第十九話 『冒険者ハインリヒⅡ』
虎獅狼がどこにも行かないよう、黒兎は虎獅狼の部屋でハインツを呼ぶ。
「おはよう、二人とも」
鏡台に変化はなかったが、朝だというにはっきりとしたハインツの声が返ってきた。
「ほんで? 話ってなんやねん」
どうでもいい話ならばすぐに部屋を出よう。そのつもりだったが、鏡あるところにハインツありならば逃げ場はほとんどないような気がする。……厄介な者に声を掛けられた。
「月光国──君たち二人の故郷の話だ」
ハインツは声色を変えなかった。
「知っとるんか?!」
ハインツが出したのは黒兎が喉から手が出る程に欲していた情報だ。思わず身を乗り出すが、今日も自分の顔が近付くだけだった。
「謁見室に鏡が置いてあっただろう。盗み聞きはしたくないが、嫌でも聞こえてしまうのでね」
そういえば謁見室でリタに故郷の話をした気がする。
「せや! 自分、ヴァルトラウトの手下やろ! 月光国への行き方知っとるんちゃうん!」
ヴァルトラウトは月光国を襲った。そのヴァルトラウトがドナトリア王国にもいたのだ。ヴァルトラウトは二つの国を行き来できる──。
「手下ではないし、行き方も知らない。ただ、人を紹介することはできる」
ハインツは親切だった。親切過ぎて次第に怪しく思えてくる。
「……何が目当てなん」
虎獅狼を盾にして尋ねた。それはウーリが黒兎に告げた言葉とほとんど同じだ。現状、ウーリからは狙撃銃しか貰っていないし、リタからは何も貰っていない。リタは今、カラマ、タラ、ローラらトレステイン王国の騎士団と共に謁見室のバルコニーで戴冠式を行っている。この数日で戻ってきた国民がそれを見守っているはずだ。
本当は、黒兎だって戴冠式を見たかった。ハインツは黒兎の気持ちに気付いているのかいないのか、黒兎にそれを蹴らせても後悔のない話をしている。
「何も。ただの気まぐれだ」
ハインツは人助けだと言っている。虎獅狼が狩人の想いをそう代弁しなければハインツは動かなかったのかもしれない。そう考えたら虎獅狼の立てた手柄は大きい。黒兎はマイペース過ぎる男を斜め後ろからじろりと見上げる。
「わかるだろう。私が何かを貰っても虚しいだけだ」
警戒心を解かない黒兎にハインツは淡々と告げた。虎獅狼は最初からそれに気付いており、自分を盾にもした黒兎を馬鹿だなぁと思いながら横目で見下ろす。
「それは……すまんかった」
虎獅狼を盾にするのをやめ、黒兎は「誰を紹介してくれるん」と話を進める。
「──北の魔女、キャロル嬢だ」
刹那、部屋の隅に綺麗な光の粒が溢れた。集まったそれは人の形になり、中から老年の女が現れる。
「ハインツ! 一体どこにいるの、可哀想なお野菜ちゃんは!」
女の色素の薄い双眸は、周りにいる人間を尽く睨むヴァルトラウトのそれと大きく異なっていた。
ヴァルトラウトを邪悪と呼ぶならば女はその反対の存在だろう。黒兎や虎獅狼、そしてリタたちよりも小柄な女を一言で表すならば〝可愛いお婆ちゃん〟だ。
「私の目の前にいる男二人だ」
女は「まぁ!」と口に手を当て、「逞しいお野菜ちゃんね!」と嬉しそうに近付いてくる。
「誰がお野菜や」
ふざけている訳ではなさそうだが脊髄反射でツッこんでしまった。だが、女は気にしていないようだった。
「初めまして。私はカロリーナよ」
カロリーナはキャロルでもなければお嬢さんと呼ばれる年齢でもない。ハインツは人間全員を幼子扱いしているのだろうか。
黒兎と虎獅狼はカロリーナから握手を求められて仕方なく応じる。皺の多い年寄りの手だ。力を込めたら折れてしまいそうで、どうしても握り返せなかった。
「近衛黒兎や」
「工藤虎獅狼です」
「はい、はい、よろしく。それでハインツ、用件はなんだったかしら」
カロリーナは嬉しそうに笑いながら尋ねる。忘れっぽいのだろうか。虎獅狼もハインツと会う用事を黒兎に言われるまで忘れていた。
「彼らを月光国に送り届けてほしいんだ」
「月光国って何かしら?」
カロリーナに悪意はない。首を傾げてハインツを見つめる。
「なんと。キャロル嬢も知らないのか」
「なんでやねぇん」
想定外だったらしい。ハインツの声に初めて滲んだ感情は困惑だった。
「なぁ、北の魔女って二つ名やろ?」
「えぇそうよ!」
ならばハインツがカロリーナに期待していた理由もわかる。
