第8話
ヴォルフ伯の居城は、予想よりずっと小さかった。
「城」と聞いて、エリゼは王都の貴族邸のような石造りの大きな建物を想像していた。しかし目の前に現れたのは、防衛のための高い外壁と、その内側にある三階建ての質実剛健な建物だった。装飾はほとんどない。塔もなければ、噴水もない。余分なものを全部削ぎ落としたような、働くための建物だった。
エリゼはそれを見て、なぜか少し安心した。
馬車を降りると、城の入口の前に一人の男が立っていた。
長身だった。エリゼより頭ひとつ以上高い。黒い髪は短く刈られ、日に焼けた肌に、鋭い目が据わっていた。年齢は二十代後半くらいだろうか。礼装ではなく、動きやすそうな濃紺の上着を着ている。
ゲルハルトが一歩引いた。
この男が、レイナルト・ヴォルフだと、説明がなくてもわかった。
「アルトワ侯爵令嬢」
声は低く、静かだった。
「ようこそ、ヴォルフ伯領へ」
お世辞のない、事務的な歓迎の言葉だった。
エリゼは礼をした。
「エリゼ・フォン・アルトワです。お世話になります、ヴォルフ伯爵閣下」
「レイナルトでいい」
短く返ってきた。
「部屋は用意した。荷を解いたら休め。明日の朝から現地視察に同行してもらう」
そう言って、踵を返した。
「少し、お時間をいただけますか」
エリゼが言った。
レイナルトが足を止めた。振り返らない。
「現状と課題を、今夜のうちにご説明いただけますか。明日の視察の前に、基礎的なことを把握しておきたいのです」
短い沈黙があった。
それからレイナルトが振り返った。今度は、先ほどとは少し違う目でエリゼを見た。形式的な確認ではなく、人間を見るような目で。
「……今夜か」
「ご都合が悪ければ、資料だけでも構いません。自分で読みます」
「書斎に来い」
レイナルトはそれだけ言って、歩き出した。
書斎は城の二階にあった。
壁一面が棚になっており、古い文書や帳簿がぎっしりと詰まっている。机の上にも書類の山。決して整理されているとは言えないが、使い込まれた道具の匂いがする部屋だった。仕事をするための場所だ、とエリゼは思った。
レイナルトは机の引き出しから、何枚かの地図と帳簿を取り出した。
「ヴォルフ伯領の全図だ」
地図が広げられた。エリゼは前に出て、覗き込んだ。
「全体の三分の二が平野だ。もともとは鉱山業で栄えたが、二十年前に鉱脈が尽きた。それ以来、農業への転換を試みているが——」
「うまくいっていない」
エリゼが言うと、レイナルトが少し目を細めた。
「知っているのか」
「父から聞きました。それと、文献で類似の事例を読んだことがあります。鉱山跡の土地は重金属が残留していることが多くて、作物の根が傷むんです」
レイナルトが黙った。
エリゼは地図に視線を戻した。
「水路は?」
「東の川から引いているが、詰まりが多い。人手が足りなくて」
「土壌の酸性度を測ったことは」
「……ない」
「明日の視察で、何カ所かサンプルを取らせてください。あとは水路の状態も見たい。それから農民の方々に直接話を聞けると助かります」
レイナルトがしばらくエリゼを見ていた。
「……わかった」
それだけ言って、帳簿を一冊取り出した。
「過去十年の収穫記録だ。持っていけ」
「ありがとうございます」
エリゼは帳簿と地図を受け取った。かなりの重さだった。
「他に必要なものがあれば言え」
「今夜はこれで十分です。ご丁寧に、ありがとうございました」
礼をして書斎を出た。
部屋に戻ると、リーナがすでに荷を解いて待っていた。
「奥様、今日は早く休んでください。五日間の旅でお疲れのはずです」
「そうね」
エリゼはランプの前に座り、帳簿を開いた。
「奥様」
「少しだけ」
「それが毎回、朝になるんですよ」
リーナの言葉を聞きながら、エリゼはページをめくった。
十年分の収穫記録。数字が並んでいる。読んでいくと、ある時期を境に収穫量が急落している年がある。水路が詰まった年か、あるいは土壌が限界を迎えた年か。
面白い。
本当に、何もないところから始めるのだ。何もないからこそ、何でもできる。
エリゼはランプの光の下で、ページをめくり続けた。窓の外で風が鳴り、辺境の夜が更けていった。




