表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/50

第6話

 出発の朝は、よく晴れていた。


 馬車に荷を積み終えたのは、まだ朝霧が残る早い時間だった。旅装に着替えたエリゼが玄関の前に出ると、父が待っていた。


 クロード侯爵は礼装ではなく、部屋着の上にコートを羽織っただけの格好だった。白髪交じりの髪が、朝の光の中で老いて見えた。



「行くのか」


「はい、お父様」


「……無理はするなよ」


 父の目が、少し赤かった。


 エリゼは胸のあたりがじんとするのを感じた。父は口下手で、不器用で、娘に対してどう接すればよいかいつもわからなそうにしていた。婚約の件でも、「すまなかった」と言うのが精一杯だった。


 でも今朝、こうして見送りに出てきている。


「必ず便りをくれ」


「します」


「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。お前の部屋は、そのままにしておく」


「お父様」


 エリゼは一歩進んで、父の手を両手で包んだ。


 父が少し驚いた顔をした。エリゼ自身も、自分からこういうことをするのは久しぶりで、少し照れた。


「ありがとうございます。行ってきます」


 父は何も言わなかった。ただ、エリゼの手を一度だけ、ぎゅっと握り返した。



 馬車が走り出した。


 エリゼは窓を開けて後ろを振り返った。父がまだそこに立っていた。手を上げると、父も上げた。


 侯爵邸の門が遠くなり、やがて見えなくなった。


 エリゼは前を向いた。



 しばらく、王都の石畳の上を馬車が揺れた。


 商人の声、子どもたちの笑い声、朝市の活気。エリゼが三年間、当たり前のように聞いてきた音たちが、窓の向こうを流れていった。


 城の尖塔が見えた。白い石造りの、あの城。


 夜会の庭園で、アルフォンスが振り返ったときの顔を一瞬だけ思い出した。それから、思い出すのをやめた。


 振り返らなくていい。


 馬車は進んでいる。



 王都の城門をくぐった瞬間、変わった。


 街の音が消えた。広い街道が続き、左右に野原が広がった。空が大きくなった。


 エリゼの顔から、何かがふっと抜けた。


 自分でも気づかないうちに固めていた何か——肩に入っていた力、表情を整え続けていた緊張——それがまとめて、溶けていくようだった。


「お嬢様」


 向かいに座っていたリーナが、目を細めた。


「笑顔が違います」


「そう?」


「さっきまでとは全然違う顔をしています。なんというか……本物みたいな」


 エリゼは少し考えた。


「そうね。やっと息ができる気がする」


 そう言ってから、その言葉が正確だと思った。


 王都にいる間、ずっとどこかで息を詰めていた。気づかないふりをしてきたけれど、ずっとそうだった。



 野原が続いた。春の草が風に揺れ、遠くに小さな農村が見えた。畑が広がり、牛が草を食んでいた。


 エリゼは頰杖をついて、流れていく景色を眺めた。


 そのとき、指先が温かくなった。


 手のひらに目を落とすと、微かな光が宿っていた。植物魔法の、あの感触。無意識に漏れ出している。


 外の草が、馬車の速度に合わせて少しだけ揺れた。気のせいかもしれないが、揺れた方向が風と違う気がした。


 エリゼはそっと手を握った。あわてて抑えなくてもよかったが、まだ出し方の加減がわからない。ちゃんと練習しなければ、と思った。


 辺境に着いたら、毎日やろう。誰に遠慮することもなく。



「リーナ、ヴォルフ伯領まで何日かかるんだったかしら」


「順調にいけば五日です。途中で一泊は宿場町に寄りますよ」


「ということは、読める本が五冊分あるわね」


「荷物に本を詰め込んでいたのはそのためですか」


「半分はそのため」


「半分は?」


「向こうで読むため」


 リーナが呆れた顔をして、それから笑った。


「お嬢様らしいです」


 馬車は北へ向かった。


 窓の外で、野原の花が揺れていた。エリゼの指先が、また少しだけ温かくなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