「カラマのねーちゃんが二つ名持ちの魔女は十人もおらんって言うとったけど、カロリーナのばーちゃんもその中の一人なん?」
「えぇ。確か七人──あぁ待って、違うわ。ヴァルトラウトが亡くなったから魔女は六人いるわね!」
「ヴァルトラウトとカロリーナのばーちゃんは何が違うん」
同じ狙撃手でも同じことができる訳ではない。同じ魔女でも同じことを知っている訳ではない。つまりはそういうことなのだろうが聞かずにはいられない。
「ヴァルトラウトは天才よ、あの子に勝てる人はいないわ。あぁ、貴方は違ったわね!」
カロリーナは笑顔のまま答えた。ヴァルトラウトはカロリーナの半分程の年齢だったように見える。天才だと言われたら納得せざるを得なかった。
「すまない、コノエ坊。クドウ坊。力になれなかったようだ」
「いや、ハインツが謝ることやない。気持ちだけ貰っとくわ」
期待したのは確かだが、謝罪される程のことではない。振り出しに戻っただけだ。
カロリーナは落ち込む黒兎とハインツを見て悲しそうに眉を下げる。最初からこの話に興味がなかった虎獅狼は「もういいですか?」と部屋の外に出ようとした。
「あぁ。構わない。リタ嬢の戴冠式でも見てくるといい」
虎獅狼は「近衛を助けようとしてくださってありがとうございました」と礼を言い、本当に部屋から出て行った。あんな男でも礼は言えるのか。狂っているが根は良い奴なのだろう。
「それにしても貴方不思議ねぇ」
カロリーナがそう言ったのはハインツではなく黒兎だった。
「不思議生物ならそこにおるやろ」
「ハインツは不思議じゃないわ」
「なんでやねん」
カロリーナは微笑む。
「だって貴方、《黒の迷い子》なのに霧の魔女じゃなくてヴァルトラウトに呪われていたもの」
その魔女を黒兎は知らなかった。
「どういうことなん?」
「そのままの意味だ。クドウ坊たち《黒の迷い子》は全員霧の魔女に呪われているが、コノエ坊はヴァル嬢が先に呪っていたから霧の魔女の呪いが効かなかったのだろう」
ハインツの言葉で部屋を飛び出す。廊下を呑気に歩く虎獅狼を捕まえて項を見ると、そこには黒兎にもある花のような痣があった。
「追い剥ぎ?」
「やかましい!」
狂人に構っている暇はない。黒兎は追い掛けてきたカロリーナに「なんやねんこれ!」と説明を求めた。
「霧の魔女は《黒の迷い子》に忘却の呪いをかけるの。だから《黒の迷い子》はみーんな何も覚えていないのよ」
カロリーナは虎獅狼に近付く。
「可哀想に……。どうにかしてあげたいけれど、忘却の呪いはどうすることもできないわ……」
そして痣を撫でて俯いた。
彼女は《黒の迷い子》の痣を見る度に涙を流す。世間ではヴァルトラウトが悪の魔女だが、《黒の迷い子》のみを残酷に呪う霧の魔女の方がカロリーナにとっては悪に思えた。記憶喪失はカロリーナにとって殺人と同じなのだ。
「カロリーナのばーちゃん、霧の魔女って誰や! 誰が工藤を呪ったんや!」
黒兎にとって、この痣を持っている人間はキョウト出身の人間だけ。アオモリ出身の虎獅狼にはないはずのものだ。
「わからないの。一度も会ったことがない人の魔力だもの……」
ハインツも、カロリーナも、痣を見ただけで呪った魔女と解呪されているか否かがわかる。
大陸中に存在するハインツと魔女の頂点に位置する力を持つカロリーナだ。霧の魔女はそんな二人にわからないと言わせる恐ろしい存在だと黒兎の脳裏に刻まれる。
「ねぇ。俺呪われてるの?」
ぽつりと虎獅狼が尋ねた。自分のことなのにあまり関心がなさそうな声色だった。
黒兎は虎獅狼の身に何が起こっているのかわからず考え込む。黒兎が呪われたのは十年前。キョウトで。ヴァルトラウトに。そして虎獅狼は──。
「……陛下や」
一つ一つ確かめて思い出した。最後に黒兎が見た輝夜の行動は、ヴァルトラウトが黒兎たちを呪った時の行動と酷似していた。輝夜が虎獅狼を呪ったのだ。
「俺って呪われてるの?」
そして輝夜は黒兎も呪った。先にヴァルトラウトに呪われていた黒兎には忘却の呪いが効かなかった。
黒兎は輝夜の想定外なのだ。
呪うつもりも、この世界に追放するつもりも、彼女にはなかったことは知っている。黒兎に呪いが効いているか確かめる余裕もなくこの世界に追放して、黒兎は今、この世界の不純物となった。
黒兎は多分月光国にいてはならない存在だが、この世界にもいてはならない存在だ。そのことにようやく気が付いた。
