あなたのいる風景
皇都は夕暮れ時の中央通りが最も美しいのだという。
太陽が山の輪郭に沿って空を朱く染め上げ、その上からゆっくりと藍のヴェールが下りてくる。石燈籠に火が灯り、皇宮に続く長い大通りの両端がほんのり淡く浮かび上がる。
私が画家だったなら、皇国百風景を描く中にこの風景は絶対に含めるだろう。
「燈籠の明かりって蝋ですか? リムや魔石ではなく?」
普段は登れないという歴史ある五重塔の上からこの風景を見せてくれたミヤ皇女に尋ねる。
自分のところの王宮を光でピカピカにしてみて思ったけれど、国の発展度と夜の首都の明るさにはある程度の相関がある気がする。その点、この通りの光量はすごい。夜なのに、昼と同じくらい遠くまで見えてしまいそうだ。
「そう。税の無駄という意見もあるのだけどね、私はこの眺めが好き。この灯火のひとつひとつの先に民の営みがあるように感じられるから。あなたにも綺麗だと思ってもらえるなら、その、うれしいのだけれど」
風になびいて、髪の向こうの瞳がのぞく。夕日を反して、赤く燃えているように見えた。
「……ミヤは普段どういうことを考えているんですか?」
その瞳の彩に思ったことを口にしてみたら、ものすごく漠然とした出力になってしまった。
「そうね、この食事には毒が入っていそう、とか、あの華族は使えるから褒美を出さなきゃとか、あの剣聖を斬るときのハメ方をどうしようかなとか、そういうくだらないことばかり」
「すごく具体的だ」
「ただの自己開示よ。さ、あなたの番ね」
「ぐ……、そうですね……」
適当に答えることもできたけれど、それは彼女への敬意に欠く気がする。
「私はアルスにおける〈聖女〉という機能なので、昔はいつも対魔物のことを考えていました。とにかく王国の魔物被害をゼロにしたかったから。でも聖水ができてその機能を配れるようになってからは、私がいなくても全く問題がないような、非属人の対魔物構築の方に興味が出てきていて、今も、ここがアルスだったらあの燈籠の中に等間隔で聖水を配備してるな、なんて考えています。あとはそうだな……私は、私に相談してくれた人、私を頼ってくれた人の力になりたいと思っていて、だからあなたのことをたくさん教えてほしいと思っています、よ?」
「…………あなたってそんなだから、誰彼構わず求婚されるんじゃない?」
「ミヤが婚約を望んだ理由を教えてほしいな」
「…………」
彼女の瞳が小さく揺れて、その葛藤が伝わってくる。
太陽が山の向こうに完全に沈み切り、夜の領域が広がっていく。
塔の下でイオリが空を眺めているのが見えた。
「ただあなたが好きだから、と答えたら信じてくれる?」
「それは、あんまり、かな」
「……向こうに大きな剣技場が見えるでしょう。あそこでね、今度、大刀神例祭というお祭りをやるの。知っている? 街もそういうムードでしょう」
「うちのキサキ王妃から聞きました。剣聖が演舞したり戦ったりするっていう」
「そうか、そうね。キサキは詳しいわね。そこで私は皇妃を斬るつもり。だからその前に、自由な皇女のうちに一度くらいはやりたいことを好き勝手やっておこうと思っただけよ」
「好き勝手というと――」
「あなたと婚約して、こうやってデートして――」
「うーん、なんで私なんですか……? その、最近は王都でも仲良くしてもらってるとは思うけど、その、そういう相手として……?」
「信じてくれると約束するなら答えてあげる。しないなら答えない」
「……信じましょう」
「ほんと?」
「本当です。白銀等級の契約魔石を握ってもいいですよ」
「あなたたちってそういうのが好きよね。……いいわ」
ミヤが一度目を瞑ってから、観念したように言葉を紡ぐ。
「――私ね、あなたのその目が好きなのだと思う」
「目、ですか……?」
「そう。深い絶望色の差した瞳。だけどそれに染まらず、懸命に光りを放とうと足掻き、星の瞬きを抱いた瞳。私はあなたの背景を知らないけれど、それは私が好意を抱かない理由にはならないからね」
彼女の肩が私の肩にちょこんと触れる。
「あ、ありがとう、ごっざいます……」
普通にテレちゃった!
