第二十六話 『大道芸人カレンⅡ』
服の注文は終わったが、黒兎はまだ戻らなかった。
カレンは仕立て屋から出てマーヴァル王国の街並みを眺める。カレンの視界に入ったのは、すべての家の壁を覆ってしまう程に咲き誇る花たちだった。
「綺麗」
ぽつりと呟く。待ってろと言われたカレンは仕立て屋から離れる気はなかったが、ヴィガが王となるマーヴァル王国の景色をもっとたくさん見たいと思った。
出発まで何日もない。
少しでも長くこの国の空気を吸っていたい。
「……不思議」
「何が不思議なの?」
「ひゃっ!」
声を掛けたのは仕立て屋の女だった。カレンの傍らに立って、カレンが見ていた灰色が混じった水色の空を不思議そうに見上げる。
カレンが不思議に思ったのはこうして呼吸ができることだった。人魚の時も呼吸はできたが、滅多に海の上に出ることがなかったカレンにそれをする機会はなく。なのにまるでまばたきをするように当たり前にできることに驚いたのだ。
「な、何も!」
慌てて誤魔化す。自分が元人魚であることを言い触らすつもりはない。それは、海を出る時にクラウスから耳に胼胝ができる程に聞かされていることでもあった。
クラウスは、ある日突然国から姿を消したカレンのことを心配していた。
国中の人魚に命じてカレンを探していたこと、それでも見つからなくて妻であるボーディルに頼る為にボーディルの住処に近付いたこと、そこで虎獅狼に襲われているボーディルを見たことを話す。
先にボーディルが手を出していたとはいえ虎獅狼に謝る気はない。そして自分が人魚になったようにカレンが人間になったことを複雑だと言いつつも、カレンを送り出したクラウスをカレンは父として愛しているし、尊敬もしている。
仕立て屋の女はカレンの横顔を眺め、「何か不安なことでもあるの?」と尋ねた。
「……役に、立てるかなって」
人魚となったクラウスは、人間の自分を捨てて当時デュアル王国の王女だったボーディルと再婚した。
後にフローラの為に国を出たボーディルの代わりに国王となって、元人間で王族出身でなくても人魚たちから国王として認められていたクラウスを尊敬している。
そんなクラウスと自分を重ねてしまうのも、海の魔女と呼ばれたボーディルと自分を重ねてしまうのも、親子だからに他ならない。
これから他種族として生きること。立派な魔女になること。
そうすると決めたのは偶然だが、どちらも親が生きてきた茨道なのだとカレンは胸が苦しくなる程に理解している。理解しているから親のようになれるのかと──黒兎の力になれるのかと悩む。
「……私、走ることもできないしまだ魔法も使えないんです」
「あら、そうだったの」
仕立て屋の女は驚く。
カレンは黙って俯いた。
「大丈夫。できないことは恥ではないわ」
仕立て屋の女が見た魔法職の人間は一人ではない。
「恥ずかしいのは言い訳をすることよ」
呪いの魔女と呼ばれる程の実力を持った魔法職の人間には会ったことがないが、実力不足に対して言い訳をする冒険者の人間には会ったことがある。
「今はできなくても、できることを少しずつ増やしていけばいいのよ」
「できること……」
カレンは両手を開いて掌を見つめた。十七年も海の中にいたカレンができることは──。
瞬間、何かが足元に落ちた。太腿にあった例の感触がなくなっている。慌てて下を見るとクラーケンが伸びていた。
「いやぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁ!」
「えっ? …………きゃぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁあぁ!」
カレンが叫ぶとカレンの周りにいた人間もクラーケンに気付く。瞬間、その道にいた全員が悲鳴を上げながら逃げていった。
「クラーケン! どうしたの! クラーケン!」
カレンはクラーケンを抱えて必死に揺さ振る。こんなに草臥れたクラーケンを見たのは初めてだ。まるで十年前のデュアル王国の国境だったクラーケンを見ているようで心が波立つ。
「み……」
クラーケンの掠れた声が風に混じって聞こえてきた。
「み?!」
クラーケンに耳を近付けると、「……ず」と呟いたクラーケンから力が抜ける。
「水!」
言われてみればクラーケンの体から水分が抜けているような。両手から大量の水を出すと、クラーケンはゆっくりと腕を動かした。
カレンは急いで巨大な水玉を作り出す。ボーディルがそうしていたように水玉を浮かすと、クラーケンはその中で生き返ったかのように遊泳した。
「よ、良かったぁ!」
海の中にいたカレンは魚が陸で生きることができない意味をようやく理解する。クラーケンは魚ではないが海の生き物だ。陸よりも海の方が快適だろう。
「クラーケン、やっぱり貴方は海に帰った方が……」
カレンは家族と国民たちに別れを告げた。クラーケンはその後で彼らに別れを告げたらしい。
「帰りません! カレン様が帰らないのに何故私が帰るのですか!」
クラウスがどんな反応をしたのかは知らないが、クラーケンが苦しい思いをすることは知っていたはずだ。それを言わないクラウスではないと思う。
それでも陸に上がったクラーケンは、魔女になるだけではなく旅に出ると言ったカレンを心配していた。
もう心配しなくていいとわかってくれたら、クラーケンは海に帰ってくれるだろうか。カレンは頭上を泳ぐクラーケンを見つめる。
