第二十一話 『エスタが見た世界』
昔から、騎士が真っ先に護る王子はヴィガだった。
王妃を母に持つヴィガと公妾を母に持つエスタだ。
国王である父はエスタもエスタの母も愛したが、公の場にはヴィガとヴィガの母しか連れて行かない。そんな時、エスタの母は人目を憚らずに奇声を発する。
幼いエスタはそんな母を嫌だと思ったが、母の感情を理解するよりも先に綺麗で煌びやかな世界に自分と母の居場所がないことを理解した。
国王になるのはヴィガだ。
ヴィガの婚約者は隣国の王女のヒルデで、隣国の国王はヴィガと同い年のスヴァインで、何故ヴィガはまだ王子なのだろうと長い間疑問に思っていた。
スヴァインにはヒルデしかいない。そして、ヴィガにはエスタしかいない。
ヒルデとエスタの違いは性別だ。女王はいない訳ではないが、マーヴァル王国の歴代の王は国王が大半だ。ヴィガは異母弟のエスタがいるから国王になれないのかもしれない。
そんな訳ないと自分で否定できる程、オルメイはエスタに期待していないのに。騎士たちはヴィガよりもエスタの方が国王に相応しいと噂していた。
実際、ヴィガはヒルデが来ている時以外は毎日のように一人で海に出ていた。
当然危ないと止める騎士はいたが、ヴィガは彼らを振り切って海に出る。思い詰めたような表情をしているのに海には決して落ちないヴィガを、砂浜から多くの騎士たちが見守っていた。
エスタは城の廊下からそんな彼らを見つめていた。
ヴィガは王の器ではない。騎士たちはヴィガを慕っている訳ではなく、ヴィガが王太子殿下だから見守っているのだ。
エスタも王の器ではない。騎士たちだけではなく父である国王からも認められていない人間は王に相応しくない。
だが、誰もが王の器ではないと認めているウーリが王としてのうのうと生きている。
ならばヴィガも王として生きていいはずだ。
ヴィガに足りないのは王としての覚悟だけ。ならばエスタができることは一つしかない──。
城に逃げたはずのヴィガが自分の下へと駆け出している姿を見て、エスタは馬鹿な異母兄だと思った。
反乱を起こした異母弟を八つ裂きにしようとする表情ではない。命乞いをしようとする表情でもない。
今まで一度もエスタの瞳を真っ直ぐに見れなかったヴィガが、あんなにも執着していた海ではなくエスタを見ていた。
スヴァインとヒルデは最初はヴィガを見ながら駆けていたが、エスタをいないものとして扱わない。
「ヴィガ殿下! 下がってください!」
イェンスが叫ぶが、ヴィガは無視してエスタの両肩を掴んだ。想像していた力よりも強い。目の前にいるのはいつものヴィガではない。
「俺はずっと、エスタが王に相応しいと思ってた!」
何を言うのかと思えば、国王と王妃を除いた城中の人間が最初から思っていることだった。
国中の人間は本当のヴィガを知らない。ヴィガの奇行を知っているのは城中の人間と海中の人魚だけだ。
「求められてるのは兄様だ!」
エスタはヴィガを睨む。
瞬間、スヴァインとヒルデがヴィガとエスタの体を全力で押した。
水玉が京紫色の空を横切る。
どうせ死刑なのだ。ヴィガだけ庇えば良かったのにスヴァインとヒルデはヴィガとエスタの名前を呼ぶ。
同じ父と母から産まれた兄妹は異母兄弟の人生を少しも理解していない。そんなところが苦手だったのに覆い被さる三人を退かす力は出なかった。
四人は為す術なく巨大な波に攫われる。海と共に生きる国に生まれた四人は泳げたが、五人の人魚に囲まれたら動けなかった。
五人の人魚のその顔は四人全員が知っている。その中の一人が、握り締めていた短剣をヴィガに向かって振り翳した。
「──ッ!」
