SIDE/エルミナ 実家のような安心感
皮肉にも、宰相になってから浪費貴族のことをいくらか理解できるようになった。
領民に対する責任を負い、仕事が忙しくなればなるほど、リフレッシュのための時間は限られる。そこで必要分の休息を圧縮して効率の良さを追求しようとすると、「金」になるのだ。
金があると、体験を圧縮できる。どこへ行かずとも美味しく温かな食事を得ることができる。馬車に金をかけることで、移動中にゆっくりと眠れる。手入れされた毛並みの大きな犬たちを侍らせておくことができる。
金で得られるものは決して多くはないが、金で解決できる問題は存外多い。
もっとも、浪費貴族の大半はその責務を果たしているようには見えませんけれど――。
つまるところ、極めて忙しかった。
山積みの書類を前にペンを置き、トレに火をつける。
使用人の寝静まった屋敷の中で、魔石を使って紅茶を淹れる。
トレを深く吸って吐き出し、そこに熱い紅茶を流し込む。
柑橘系のさわやかなフレーバーが心地よい。
バルコニーに出て月を眺める。
ぬるい風が全身を撫でる。
吸って、
吐き出す。
一つの動作にこんなにゆっくりと時間をかけられるのは、本日の睡眠を諦めたからだ。
机上の書類は、完了済みの右の束よりも未着手の左の束の方がまだ背が高い。
なんとか朝までには終わるだろう。
吐き出した煙が夜に淡く溶けていく。
最近になって、キサキ王妃の気持ちが分かってきた。
わたくしたちが国をまともにしようとこれだけ尽力しているのに、人々はやれ王国法はこうだ、バレなければ問題でないなどと宣い、自身の利得のために国を弄んでいる。
キサキ王妃の言う「王国法に対する敬意に欠いている」というのは、結局のところ国を良くしようと働く人々への冒涜であり、侮辱なのだ。
……流石に魔王を使ってまでそれを破壊しようとまではまだ思わないものの、仮にわたくしがそれを生涯願うことなく終えられたとするなら、それは非常に幸運だったか、周囲の人々に極めて恵まれたことかのどちらかによるものだろう。
「あ、エルミナだ」
隣室のバルコニーからステラが顔をのぞかせた。
「よく気づきましたわね」
「なんかこう、あくどいオーラが壁越しに滲んできましたからね」
「隔たりがなければ蹴っていたところですわ」
ステラが柵を乗り越えて、ひょんとこちらのバルコニーに着地する。
「隣なのですから、扉から来なさいな」
「この格好だしなー」
公爵家に籍を置いている者としては露出度が高く、確かに屋敷内とはいえ公の場に出すべき姿ではなかった。
ステラがその格好でくるりと回り、大袈裟にカーテシーの素振りをする。
そのアンバランスさが面白い。
美しく月明かりを反すその様に、彼女には自由でいてほしいと思った。
「最近、エルミナは忙しそうですねえ。お手伝いしましょうか?」
「それはわたくしの仕事が余計に増えるのではなくて?」
「その可能性は……高いとやや高いの中間くらいですね」
「これがわたくしの得意なことなのですから、あなたはあなたの得意なことをやりなさいな。どうですの、あなたの事業、対魔の方は」
「とってもいい感じです。国内にはあらかた聖水を配備できましたし、有事を想定した訓練もやれたから、今後、魔物被害は格段に減らせるんじゃないかなと期待しています。これからの時代は魔物よりも人の悪意の方がよっぽど害になるかもしれませんね」
その言い方にステラらしさを感じる。
この子は人間を大切に慈しみながらも、根本のところでは等しく人間を信用していない。
その二つが両立するところが彼女の美しさであると感じる。
「また二人でどこか冒険に行きたいですね」
「わたくしは、風の心地よい高原で本を読むくらいでよいのですけれど」
「賭けてもいいけど、その環境だったらエルミナはなんだかんだ言い訳しながら仕事をすると思う」
「あなたはわたくしを……いや、否めませんわね」
「もっとこう、ワケわかんないところで、仕事から離れられるくらいワケわかんないことやりたいな」
「わたくしがどっと疲れることだけは目に見えますわね」
「でもきっと楽しいですよ」
「そうですわね」
ステラが無邪気に笑う。
彼女が自由であるためならば、わたくしは何でもできるだろう。
***
――というような会話は確かにした。したけれども……自由すぎる!
