔法は失敗した。
いや。
悪化させた。
レイナとマーカスは、手作業で出血を止めようとした。
布。
圧迫。
素手。
使えるものは、何でも使った。
マーカスはためらいなく布を裂き、ひどい箇所へ押し当てた。
レイナは一つの傷から次の傷へと移り、開き続ける場所をどうにか塞ごうとする。
だが、それは普通の出血のようには振る舞わなかった。
その裂け目は、刃や爪で作られた傷には見えない。
まるで、私の身体が、内側に閉じ込められた何かのために空間を作ろうとして、弁を開いたかのようだった。
「指を動かして、老いぼれ」
レイナが鋭く言った。
「失血死するわ」
マーカスは何も言わなかった。
ただ手の位置を調整し、さらに強く押さえつけた。
威厳ある老人も、屋敷の自信に満ちた女主人も、もういつもの二人ではなかった。
状況が、二人を必死さだけの姿へ引き剥がしていた。
レイナの命令は、どんどん速く、鋭く、ほとんど焦りを帯びたものになっていく。
マーカスの落ち着きも、険しい集中へと狭まっていた。
ヴェーダは近くに膝をついたまま、無力さと恐怖に固まっていた。
彼女の指先には、治癒魔法の淡い光がまだ残っている。
まるで、その失敗を嘲るかのように。
そして、マリアダは……
マリアダは、まだ動いていなかった。
彼女はその場に凍りついたように立ち尽くし、まるで自分の身体に裏切られたかのように、すべてを見ていた。
どうすればいい?
彼女の思考が、渦を巻き始める。
血が多すぎる。
私には治せない。
治癒魔法も効かない。
どうすればいい?
私のせいだ。
私がやった。
私が、何とかしないと。
彼女の目は、血に染まったレイナの手から、マーカスの険しい表情へ。
そして、震えるヴェーダの指先へと移った。
それから、再び私へ戻る。
彼女はすべての命令を聞いていた。
すべての失敗を見ていた。
誰にも答えがないと証明する言葉の一つ一つを聞いていた。
受け入れられなかった。
受け入れたくなかった。
絶望が胸を押し潰そうとしても。
罪悪感が彼女を底へ引きずり込もうとしても。
彼女は自分の心の中で戦っていた。
何かあるはずだ。
魔法。
薬。
方法。
奇跡。
何でもいい。
……
何かあるはずだった。
だが、何もなかった。
その考えが、彼女を砕きそうになった。
唇が震える。
両手が拳へと握り込まれる。
そして、さらに深い絶望へ落ちかけたその時――一つの記憶が浮かび上がった。
ずっと昔、レイナと交わした約束。
破る必要など来なければいいと、彼女が願い続けていた約束。
そしてその記憶の中で、マリアダは一本の細い希望の糸を見つけた。
※
レイナは怒っていた。
誰か特定の相手にではない。
この状況そのものに怒っていた。
「ヴェーダ」
レイナが呼んだ。
「……治癒ポーションを持ってきなさい」
「はい、レイナ様」
ヴェーダはすぐに従おうとした。
「いいえ」
マリアダの声が、彼女を止めた。
全員が振り向く。
マリアダはレイナのすぐ近くに立っていた。
顔は青ざめている。
だが今は、不思議なほど落ち着いていた。
つい先ほどまでの恐怖は、決意へと硬く変わっていた。
「それでは効きません」
マリアダが言った。
レイナの目が細くなる。
「メアリー……何を言っているの? 今はポーションだけが頼りなのよ」
マリアダは一歩前へ出た。
メイド服の裾が、中庭の石畳に広がる血に触れる。
私のそばにしゃがみ込むと、膝がその血に沈んだ。
だが、彼女は少しも怯まなかった。
その目は、私の身体に固定されたままだった。
「彼を救う方法は、もう一つあります」
「え……?」
レイナは彼女を見つめた。
「どんな方法?」
マリアダは私を見下ろした。
その表情は、もう決まっていた。