ヒルデがヴィガを抱き締めて、スヴァインがそんな二人を抱き締めて、ヴィガがヒルデとスヴァインに短剣が当たらないように手を伸ばす。
それを見た人魚はゆっくりと短剣を下ろしたが、泣きそうな表情は崩さなかった。
「やめてぇッ!」
水中なのに、陸上と変わらないくらいに綺麗な声が聞こえてくる。
四人と短剣を持つ人魚の間に割って入ったのは、長い赤髪が美しい人間の少女だった。
「か、カレン?!」
驚いたのは九人全員だ。彼女が声を失ったことは九人全員が知っている。嘘を吐いていたとは思えない状態だったのに。
カレンは海を操って虎獅狼にしたように水のない空間を作った。
ヴィガ、エスタ、スヴァイン、ヒルデは地面に落ちて勢いよく噎せる。イサベラ、グンヒルド、ドルテ、ペニーラ、アンネも地面に落ちたが、驚きのあまり固まっていた。
「ごめんなさい!」
大粒の涙を流してカレンが四人に謝る。両手で濡れた砂を鷲掴んで視線を落とし、肩を震わせて泣き続ける。
「悪いのは、俺だ」
ヴィガが息を整えてそう言った。カレンは「違う!」と首を左右に振るが、「違わない」と言って認めない。
「全部俺が悪いんだ」
「何を言っているんですの! ヴィガは悪くありませんわ!」
スヴァインは眉間に皺を寄せただけだったが、ヒルデが否定する。カレンとヒルデが否定しても、スヴァインが責めなくても、ヴィガは認めなかった。
「いい加減にしろよ!」
鋭い音が海辺に響く。耐え切れなかったのはエスタだった。
ヴィガはエスタに叩かれた左頬に触れず、黙ってその痛みを受け入れる。
「僕はずっと、お前のそういうところが嫌いだった!」
ヒルデはヴィガの真っ赤に染まった左頬に触れることができなかった。
スヴァインもカレンもエスタの言うことに心当たりがある。〝ずっと〟は誇張表現ではない。全員、幼い頃から海に溺れたままのようなヴィガを知っている。
「そうだよ全部お前が悪いよ! でもお前は自分のどこが悪かったか言えないだろ! 全部自分が悪いってわかってて何年も何もしなかったお前が一番悪いッ!」
エスタがヴィガに掴み掛かってようやくスヴァインが止めに入った。だが、エスタは力の限りスヴァインを振り解く。
「いつまで王太子殿下のままでいるつもりだよ!」
ヒルデでもカレンでもなく、スヴァインが止めに入ったことがエスタの癪に障ったのだ。
一気に告げると息ができなくなる。スヴァインがエスタの背中を擦ったが、エスタは何故スヴァインはこんなことをするのだろうと思った。
エスタとスヴァインは六歳離れている。
エスタが産まれる前から国王だったスヴァインを幼馴染みだと思ったことは一度もない。エスタが産まれる前からヴィガの婚約者だったヒルデを幼馴染みだとは思えない。
視線を上げるとヴィガと目が合った。
ヴィガが傷付いているのはヴィガを見ればわかる。だが、ヴィガは目を逸らさずにエスタの話を聞こうとしていた。
「……兄様、かわってくれよ」
声を振り絞って告げる。それ以上は何も言わない。
ここまで言ってもヴィガが変わらなかったらマーヴァル王国はもう終わりだ。だが、死刑になる自分にはもう関係ないことだ。
エスタは立ち上がり、砂浜にいる騎士たちの下へと歩く。その間には海があったが、カレンも、四人を海に攫ったカレンの姉妹に見える五人の人魚も、エスタを先には行かせなかった。
「お前たちッ!」
海を自由に移動できるのは人魚や魚たちだ。泳いできたのはクラウスだけで、ボーディルの姿はない。
「全員無事か?」
クラウスはいつも若者の心配をする。
クラウスが声を掛けたのは人魚の娘たちだけではなかった。
「貴方、どこの誰なのかしら。無礼ではなくて?」