竜で嵐に突っ込み地上まで落とされ、よそ様の家を燃やし、牢に入れられ、脱獄し、洗濯と給仕をして、妖刀を渡され、賭け試合をやらされ、政争に巻き込まれ、都合の良い戦力として使われ、皇女に執着され、薬を盛られ、刀を盗られ、剣聖を斬り、他国の大会に出場を促され――。
ただ婚約破棄をしに来ただけなのに、どうしてこんなに密度が高いんですの!?
そして今はスレイ皇国の国事でアルス王国のパン屋と戦っている。
どうして彼女はこんなに色々やってしまうのだろう。
わたくしだったら一つもやりたくない。
やらざるを得ないかどうかはともかく、少なくとも進んでやりたくはない。
だけどおそらく、この国を出る際に感想をステラを尋ねたなら、「楽しかった」の一言でまとめてしまうだろう。その程度の確信はある。
ステラはわたくしに対する理解を示す際に「エルミナ解説士」などという意味の分からない資格を持ち出してきますけれど、それで言うのならわたくしはステラ検定の運営母体ですからね。資格とは発行する側が唯一にして最も強い利権なのですから。
ステラにはこの国の一つ一つが目新しく、新鮮な驚きがあり、様々な感情を持ち合わせている。
単に外国だから、ということではない。
アルスにいたとしても、平凡な景色だろうとも、彼女には昨日と今日で別のように見えているだろう。
一日一日を後悔しないように大切に過ごし、日々新しいことを取り入れようとチャレンジしている。
露店の串焼きすら「おいしい」と喜び、虐げられている人々を見たら憤慨し、与えられた役割を楽しみ、他者を大事にし、尊敬し、見たもの全てから学びを得ようとする。
ステラの隣で過ごし、その在り方を学んでいなければ、きっとわたくしの能力は今の半分にも達していないだろう。あの日、魔の森で「聖女さま」と出会わなかった自分の今を想像すると、なんとも恐ろしい気持ちになる。
『でもエルミナは未知のものを食べるときに絶対私に先に食べさせますよね』
仮想ステラが、ステラが言いそうなことを頭の中で語りかけてくる。
『それとこれとは別の話でしょう』
頭の中で言い返す。
『たしかに』
素直なステラはすぐに納得する。
わたくしはステラ検定の運営母体である。
*
くだらないことを考えている間にも目下では、ステラがメイの猛攻を辛うじて捌いている。
わたくしにあの手数の攻撃を捌けるだろうか。
必要な魔法陣の数と展開速度を概算する。
刀という重くて邪魔な棒を持たず、闇魔法だけを平常心で使えたなら捌けるだろう(もっとも以下に相手から平静を奪うか、という点が魔術師の真価であるけれど)。
ステラにとってもおそらくはそうであるはずだ。
さらに言うのなら、メイの魔法は本来であればもっと早い。
だけどメイもステラも律儀にこの国を重んじて、攻防の中に刀を組み入れて運用している。
ここにわたくしと彼女たちとの明確な差異がある。
わたくしにはない探求の光がある。
わたくしであれば、この状況であれば魔法だけで乗り切ろうとするだろう。
というかそもそもこんなメリットのない大会には出ない。
だけど彼女たちは違う。
高みを目指して、自分に不利な条件を敢えて組み込んで、切磋琢磨している。
こういう一つ一つの真剣な取り組みが、彼女たちを上へ上へと引き上げている。……もっともステラはそんなことを考えずに「たのし~」と思いながら刀を振っていると思いますけれど(わス運)。
そうこうしているうちにメイの綺麗な一発が入って勝負がついた。
ということは賞品にされているエルフたちはメイに勝ち取ってもらう必要があるということだ。
そのための準備はしてある。
ユリアナに貸しを作るために、剣聖三位は排除済み。
エルフたちの回収ルートは概ね準備した通りの軌道に乗ったはずだ。
*
「あっ、エルミナ様だ。こんにちは」
「ごきげんよう。美しい試合でしたわね、おめでとう」
「さすがの先輩でした。試合前と比べて私はものすごーくスキルアップしましたよ。今日の朝よりも二割は技術が増し増しです」
メイが手の中の魔法球を弄ぶ。
昨日メイと話した際に見たものよりも、手の中の数が増えていた。
「身体を休めた方がいいのではなくて?」
「魔法って疲れてる時が一番伸びるんですよー。今休んじゃうともったいないですから」
隣にいたライカと目が合う。
おそらく、通じ合ったはずだ。