まるで、誰もまだ知らない代償を、彼女だけが先に受け入れてしまったかのように。
「私なら、彼の傷を再生できます」
彼女は言った。
「ですが、レイナ様の助けが必要です」
「私の助け?」
レイナの顔に困惑が浮かんだ。
マリアダに治癒魔法が使えるなど、聞いたことがない。
医者でもない。
医療の訓練を受けているわけでもない。
なら、彼女はいったい何を言っているのか。
そして、レイナは理解した。
その事実が、一瞬で彼女を貫いた。
目が見開かれる。
「だめ」
マリアダは顔を上げた。
「はい……私の封印を解いてください」
「絶対にだめよ、メアリー。それはあり得ない」
「……ご主人様」
「だめ」
レイナはさらに鋭く繰り返した。
「絶対に許さない」
「ですが、それしか残されていません」
マリアダは言った。
そして、自分の胸に手を当てた。
「私がやらなければなりません。私が、やりたいのです」
「だめだと言ったのよ、マリアダ」
彼女の名を完全に呼んだことで、空気が静まり返った。
レイナの答えに迷いはなかった。
それは、最終決定だった。
「あなた、自分が私に何をさせようとしているのか分かっているの?」
レイナが問い詰める。
「その封印を解いたらどうなるのか、分かっているの?」
マリアダは答えなかった。
レイナは一歩近づき、声を強張らせた。
「失敗すれば、あなたが死ぬかもしれない。使いすぎれば、自分を壊すかもしれない。それを分かっているの?」
「分かっています」
「なら、諦めなさい」
マリアダの目が細くなった。
耳がまっすぐに立つ。
尻尾は完全に動きを止めた。
もう、懇願する時間は終わっていた。
「レイナ様」
レイナがわずかに固まる。
マリアダはまっすぐに彼女の目を見た。
「もし、あなたが私の力の封印を解かず、そのせいでクライが死んだら……」
周囲の全員が息を止めた。
「私は一生、あなたを恨みます」
沈黙が中庭を呑み込んだ。
マーカスはマリアダを見つめていた。
ヴェーダはわずかに唇を開いたが、言葉は出てこなかった。
彼女たちが知る限り、マリアダがレイナにここまで逆らったことなど、一度もなかった。
ヴェーダはマーカスへ視線を向けた。
何か言ってほしいと、無言で訴えるように。
「……あの……」
その声は小さかった。
「メアリーさん……本気では、ありませんよね……?」
「本気です」
マリアダはヴェーダを見なかった。
その目は、レイナに固定されたままだった。
「この愚行をやめなさい、マリアダ」
マーカスが言った。
声は強かった。
だが、その下にある心配は隠しようがなかった。
この中で最年長のマーカスこそ、最も落ち着いているべきだった。
仲裁できる者。
事態がさらに悪くなる前に、止められる者。
だが、マリアダは彼を無視した。
「マリアダ……」
ようやくレイナが、低い声で言った。
「もし私がその封印を解いて、あなたが彼を救おうとして死んだら、私は自分を恨むわ」
マリアダは何も言わなかった。
代わりに、メイド服の背へ手を伸ばした。
その手つきは落ち着いていた。
彼女は背中に刻まれた魔法陣が見える程度に、服をそっと緩める。
その印は薄く、肌とほとんど同じ色をしていた。
だが、見間違えようがなかった。
描かれているようには見えない。
刻み込まれているようだった。
ずっと昔から、彼女の身体の一部になっていたかのように。
「レイナ様。誰も死にません……私も。もちろん、クライも」
「……」
「信じてください」
レイナはその封印を見つめた。
顎に力が入る。
一瞬、彼女はまた拒もうとしているように見えた。
マリアダを無理やり止めようとしているように。
だが、マリアダの言葉は、彼女の中のもう拒めない部分へ届いてしまった。
レイナは強く息を吐いた。