ヒルデはこんな時でも態度を変えない。こういう意味では、ヒルデはヴィガの婚約者に相応しい。自分に自信がないヴィガには常に堂々としている人間が必要なのだとエスタは思う。
クラウスは悲しそうに眉を下げたが、それは一瞬だった。
「私はデュアル王国国王だ」
スヴァインはしばらく待ったが、クラウスは名乗らなかった。ヒルデは誰と聞いている、だから確信する。
「何故人魚になったんだ、父様」
クラウスの鰭を凝視していたヴィガの緑青色の瞳が揺れた。
クラウスはスヴァインを困ったように見下ろす。ヒルデは「父様?!」とこの場の雰囲気に不釣り合いな素っ頓狂な声を上げた。
「……ヴィガ王太子殿下、まずは無事で良かった」
それは十八年前に言うべき言葉だった。そう思うのはヴィガ以外の全員だ。
「ほ、本当に……クラウス様……」
ヴィガは尋ねる前に確信した。クラウスの青い瞳は隣にいるヒルデによく似ている。つまり、目の前で泣きじゃくって酷い顔になったカレンにもよく似ているのだ。
ヴィガの瞳からも大粒の涙が溢れてくる。今は落ち着いたカレン以上の泣き顔だったがヴィガはそれに気付けない。頬を伝うそれは熱く、目の奥は異常に痛かった。
「難しい話ではない。ヴィガ王太子殿下を助ける為にボーディルに人魚にしてもらったんだ」
難しい話ではなくても狂っている。
スヴァインも、エスタも、他国の王子を助ける為に人間であることを捨てたクラウスを異常だと思った。
「お父様……どうして? カレンは人間になる為に声を失くしたし、死ぬかもしれなかったのよ。お父様はそうではなかったでしょう?」
太陽は既に沈んでいた。辺りを照らしているのは双月と幾千の星、そして風に揺れる温かな火だ。
刀に火を灯して松明のように掲げた虎獅狼は、イェンスたちと共に黙ってクラウスの話を聞いている。この話は虎獅狼にとって大切な、呪いの話だった。
「ボーディルが人魚だったからだ。他種族を同族に変える危険よりも、同族を他種族に変える危険の方が高いらしい。他種族の肉体を理解していれば危険はある程度抑えられるらしいが」
エスタはそっと自らの項に触れる。カレンをこの海で助けた時、カレンの項にベラドンナの痣を見た。
恐る恐る自分たちの様子を窺っているボーディルは、数日前に初めて会った時よりもしおらしく見える。
ヴィガを国王にしたい。
そう願ったエスタをボーディルは呪わなかった。
そういう願いは叶えられない。だが、ヴィガかエスタを国王にする手伝いならばできる。それでいいと言ったエスタをボーディルはやはり呪わなかった。
カレンを見た時に何故ボーディルはカレンを呪ったのだと思った。
カレンがヴィガを想っていることに気付いた時、カレンが鍵なのだと思った。
ボーディルに断られた時、エスタは自分のやり方でヴィガを国王にすると決めている。
だからヒルデを撃った。足りない覚悟はヒルデで埋められる。それでも足りなかったらカレンが何かをしてくれるだろう。それでも駄目だったらマーヴァル王国は終わりだと思っていた。
「それで、どうしてカレンは生きてるの」
「……ボーディルが呪いを変えたんだ。最初からそうすれば良かったのかもしれないが」
クラウスは俯く。声と命と同じ価値がある大切な何かをボーディルに奪われたカレンは、クラウスとは違い悲しそうな表情をしなかった。
「私、お父様と一緒で故郷に帰れなくなったの」
だからクラウスは人間であった自分を捨て、スヴァインとヒルデに会うことを諦めた。
カレンは五人の人魚たち一人一人の同じ顔を眺めて微笑する。
「でもね、私、お母様みたいな立派な魔女になりたい。だから故郷に帰れなくても大丈夫!」
ヴィガと結婚すればカレンは呪いが解けて故郷に帰れるのに、ヴィガと結婚したいとは言わなかった。