「優勝してくださればなんでも構いませんわ」
「おまかせあれっ」
メイが元気にくるりと回ってみせる。
色とりどりの魔法球が眩い軌跡を美しく描いた。
「あれ、そういうエルミナ様なんだかお疲れですねぇ」
「……どうしてそう思いますの?」
「前にお会いしたときと比べて魔素の巡りが滑らかではないような?」
「ったく、あなたは……」
そんな意味不明なものでコンディションを当てられてしまったらどうしようもない。〈魔王〉が認識えるというステラもそうであるが、この子にもこの子だけの視え方でこの地平が見えているのだろう。
再びライカと目が合う。
通じ合った。
「ナタ皇子に教えてもらったんですけど、エルフの力を抑えるために、この国全体が反魔素のようなもので覆われているそうです。この剣技場がまさにその中心地だそうですから、なんだろ、魔術師だと相性が悪い人もいるかもしれません。知ってました? ここってまさに初代皇帝さんが伝説の竜を倒した場所なんだそうですよ」
「あなたは平気ですの? エルフの中にだってあなたほどの魔術師はそうはいないと思いますけれど」
「メイは、いつも自分で負荷をかけて、ます」
ライカが代わりに答えた。
つまりは慣れたものということらしい。
わたくしだって己が凡庸さ痛感するのは誰かさんのおかげで慣れっこだ。
しかし、思えば確かにこの国に入ってからずっとパフォーマンスが悪かった。
竜に乗った男に負けて人質にされたことなんて恥でしかない。
公安保としてエルフを解放した時だって、ほとんど何もしていない。
目ぼしい成果といえば剣聖三位を殺したことくらいで、他はステラと温泉に入り、街歩きをし、串焼きを食べ、一緒にお土産を見て、謎のステファ丼を手伝い、共に星を見たくらいだろうか。
……わたくしも十分、この国を満喫していますわね……。
結局のところ、そういうことなのかもしれない。
コンディションだとか、志が高いだとか、眩しいだとか眩しくないだとか関係なく、わたくしは単にステラといると楽しい。楽しいから一緒に居たいのだ。
「逆にこちらが労われてしまいましたわね」
「なんのことですか?」
「なんでもありませんわ。ステラの様子を見せてきますわ。優勝しないと許しませんわよ」
「メイちゃんにおまかせあれっ」
二人に手を振って部屋を出る。
やれることはやっているはずだ。
賞品エルフの懸念はメイに押し付け、ステラを初戦で敗退させ、ユリアナ第二皇女には貸しを作っている。ミヤ第一皇女がどう仕掛けてきたとしても、どういった狙いがあったとしても、ステラとの婚姻は結ばせない。あなたたちの婚約を、華麗に破棄してステラを我が国へと連れて帰って差し上げますわ。
*
が、起こったのは婚約破棄ではなく、戦争と呼べるほどの武力衝突だった。
気持ちよさそうに眠るステラを横目に、戦況を見下ろす。
「ふふふ」
思わず声が漏れる。
もともと未来予測が得意な方ではない。
にもかかわらず、わたくしがステラにそういった印象を抱かれがちなのは、単にそのように振る舞っているからだ。その方が生存に有利だからだ。ただ断片を拾い集めながら即興で辻褄を合わせているだけなのだ。
だからそう、
「おほほ、この展開は予想していませんでしたわね」
竜が落ちていくのを眺めながら、独りごちる。
ステラがわたくしの真似をするときのこの変な笑い方はなんですの。
「あらあら。なにを予想していなかったんです?」
振り返ると、キサキ王妃がいた。傍にカトレア卿を従えている。
「どうしてこちらに?」
「およよー、まさか忘れられていましたか? わたくしはあなた方とは違って正規の入国手続きを踏んで、わたくしのかわいいステラの結婚式を見に来たのですけどねえ」
気持ちよさそうにベッドに横たわっているステラを一瞥してからキサキ王妃が答える。
「そういえばそういう話でしたわね」
「カトレア卿~、宰相様がひどいですよ―」
カトレア卿がそれに答えず、短くこちらを見た。
「他にはいませんの?」
「この国は一人護衛が美徳とされていますからね。エルフ流にいうのなら、『短命種には天気の話でもしておけ』ですかねえ」
「おそらくは相手の価値観に合わせるという意味の言葉なのでしょうけど、微妙にイラッときますわね」
「『精霊は星を映す』ですよ」
おそらくは「言葉の受け取り方は己の鏡である」というような意味なのだろう。ユナが好きそうな解釈ゲームだ。