「……分かった」
マリアダは一瞬だけ目を閉じた。
「ありがとうございます」
「礼なんて言わないで」
レイナは言った。
「私はこれが大嫌いよ」
「だめです、レイナ!」
マーカスが一歩前へ出た。
「やめてください」
「黙っていなさい、老いぼれ」
レイナは自分の指先を噛んだ。
すぐに血が滲む。
マーカスは止まった。
納得したからではない。
レイナがもう決めたのだと分かったからだ。
その瞬間、彼には二人のどちらも止められなかった。
レイナは最後にもう一度、マリアダを見た。
「準備はいい?」
「はい」
マリアダは一度だけ頷いた。
ためらいはなかった。
それでもレイナは、彼女の顔を探るように見つめた。
ほんのわずかな迷いでも見つけようとするかのように。
だが、そんなものはなかった。
マリアダはただ、私へ視線を落とした。
それが彼女の答えだった。
もう考えを変えることはないのだと、レイナは理解した。
レイナは、完全に背を向けたマリアダの後ろへ回った。
封印が露わになっている。
レイナの指先から血が落ち、魔法陣へ向かった。
血はマリアダの肌を流れ落ちなかった。
代わりに、封印の溝へ入り込んだ。
細い赤い線が模様の中を広がり、少しずつ満たしていく。
やがて、円全体が暗い深紅の光を放ち始めた。
「馬鹿なことはしないで」
レイナが言った。
「しません」
マリアダが答えた。
その声は静かだった。
だが、揺らぎはなかった。
「私は、クライを救いたいだけです」
レイナは血に染まって光る封印へ手のひらを置いた。
空気が期待で張り詰めた。
「ムドラー・ヴィモチャナ」
「……」
レイナがその言葉を口にした瞬間、封印が反応した。
黒い模様が、マリアダの身体を這うように広がっていく。
それは背中の魔法陣から、生きた墨のように動き出し、肩を越え、腕を下り、首へ伸び、彼女の肌の線に沿って広がっていった。
美しかった。
その模様は、まるで優雅な刺青のようだった。
明確な意図を持って形作られ、彼女の身体の優美さを損なうどころか、むしろ引き立てている。
だが、それを見ていた者の誰一人として、それを飾りだとは思わなかった。
それは拘束だった。
そして今――それが壊れようとしていた。
「マーカス様……」
ヴェーダが、マリアダから目を離せないまま囁いた。
「何が起きているのですか?」
「レイナ様が、マリアダの魔法に掛けられた封印を解いているのです」
ヴェーダの困惑が深まる。
「封印? でも、マリアダさんはもう魔法を使えます」
マーカスの表情が引き締まった。
「……下がりなさい」
ヴェーダは動かなかった。
彼に逆らうつもりだったわけではない。
恐怖よりも先に、好奇心が彼女を捕まえていた。
「何の封印のことですか?」
彼女が尋ねた。
マーカスは何も言わなかった。
ただ、目の端で彼女を一瞥し、それから視線をレイナとマリアダへ戻した。
ヴェーダもその視線を追う。
マリアダの身体を覆う模様が、最終的な形へと辿り着いた。
そして、レイナが一歩下がる。
マリアダの背中の魔法陣が、一度脈打った。
次に、ひび割れた。
鋭い音が中庭を切り裂く。
さらに、もう一度。
魔法陣と、彼女の身体を覆う黒い模様が同時に砕け始めた。
内側から殻が割れるように、細い光の筋がその隙間から走る。
そして、封印が弾けた。
マナが外へ噴き出した。
紫のオーラがマリアダの周囲に爆ぜるように広がり、濃密で圧倒的な輝きとなって彼女の全身を包み込んだ。
それは、周囲からマナを吸収するマナ・ビルドとは違っていた。
まったく別のものだった。
彼女の内側にあった何かの蓋が、外されたように感じられた。
長い間封じられていた何かが、ようやく呼吸を許されたようだった。
彼女のマナが高まる。
