第6話
出発の朝は、よく晴れていた。
馬車に荷を積み終えたのは、まだ朝霧が残る早い時間だった。旅装に着替えたエリゼが玄関の前に出ると、父が待っていた。
クロード侯爵は礼装ではなく、部屋着の上にコートを羽織っただけの格好だった。白髪交じりの髪が、朝の光の中で老いて見えた。
「行くのか」
「はい、お父様」
「……無理はするなよ」
父の目が、少し赤かった。
エリゼは胸のあたりがじんとするのを感じた。父は口下手で、不器用で、娘に対してどう接すればよいかいつもわからなそうにしていた。婚約の件でも、「すまなかった」と言うのが精一杯だった。
でも今朝、こうして見送りに出てきている。
「必ず便りをくれ」
「します」
「辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。お前の部屋は、そのままにしておく」
「お父様」
エリゼは一歩進んで、父の手を両手で包んだ。
父が少し驚いた顔をした。エリゼ自身も、自分からこういうことをするのは久しぶりで、少し照れた。
「ありがとうございます。行ってきます」
父は何も言わなかった。ただ、エリゼの手を一度だけ、ぎゅっと握り返した。
馬車が走り出した。
エリゼは窓を開けて後ろを振り返った。父がまだそこに立っていた。手を上げると、父も上げた。
侯爵邸の門が遠くなり、やがて見えなくなった。
エリゼは前を向いた。
しばらく、王都の石畳の上を馬車が揺れた。
商人の声、子どもたちの笑い声、朝市の活気。エリゼが三年間、当たり前のように聞いてきた音たちが、窓の向こうを流れていった。
城の尖塔が見えた。白い石造りの、あの城。
夜会の庭園で、アルフォンスが振り返ったときの顔を一瞬だけ思い出した。それから、思い出すのをやめた。
振り返らなくていい。
馬車は進んでいる。
王都の城門をくぐった瞬間、変わった。
街の音が消えた。広い街道が続き、左右に野原が広がった。空が大きくなった。
エリゼの顔から、何かがふっと抜けた。
自分でも気づかないうちに固めていた何か——肩に入っていた力、表情を整え続けていた緊張——それがまとめて、溶けていくようだった。
「お嬢様」
向かいに座っていたリーナが、目を細めた。
「笑顔が違います」
「そう?」
「さっきまでとは全然違う顔をしています。なんというか……本物みたいな」
エリゼは少し考えた。
「そうね。やっと息ができる気がする」
そう言ってから、その言葉が正確だと思った。
王都にいる間、ずっとどこかで息を詰めていた。気づかないふりをしてきたけれど、ずっとそうだった。
野原が続いた。春の草が風に揺れ、遠くに小さな農村が見えた。畑が広がり、牛が草を食んでいた。
エリゼは頰杖をついて、流れていく景色を眺めた。
そのとき、指先が温かくなった。
手のひらに目を落とすと、微かな光が宿っていた。植物魔法の、あの感触。無意識に漏れ出している。
外の草が、馬車の速度に合わせて少しだけ揺れた。気のせいかもしれないが、揺れた方向が風と違う気がした。
エリゼはそっと手を握った。あわてて抑えなくてもよかったが、まだ出し方の加減がわからない。ちゃんと練習しなければ、と思った。
辺境に着いたら、毎日やろう。誰に遠慮することもなく。
「リーナ、ヴォルフ伯領まで何日かかるんだったかしら」
「順調にいけば五日です。途中で一泊は宿場町に寄りますよ」
「ということは、読める本が五冊分あるわね」
「荷物に本を詰め込んでいたのはそのためですか」
「半分はそのため」
「半分は?」
「向こうで読むため」
リーナが呆れた顔をして、それから笑った。
「お嬢様らしいです」
馬車は北へ向かった。
窓の外で、野原の花が揺れていた。エリゼの指先が、また少しだけ温かくなった。