カトレア卿が同情と安寧と共感の入り混じった眼差しでこちらを見ていた。
「皇都に入るまでずっとこのゲームをやらされていましたのね」
「エルフの諺を千五百は覚えてしまったよ」
カトレア卿がしんみりと口にする。
「カトレア、こういう時はなんというのでしたっけ」
王妃が楽し気に尋ねる。
「『竜に魔王』、でしょうか」
「よよ、それだとわたくしとの会話が虚しいものだったということになりますけれど……なりますけれど?」
「……『竜に子守唄を歌う』?」
「うーん、まあ良しとしましょう」
明らかに言わされて出た回答に、王妃が満足した様子で頷いた。
「仲が良いですわね」
「とてとて」
そう答える王妃を「疲れたよ」という表情を隠さずにカトレア卿が見つめている。
カトレア卿はわたくしやステラの学園時代の師でもあるロス先生の教え子で、アルス王国の単一戦力としては国内で五本の指に入る存在だ。かつてトーレスの魔法大会ではステラに負けたものの、純粋な武力としては彼女の方が圧倒的に上だろう。
魔王事変の際には剣聖一位のイオリとやり合ったにも関わらう、今のように「疲れたよ」という表情を浮かべただけで、このように存命している。
同じく魔法強者であるグランス公爵家所有のレイがセイラを破った土魔法は、元々は対カトレア卿を想定して準備されていた初見殺しである。
すなわち、極めて強者であって、王妃(兼国王)を国外で護衛するための人選としては極めて妥当であるといえるだろう。
そしてアルスからの道中この王妃様と二人で旅をしてきたのだとしたら…………それはさぞかし、さぞかし大変だったに違いない。
そういった労いの意が伝わったのか、彼女が小さく口角を上げてから、またいつもの表情に戻った。
「宰相として、王妃殿下にお伺いしますけれど、この事態にどう振る舞われますか?」
見下ろした剣技場の先では、エルフと剣客たちが入り乱れて殺し合っている。
先ほどよりも規模が拡大している。
この広大な剣技場がまさにこのために存在しているかの如く、数多の魔法と刀の殺意を大きく包み込んでいる。
王妃が人差し指を唇に当てて、小さく首をかしげて目を瞑る。
こんなではあるが、この王妃は魔王と共謀し、国王を殺害し、王国の解体の試みを聖女に阻止されてなお、ちゃっかりと玉座に居座り続け、いつの間にか敵対していた聖女やその妹と茶をしばく間柄になっている。わたくしですら、どちらかといえば彼女に気を許している。彼女の本来の目的であったアルス王国を良くするための試みの最前線に彼女は今なお立っている。
一度負けたにも関わらず当たり前のように勝ち席に座っていることが一体どれだけ異様なことだろう。
こと政治的視座、あるいは環境のコントロールという点において、キサキ王妃の能力はわたくしとは比べ物にならないほどに高い。
「そ、う、で、す、ねー」短く言葉を区切りながら、彼女が小さく微笑む。「……わたくしなら、この後まもなく、結界をおろすかしら。それに付き合うのは美味しくないですから、動けるうちにさっさとここを出ることが先決ね」
「でしたら、ステラを起こしますわ」
「いえまさか。その必要はありませんよ、宰相様。貴女たちは残って。その方がアルスには優位だと思いますよ。アルス王国の表象であるわたくしが巻き込まれていないこと、一方でやはりアルス王国の象徴である宰相と聖女が巻き込まれてこの一件に当事者性を有すること。言ってしまえば被害者面できるということ。共に抑えておけるのならそれはとてとて美味しいでしょう」
キサキ王妃に肩をとんと叩かれる。
魔王にすらできないような悪い笑みを当たり前のように馴染ませるその表情に、ため息をつくことしかできない。
だけど彼女がそう言うのなら、それが最善なのかもしれないとも思ってしまう。
もしかしたらこの王妃に殺された国王だって、自身の死が国の立て直しに繋がるのだと彼女に信じさせられたのかもしれない。そういう不思議な説得力をこの王妃様は有している。
「ったく、やれやれですわね。仰せのままに。ただこちらに残る以上、好きにやらせてもらいますわ」
「ええ、もちろん。とてとて信頼していますよ」
「それはどういった類の信頼ですの?」
「わたくしにアルスという国を壊させなかった貴女とステラに対する、絶大なる信頼ですよ」