さらに高まる。
さらに、なお高まる。
ほんの数秒で、中庭はそのマナに満たされた。
空気が重くなる。
その時、ヴェーダが咳き込み始めた。
「……息が……」
彼女は胸に手を押し当て、苦しそうに呼吸をしようとした。
「息が……できない……」
「くそっ」
マーカスが即座に動いた。
彼はヴェーダを抱え、マリアダから跳び離れる。
圧力がさらに悪化する前に、二人の間に距離を置いた。
「大丈夫ですか、お嬢さん?」
彼はヴェーダの背を軽く叩きながら尋ねた。
ヴェーダは再び咳き込み、苦しげに息を吸った。
「今の……何だったんですか?」
「マリアダのマナに触れたことによる反応です」
マーカスが言った。
「心配はいりません。回復します」
ヴェーダは動揺していた。
だが、それ以上に困惑していた。
「でも……私はマナ中毒に耐性があります」
「違います」
マーカスの声は硬かった。
「あなたに耐性があるのは、弱いマナ中毒です」
その言葉は重く響いた。
ヴェーダは黙り込んだ。
マーカスはマリアダの方へ視線を戻した。
「それに、あなたのマナと彼女のマナは性質が逆です。相反するマナが触れ合えば、強い方が弱い方を毒します」
ヴェーダには、何も言い返せなかった。
現実が、誰の言葉よりも厳しく彼女に答えていた。
「抑えなさい、メアリー」
レイナが言った。
マリアダは目を閉じた。
彼女の身体を包む紫のオーラが揺れる。
一瞬、それは不安定で、ほとんど荒れ狂っているように見えた。
それから、彼女は息を吸った。
ゆっくりと。
溢れ出していたマナが、引き戻され始める。
身体から漏れ出ていたマナが内側へ引き込まれ、抑え込まれていくにつれて、中庭の圧力は少しずつ弱まっていった。
封印は破られた。
そして、彼女は再び本来の力を取り戻していた。
レイナは一歩下がり、私のそばをマリアダに譲った。
マリアダは深く息を吸い、先ほどのヴェーダと同じように、私の身体の上へ両手を下ろした。
彼女の手のひらが、私の上で静止する。
しばらく、彼女は魔法を発動しなかった。
その目が、柔らかくなる。
彼女が考えていたのは、ただ一つだけだった。
クライを救う。
何があっても。
それから、彼女の唇が動いた。
「ナラ・アル――ラヴァ・ナラ……」
その言葉を聞いた瞬間、レイナの目が伏せられた。
獣人族の言葉……
本気なのね。
マリアダは続けた。
「……ルーン・セタ」
詠唱が完成した瞬間、紫の光が彼女の手から広がり、私の身体を包み込んだ。
それは頭から足先まで、私を覆うカプセルのような円を形作る。
薄く、滑らかで、影を帯びた月光でできた第二の皮膚のようだった。
その光の中で、私の傷が変化し始めた。
戻り始めたのだ。
皮膚に走っていた裂け目が、ゆっくりと閉じていく。
私の下に広がっていた血が逆流し、石の上から、レイナの手から、マーカスの布から、そしてヴェーダの袖に染みついた痕からさえ引き戻されていった。
すべてが、私に返ってくる。
本来あるべき場所へ。
最初、マリアダは落ち着いているように見えた。
だが、数瞬が過ぎると、負担が表れ始める。
肩が強張った。
奥歯を噛みしめる。
額には、薄く汗が浮かんだ。
紫の光が一度揺らぐ。
だが、すぐにまた安定した。
レイナは黙ったまま見つめていた。
両手を身体の横で強く握りしめている。
マーカスも見ていた。
その表情は険しい。
ヴェーダは少し離れた場所から、まだ息を整えながら見つめていた。
自分が目にしているものの重さを、完全には理解できないまま。
時間が、ゆっくりと過ぎていく。
そして、ついに紫の光が薄れた。
カプセルが溶けるように消える。
私の身体は、まだ動かなかった。
だが、傷は消えていた。
切り傷もない。
血もない。