「工藤を呪ったんは俺らの故郷の皇帝や」
「まぁ!」
カロリーナが驚く。
「……どないしたら工藤の呪いは解ける?」
「呪いは魔女が死ぬまで解けないわ。……コノエがヴァルトラウトにそうしたように」
カロリーナはその先は言わなかったが、言おうとしたら黒兎が止めていた。
──コノエがヴァルトラウトにそうしたように、殺すしかない。
そんなこと、黒兎が輝夜にできるはずがない。
「工藤」
虎獅狼を起き上がらせて両肩に手を置く。
「一生記憶喪失でいてくれ」
「そう言われたら嫌だなぁ」
虎獅狼は興味のないものにはとことん関心を寄せない人間だが、自分の記憶に興味がない男ではない。故郷には一切未練がないが、両親を思い出せないままでいいとは思っていなかった。
「カロリーナのばーちゃん、他の方法はないん?」
「ごめんなさい、わからないわ。でも、もしかしたらオズなら知っているかもよ!」
「ほんまか!」
カロリーナが右手を差し出すと、再び光の粒が溢れて手鏡が現れる。
「ハインツ、地図を見せて!」
何をするのかと思ったが、手鏡にもハインツが宿っていた。
「どうぞ」
手鏡に映るのはウーリが黒兎に見せた地図と同じもので、カロリーナは「ここが現在地よ」と最北西のドナトリア王国を指す。
「それで、オズがいるのはここ。オズ王国の都、エメラルドね」
次に指したのは大陸の中央だ。地図上でもドナトリア王国の比ではない大国であることがよくわかる。
「成程」
黒兎だけではなく虎獅狼も食い入るように地図を見ていた。
「オズは大陸一の魔法使いよ。きっと二人の力になってくれるわ。私もできることならなんでもするから!」
「キャロル嬢、君の言うなんでもは本当になんでもだからやめてあげてくれ」
「あらそう? 残念!」
ハインツは呆れ、カロリーナは本当に残念そうに肩を落とす。「気持ちだけ貰っとくわ」と黒兎は言い、「何日くらいかかんの?」とオズ王国を指した。
「何日くらいかしら……。八ヶ月はかかるかもしれないわね」
「そんなにか!」
「もっとかかる可能性もある。魔獣もいるし、直線で行くことはあまり推奨しない」
「あぁそうね! ここから行くならマーヴァル王国に行った方がいいかしら」
ハインツが大陸の最北を赤丸で囲む。トレステイン王国の隣国のようで、トレステイン王国はマーヴァル王国とドナトリア王国に挟まれる場所にあった。
「なんでですか?」
その話に虎獅狼が興味を示す。
「黄色いレンガ道がマーヴァル王国とオズ王国を繋いでいるの。魔獣を寄せ付けない素材でできているから、オズ王国に行く人はみんなこの道を使っているわ。勿論、他の方角にもレンガ道はあるわよ」
カロリーナは最西、最東、最南をそれぞれ指す。確かにドナトリア王国の南西には雪山がある。西よりも北からの方が早い。
ハインツは地図を消して手鏡に戻った。目的地も行き方も決まった黒兎はもう、ドナトリア王国にいる理由はない。
「工藤、準備したら行くで」
まだ朝だ。今から旅立てばトレステイン王国には昼過ぎに着ける。ヴァルトラウトの傷が癒えていないドナトリア王国よりもトレステイン王国の方が旅の準備はしやすい。
「わかったよ」
一瞬の間があって虎獅狼は了承した。
黒兎について行く理由を探したが、ドナトリア王国に残る理由がなかった。
目覚めた時、虎獅狼は傍にいたカラマから色々と話を聞いている。
自分は黒兎に担がれて森を出て、トレステイン王国に来たこと。その黒兎がドナトリア王国に残ると言ったから、ドナトリア王国に連行されること。国王と王妃の傭兵になって革命を成功させた黒兎が頼むから、自分は街に放り出されるのではなく城にいるのだと。
頼んでいないが黒兎は虎獅狼の恩人だ。虎獅狼にとっては知らない人だが、黒兎にとってはそうではないことが黒兎の言動から読み取れる。だから虎獅狼が共に行くと信じて疑っていない。
黒兎はうるさい犬──いや、兎だが、意外と素直で放っておくと何をするかわからない若い男だ。
虎獅狼にはやりたいことがない。ただ、危なっかしい黒兎について行って自分の記憶を少しでも取り戻すことができたなら、この一生に悔いはないと思える。
──いい加減、大人になろう。
記憶はないが自分の性格上大勢の人間に迷惑を掛けて生きてきた自覚はある。
虎獅狼はやれやれと口角を上げ、これから苦労するなと思いながら黒兎について行った。