彼女がおどけたように優しく言った。
「適したエルフの諺はありませんの?」
「でしたら『国を亡ぼしたければ魔王の影に入れ』なんて言い回しがありますよ」
それは単なる実体験でしょうに。
「……もしかしてエルフの諺を即興で作っていませんの?」
「残念。バレちゃった」
「えっっっ、私が覚えさせられた千五百の諺ってない(傍点)んですか!?」
「貴女が覚えておいてくれるなら、それはきっと存在しますよ」
カトレア卿が崩れ落ちる。
憐憫、とは今この瞬間に彼女に向けられるために作られた言葉であるだろう。
「それではごきげんよう。わたくしはメイさんのパン……いえ、極めて高度な政治的視座によりお先に失礼しますね。行きますよ、カトレア」
人を疲れさせるだけ疲れさせて、王妃様がひらひらと帰っていった。
*
ステラが目を覚まし彼女とともに戦地に降り立つと、そこもまた疲れる空間だった。
刀、魔法、矢、竜、人、エルフ。
あらゆる加害の意志が上下左右を飛び交っている。
前提を把握していないから、誰がこの場の勝者になるのが自分たちにとって最も利となるかが判断できない。ルール不明のゲームを、どうなれば勝ちかも分からないままプレイさせられている。
「癒せ!」
ステラが倒れたユリアナ皇女を治癒している。
一切先の読めないこの戦況において魔力は可能な限り節約するべきだ。合理的に考えれば他国の皇女を治癒している場合ではない。
だけどきっと、ステラはその魔法を行使するにあたり、悩みすらしなかったはずだ。
仮に彼女が一瞬でも悩んだそぶりをしたのなら、わたくしはそれこそ迷いなくその頭部を闇魔法で抉るだろう。それは間違いなくステラの姿に成りすました偽物だから。
「んもうっ」
連続で今度は彼女はキリヱを治癒する。
……流石に悩んでもよくってよ?
いや、彼女は悩まないだろう。
しかしながら、事態はより悪化した。
空間を閉ざしていた何かが破れ、上空より新たな陣営が出現する。
どうやらユリアナ皇女が誘致したマリウス帝国の軍勢らしい。
……これは流石に死罪ですわね。
よく見ると軍勢を率いているのは、先日わたくしを竜上から投げ捨てた男だ。
確定死罪ですわね……などとユリアナ皇女に嫌味を言う暇もなく、目まぐるしく戦況が展開していく。
魔阻がまかれ、見知らぬ剣客が現れ、天位が魔物化し、妖刀が降り注ぐ。
一手一手が効果的でありながら、次の手の布石にもなっている。
わたくしたちに刃を向けたことを除けば、非常に優秀な指揮官だ。
教育が優れているのだろうか。もしそうであるならば、スレイがマリウス帝国を属国にした暁には、友好国の好で軍の教育を模倣したいものである。
――などと考えている場合ではなかった。
妖刀に目的を操られた大量のエルフと人間が、隙間なく襲ってくる。
包囲され、じりじりと押されていく。
量は多くとも、質はそこまで高くない。
万全の状態のステラであればなんなく対処できるはずだ。
しかし今はそうではない。
二度の治癒で魔力を吐き出し、魔天位と戦い、魔阻を浴び、そもそもメイとの戦いでの消耗もあるはずだ。そんな中でよく健闘しているといえるだろう。
一方でわたくしはどうですの?
王宮で書類仕事ばかりをするようになり、最近ではステラとの差は開く一方だ。
スレイに来てからは対エルフの反魔素に当てられて、よりコンデションは良くなかった。
今のわたくしでは――わたくしでは――。
そこで、力が漲っていることに気が付いた。
なんだってやれそうな気がする。
学園時代以来の充実感。あの懐かしの全能感。
大気のすべてがわたくしの味方であるような感覚。
理由が分からない。
周囲は魔阻と妖気でこんなにも濁っているのに、こんなにも呼吸が楽だ。
呼吸の一つ一つで体内に魔素が充実していくのが分かる。
わたくしは、この感覚に覚えがある……?
……そう。
実家だ。
わたくしの母親は魔王だった。
母は恐ろしく、家の空気は淀んでいた。
そう、これは実家の空気だ。
「あはっ」
わたくしは魔阻と妖気でぐちゃぐちゃに淀んだこの空間に親しみを抱いている。
実家のような空気に安心感すら覚える。
吸って、
吐き出す。
力が漲っている。
――光よ。
魔化したエルフ、人間、剣技場を埋め尽くしていたその魔のすべてが光の下で消滅する。
「…………おーほっほっほっほ、蹂躙ですわぁ~っ!」