裂けた皮膚もない。
中庭を汚していた血さえ、あるべき場所へ戻ったかのように消えていた。
マリアダは身体を少し後ろへ倒し、息を吐いた。
その顔に、安堵が柔らかく広がる。
彼女の役目は終わった。
クライは、生きられる。
その一瞬だけ、彼女は自分に安らぎを許した。
その時、彼女が咳き込んだ。
唇から、大量の血がこぼれ落ちる。
「メアリー!」
レイナはすぐに彼女のそばへ駆け寄り、完全に崩れ落ちる前にその身体を支えた。
「無理しないで。大丈夫?」
マリアダは手の甲で口元の血を拭った。
「大丈夫です」
彼女は言った。
レイナは彼女を見つめた。
その目は鋭かった。
だが、その鋭さの下には恐怖があった。
「どうしてルーン・セタを使ったの?」
レイナが尋ねた。
「ミラ・アルでも十分だったはずよ」
マリアダは視線を落とした。
「十年です」
「ん?」
「彼が失っていた時間です。寿命を、十年」
レイナの目が見開かれた。
その意味は、すぐに伝わった。
「……つまり、あなたは二十年失ったの?」
その声には、ためらいがあった。
その問いを口にすることで、現実味が増してしまうかのように。
マリアダはかすかに頷いた。
「少なくとも」
レイナは目を閉じた。
「くそ……メアリー……」
苛立っているように聞かせようとしていた。
だが、その声に滲む心配は隠しきれていなかった。
「あなたが寿命を失うのには、いつまで経っても慣れないわ」
マリアダはすぐには答えなかった。
代わりに、私を見下ろした。
その顔に困惑が浮かぶ。
「ですが、分かりません」
彼女は言った。
「人間は、本来なら私にとって最も戻しやすい存在です。必要なマナも、時間も少ないはずなのに」
レイナの表情が変わった。
最初、マリアダはそれに気づかなかった。
まだ私を見つめたまま、困惑していた。
「なぜ、これほど多く必要だったのでしょうか」
「……」
レイナは黙っていた。
ごめん、メアリー。
でも、クライはただの人間じゃない。
真実は、私の中に留めておかなければならない。
一人で。
これ以上、あなたを苦しませるわけにはいかない。
だから、私に背負わせて。
ようやく、マリアダが彼女を見た。
「レイナ様?」
レイナは瞬きをした。
「何か、悩んでいるように見えます」
何?
顔に出ていた?
「何でもないわ」
レイナはすぐに言った。
「私のことは気にしないで。あなたは休むことに集中しなさい。顔色が悪いわ」
「……はい」
その返事は、柔らかかった。
そして、マリアダの力が抜けた。
その身体が、レイナの腕の中へ崩れ落ちる。
「メアリー?」
レイナはすぐに彼女の様子を確認した。
それから、深く息を吐く。
「……眠っているだけね」
安堵が彼女の顔に広がった。
レイナは慎重にマリアダを抱き上げ、できるだけ優しく支えながら立ち上がった。
そして屋敷の方へ向き直る。
彼女を中へ運ぶつもりだった。
だが去る前に、マーカスへ視線を向けた。
「マーカス」
「はい、レイナ様」
「私はマリアダを私の部屋へ連れていくわ……」
彼女は私をちらりと見た。
「あの馬鹿も中へ運んでおいて」
マーカスは了承するように頭を下げた。
レイナは屋敷の入口へ向かって歩き続けた。
マーカスは命じられた通り、意識のない私の身体を中へ運んだ。
中庭は荒れ果てたままだった。
崩れた壁。
死んだ魔物。
そして、薄れていくマリアダのマナの痕跡。
それらだけが、今起きたことの証人として残されていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
感想やコメントをいただけると、とても励みになります。
次回は「第12話 イブ・セヌメル――家族と愛の在り処」です。




