プロローグ バレンタイン前日
バレンタイン前日の放課後、私は廊下で二人の女子生徒を引き剥がしていた。
「離してください、佐久間さん! この人が横入りしたんです!」
「横入りじゃない! 私の方が先に決まってたの!」
「決まってたって、誰が決めたの」
尋ねても、二人は互いを睨みつけるばかりだった。片方は赤い包装紙の小箱を胸に抱き、もう片方は潰れかけた紙袋を両手で守っている。床には金色のリボンが落ち、少し離れた場所で見物人が半円を作っていた。
あと五分もすれば、先生が来る。
そうなれば二人だけでなく、黙って見ていた生徒までまとめて叱られる。私は生活指導腕章を直し、できるだけ低い声を出した。
「事情は生徒会室で聞く。二人とも来て」
「でも、宮本先輩が帰っちゃう」
「帰った方がいいでしょ。これを見せるつもり?」
二人はようやく自分たちの姿を確認した。
ほどけた髪。傾いたリボン。片方のブラウスには、相手につかまれた皺まで残っている。それでも諦めきれないらしく、今度は私に縋るような目を向けてきた。
「せめて、どっちが先かだけ決めてください」
「決めない。そっちは髪を直して。あなたはリボンが曲がってる」
二人は反射的に互いの顔を見て、それから同時に自分の頭へ手をやった。
「それで、何の順番?」
分かっていながら聞き返した。
「宮本莉々香先輩に、チョコを渡す順番です」
初めて聞く名前だった。
生徒会室の長机に二人を並べて座らせると、私は事情聴取用の用紙を取り出した。
名前とクラス。騒ぎを始めた時刻。最初に手を出したのはどちらか。
そこまでは、よくある喧嘩と変わらない。問題は動機だった。
「つまり、二人とも宮本先輩にチョコを渡そうとしてた」
「はい」
「それで、先に渡す方が本命に近いって話になった」
「少し違います」
赤い箱を抱えた生徒が口を挟んだ。
「莉々香先輩は、私のことが好きなんです」
「私も言われました」
紙袋の方が負けじと身を乗り出す。
「何を?」
「好きって」
二人の声が重なった。
私はペンを置いた。聞き間違いでなければ、宮本莉々香先輩は二人の生徒へ同時に好意を伝え、その結果として今日の乱闘を生み出したことになる。
「順番に話して。まず、あなたはいつ、どこで、何て言われたの?」
赤い箱の生徒が、少し誇らしそうに背筋を伸ばす。
「先週、朝の教室です。日直の子が遅れていたから、私が代わりに黒板を消していたら、廊下を通った莉々香先輩が立ち止まって」
そこで彼女は、一度息を整えた。
「誰も見てないのに、毎朝ちゃんとやってるところ、好きだなって」
なるほど。言っている。
「あなたは」
「一昨日です。階段で会ったとき、髪を耳にかけたら、莉々香先輩が『その方が顔がよく見えるね。私は好き』って」
こちらも、かなり言っている。
「それを告白だと思ったんだね」
「ほかにどういう意味があるんですか」
「髪型の好みを伝えただけかもしれない」
「佐久間さんは莉々香先輩を知らないから、そんなことが言えるんです」
二人は初めて意見を一致させた。
知らない。今日まで名前すら聞いたことがなかった。だが、知らない相手の一言を理由に取っ組み合いをした人たちから責められる筋合いもない。
「宮本先輩本人に、意味を確かめた?」
二人とも目を伏せる。
「じゃあ、交際を申し込まれたわけでも、明日の放課後に会う約束をしたわけでもないんだね」
「でも、ファンクラブでも話し合って」
「ファンクラブ?」
「非公認ですけど、あります。莉々香先輩の」
紙袋の生徒が、当然のことのように答えた。
非公認のファンクラブ。その会員たちが、本人の言葉を分析し、誰が本命かを話し合い、ついにはチョコを渡す順番まで決めようとしたらしい。
「今日の件は、順番を決める話し合いだったんです」
「話し合いで人のリボンは引っ張らないの」
「あれは向こうが」
「その話はさっき聞いた」
私は用紙の最後へ、双方反省、宮本莉々香本人への接触は明日以降、という注意事項を書き込んだ。
そこへ、生徒会室の扉が静かに開く。
「ずいぶん賑やかですね」
入ってきたのは、生徒会長の長谷川文香先輩だった。
肩でそろえた黒髪に、細い銀縁眼鏡。いつも柔らかく微笑んでいるのに、会議では先生相手にも意見を曲げない人だ。二年生の秋に会長へ選ばれてから、生徒会室の空気は以前より穏やかになった、と上級生たちから聞いている。
「長谷川会長。廊下で喧嘩をしていた二人から、事情を聞いていました」
「原因は」
「宮本莉々香先輩へチョコを渡す順番です」
会長の微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
「……また宮本さんですか」
「また?」
「詳しい話は、二人を帰してからにしましょう」
その言い方で分かった。
私はどうやら、床に落ちていたリボンよりも、ずっと面倒なものを拾ってしまったらしい。