意識をすると目のやり場に困ってしまい、空を見上げる。
まだ仄かに明るい空の中で、強い光を放ついくつかの星だけがその姿をあらわにしている。
「ねえ、こっちを向いて。あなたの目を見せて」
ミヤの手のひらが私の頬に触れる。
視線を逃がす試みを諦めて、瞳がまっすぐに交じる。
「嗚呼、きれいだわ」
「あなたの瞳も……あ――」
美辞麗句を反そうとして、彼女の瞳の彩が先ほどまでと変わっていることに気が付いた。
「――――――――」
それは、深く、遠く、黒かった。
瞳の中のその陰だけで、なんとなく彼女のこれまでの人生が想像できてしまった。
どれだけ辛い目に合って、どれだけ諦めて、どれだけ自身から手を離したのか――。
一度足を取られたら、ただひたすらに沈んでしまいそうな陰翳――。
「普段は装っているけれど、これが本当の私。上辺では明るく振る舞えても、奥底ではなにも動かない。何にも興味がない。岩のように凝り固まっていて、口を動かすことすら億劫だった。楽しいことといえば、華族を斬ったり、この国の根幹を破壊しようと画策しているときくらいでね、私には負の喜びしかなかったのよ。でもね、あなたと出会ってからは案外そうでもないの。イオリと二人であなたのところに行く前の晩は楽しみで眠れなかったし、あなたのすべてに興味があるし、あなたの挙動一つで動揺しちゃう。一晩中だってあなたとお話していたい。……あなたを見ていると、なんだか私の行き止まりの先にも、光があるんじゃないかと思ってしまう。焦がれてしまう。それだけで胸が苦しく、満たされてしまうの。――好きよ、ステラ。私はきっと、あなたの眩しさに目を細めていたいのね」
「………………………………あの、もしかして……ひょっとして、ほんとうにひょっとしてなんですけど、もしも私の考えが正しければ、あなたって本当に私のことが好きなんですか?」
「……あなたが皇国民だったらその首を刎ねていたわ」
ユリアナ皇女と同じことを言われた。
「む。今、私ではない人のことを考えたでしょ」
「もしかして夜会のあれって本当に、純粋なプロポーズだった?」
ミヤがふいとそっぽを向いてから、時間差でこくりと頷く。
「それにしては随分と計画的だった気がするけど」
あんなに都合よく、別国の人が求婚してくるだろうか。
「計画的であることと、本当に純粋な好意の表明であることは両立するわね?」
「――その、ごめんなさい……」
「……それは、何に対する謝罪?」
「あなたの気持ちに対して、これまでの私の振る舞いは誠実ではなかったと思うから」
「……誠実なのね」
「博打打ちなんです」
「んもう。すぐ茶化す」
「ねえ、ミヤの目をもう一度私に見せて」
くいと顔を顔をこちらに向けさせて、その目を覗き込む。
輪郭が溶けてしまいそうなほどに暗く、遠い深淵。
そこに手を伸ばすだけでそのまま帰ってこられなくなってしまいそうな幽遠。
「――きれいですよ」
「……ほんとにそう思ってる? こんなくすんだ目を?」
「どうかな。こんな彩をした人が、私の目を美しいと、私のことを好きだと言ってくれるという嬉しさ込みでそう思うのかも」
「んっ、……及第点ね。ぎりぎり」
「ご存じだと思うけど、私は光と闇の魔法使いです。だから光と闇には同じだけ価値があると考えます。眩い光と同じくらい、あなたのくすんだ闇も素敵だと思う」
「……ちょっと冗長」
「……――きれいだよ、ミヤ」
言うことがなくなった。
たぶん今、私は顔がとても赤い。
「合格。ふふっ」
彼女が小さくはにかんだ。
「そういえば王宮で初めて会ったとき、私の目がどうこう言ってましたよね」
「…………ィォリィ。違うの、あのときは本当にまだ……」
「紅茶に浮かべてぺろぺろ舐めたいでしたっけ」
ぽかぽか殴られた。
握力だけで折ることができそうな細い腕。
試しに腰を抱いてみると、私の腕の長さでも余裕で一周出来てしまった。
「あ、あの、近いんだけど……」
「わ、ごめん」
「離さなくても良いのに……」
「ご飯とかちゃんと食べてます?」
「私が軽い方がイオリが運びやすいのよ」
「そんな早馬の騎手みたいな理由?」
「本当はね、よく毒を盛られるから、もう味覚がないの。なにを食べても美味しくない。喉を通らない。長く皇族をやっていると、必然そうなるのね。私に限らず、たぶんユリアナもないんじゃないかしら」
「確かに、ユリアナ様も軽かったですね」
「む」
「いや、座ってたのを立たせただけだから。こんな風に抱き寄せてはいませんよ」
私の腕の中で彼女が頭をぐりぐりと動かして脱出を試みる。
髪が肌に擦れる感触が心地いい。
私の方が力が強いから、その気になれば彼女は一生ここから出られない。
「あとで一緒にご飯食べますか? 昔、妹とレシピを作って食堂に売ってたんですけど、同じ料理を出してもメニュー名が違うだけで売れ方が違うんです。情報を食べる、というやつらしいですよ。あなたが好きな私が食べさせてあげるから、それを味覚情報の代わりにしてみてください」
「私が好きなあなたが食べさせてくれるの?」
「そうじゃないんですか?」
「そうね。私が好きなあなたがね」
「あ、やめて、恥ずかしくなってきた」
「……ふふ」
「あはは」
「ねえ」
「なに?」
「いえ、楽しいなと思って」
「楽しいに越したことはないですからね」
頬を撫でる風に、幾許かの寂しさを覚えた。
たぶん、この人は今度の例祭で死ぬ覚悟なんだろうなと思う。
口に出さなかったけれど、自らの死期を定めた生き物というのは、動物であれ人間であれ、なんとなく分かるものだ。それこそ、瞳の奥まで覗いたのなら。
それに対して、私は考えを改めろとは言えない。
私だって、魔王と戦う前にはほとんど自分の死を確信していたわけだから。
見てきた景色があって、積み上げてきたものがあって、彼女はそこに挑むべきゴールを定めたのだ。それを撤回せよと言えるほどの傲慢に、私はなれない。
だからせめて、例祭までのうちの何日かを私と過ごす選択をしてくれたのなら、私を好きと言ってくれたこの人に、私はなにか応えてあげたいと思った。