「あっ、あぁ……!」
そして、震える声で我に返った。
傍らを見ると仕立て屋の女が腰を抜かしていた。カレンもクラーケンも、タコが人間から悪魔と呼ばれていることを知っている。クラーケンが泳ぐのをやめると重力に従ってカレンの頭部に落ちてきた。
「あ、あぁっ、あぁ……!」
仕立て屋の女は声と同じように震える指でクラーケンを差す。カレンは慌てて「大丈夫です! この子は生きてます!」とクラーケンを抱き上げるが、仕立て屋の女の表情は恐怖に顔を引き攣らせた。
「ひぃぃいぃ?!」
「あれっ、違う?!」
「カレン様、私は死んだフリをします!」
瞬間、クラーケンが腕を脱力させた。だらりと腕がカレンの髪に掛かるが、仕立て屋の女はそれにも戦く。
「皆様! 大丈夫ですか!」
どうすることが正解なのかと戸惑っていると、京紫色が視界に入った。見ると、マーヴァル王国の騎士たちが駆けてくる。
「あっ?!」
驚いたのはカレンだけではなかった。マーヴァル王国の騎士たちもカレンを知っているらしく、「ん?」と眉間に皺を寄せる。
「な、何をしていらっしゃるのですか……カレン様」
騎士たちは全員ヴィガとヒルデが結婚することを知っていた。その上ヒルデとカレンの関係も知っている。カレンと黒兎と虎獅狼をしばらく城に滞在させる為、ヴィガが騎士たちと従者たち全員にすべてを話したのだ。
「え、えっと……」
騎士たちはカレンの頭上の水玉と腕の中のタコを見ても不審に思わない。
十八年前にマーヴァル王国の傍の海に沈んだクラウスが生きていたことも、カレンの正体も、知っている。
「カレン様……っていうのはどういうことだ?」
「誰なんだあの子は」
どう説明すればいいのかと困っていると、クラーケンを見て一目散に逃げた人々もカレンと騎士たちを見て困惑していることに気付いた。見回りをしていた騎士たちを呼んで戻ってきたらしい。
「な、なんだあれは!」
彼らはカレンと騎士、そしてクラーケンに視線を向けていたが、空に浮かぶ巨大な水玉が視界に入らない訳がない。全員それを見上げて唖然とした。
「えっ? えっ?」
カレンはタコが悪魔と呼ばれている理由も人々が水玉を見て驚く理由もわからない。水玉は水属性の人間ならば誰でも生み出せるはずなのに。
「か、カレン様、とりあえず水玉を消すか小さくしてください。大き過ぎます」
カレンの正体を知っている騎士の一人が進言した。カレンにとっては普通の大きさなのだろうが、人間にとっては夢を見ているのではないかと思う程の大きさだ。
魔法に触れる機会がないと死ぬまで自分の属性を操れない者もいる。属性を操れても日々の生活に必要な大きさしか出せない者もいる。魔法を学んで魔獣を倒せるようになっても、貴族や王族という身分故に使わなくなってしまった者もいる。その実力故に冒険者として旅に出ても、使うのは回復魔法や防御魔法のみという者もいる。
タコを頭部に乗せる狂人もいないが、街中で大量の水を出す狂人もいない。
カレンは騎士の言うことに従うことにした。掌を握り締めると水玉はクラーケンと変わらない大きさになる。泳げないが水浴びならばできるだろうか。
「か、カレンさん、貴方気持ち悪くならないの?」
仕立て屋の女が恐る恐る尋ねた。カレンは慌てて「クラーケンは友達です!」と胸を張るが、「そうじゃなくて」と否定される。
「そんなに魔法を使って、魔力切れにならないの?」
「ならないです!」
もう一度胸を張るが、仕立て屋の女は驚いた表情を崩さなかった。
「あの人、もしかして他国の王女様……?」
「確かに、魔法学校に通える方ならあの魔力量も納得だ……」
カレンは何も言っていないが、人々が勝手に誤解する。人々はやがてカレンの腕の中のクラーケンへと視線を移し、「尊い人には我々には理解できない変わった趣味があるようだ」と納得した。
「カレン様、勝手なことをしないでください……! 何故ここにいるんです?」
近付いてきた騎士たちが小声で尋ねる。
「何故って、服を買いに……」
「護衛を付けてください……! 貴方に何かあればヴィガでん……国王とヒルデ……王妃が悲しみます……!」
カレンはゆっくりと脳裏にヴィガとヒルデを思い浮かべた。真っ直ぐにカレンの目を見つめたヴィガと、「ずっと妹が欲しかったんですの」と微笑んだヒルデだ。
あの二人ならば出逢ったばかりの自分が傷付いたら悲しんでくれる。騎士たちの言葉は嘘ではないと心から思えた。
「護衛なら……」
「カレン! 何してんねん!」
噂をすれば影が差す。見ると、大量の荷物を抱えた黒兎が走ってくるところだった。
人集りがあればさらに人が集ってくる。人集りの中心にいるのがカレンであるとすぐに気付いた護衛の黒兎は、全員を綺麗に避けて近付いた。
「えぇっ?!」
「なんだお前うねうねして! デビルフィッシュか!」
「誰がタコや! ちゅーかカレン! 金払ってへんのに店の外出たらあかんやろ! っておばちゃんどないしたん?!」
一瞬で言いたいことをすべて言った黒兎は、腰を抜かした仕立て屋の女に声を掛ける。仕立て屋の男に起こしてもらった女は「お、お二人とも凄いんですね……」と黒兎とカレンを見比べて呟いた。
「「凄い?」」
黒兎とカレンの声が重なる。仕立て屋の女は吹き出しながら頷いて、「他の人にはできないことができるじゃないですか」とカレンの水玉に指で触れた。




