第5話
辺境行きの準備には、二週間ほどかかった。
必要な荷物をまとめ、旅程を組み、侯爵家としての手続きを進める。実務的な作業は山積みで、エリゼはむしろそれをありがたく思った。手を動かしている間は、余計なことを考えずに済む。
問題は、外から次々と届く「声」だった。
王都の社交界は、エリゼの辺境行きをすでに知っていた。
茶会の席で囁かれているという話が、知人を通じて届いた。
「可哀想に。あんな辺境へ」
「実質的な追放でしょう。王家もあんまりよ」
「でも、もともと冷たい方だったじゃない。殿下も大変だったのよ、きっと」
リーナがそれを報告するたびに、怒りで顔を赤くした。
「奥様、よくそんなに落ち着いていられますね」
「他に何か反応のしようがある?」
エリゼは読みかけの本から目を上げて、軽く首を傾げた。
「私の評判を守るために奔走していた時間は、もうないの。それに、彼女たちが何を言っても、私の行先は変わらないから」
リーナがむすっとしながら「奥様は寛大すぎます」と言った。エリゼは「そうかもしれないわね」と答えて、本に視線を戻した。
寛大なわけではなかった。
ただ、今さら王都の評判を気にする気力が湧かなかった。この街での自分の立場は、夜会の庭園であの夜に終わった。それを取り戻そうとは、もう思わない。
別の場所で、別の何かを始める。それしか、今は考えていなかった。
出発まで三日というある朝、リーナが珍しく固い顔で部屋に入ってきた。
「奥様、お知らせが」
「なに?」
「殿下とシャルロット様の婚約が、正式に発表されたそうです」
エリゼは本のページをめくる手を、一瞬だけ止めた。
それから、めくった。
「そう」
「……それだけですか?」
「それだけよ」
リーナが目を丸くした。
「怒らないんですか。悲しくないんですか。あんなことをされて、すぐに別の方と婚約発表なんて」
「怒る気持ちがないわけではないけれど」
エリゼは本を閉じた。
「それより驚いているの。私が、あんまり何も感じないことに」
少し考えながら、言葉を続けた。
「失恋したとき、こんなに凪いだ気持ちになるものかしら。もしかしたら私、殿下のことを本当の意味では好きではなかったのかもしれない」
「……奥様」
「三年間、傍にいたのにね。おかしな話でしょう」
エリゼは苦笑した。
アルフォンスへの気持ちを、今あらためて探ってみる。怒りは少しある。軽く扱われたことへの、静かな憤り。しかしそれは恋愛感情ではなく、もっと別の——人として当然の、尊厳への感情だった。
悲しくない。未練がない。嫉妬もない。
それはおそらく、恋が終わったからではなく、恋がいつの間にか別のものに変わっていたからだ。
「奥様は自由になれたんですよ」
リーナが勢い込んで言った。
「喜ぶべきです! 殿下はもうシャルロット様のものです。奥様にはもう関係ない。これからは好きなことができるじゃないですか」
「そうね」
「辺境で思う存分、植物魔法も使えますよ。誰も『はしたない』なんて言いません」
「そうね」
「良かったじゃないですか! むしろ、ざまぁみろって感じじゃないですか!」
「リーナ」
「はい」
「令嬢らしくない言葉はやめなさい」
「……申し訳ありません」
エリゼはそれでも笑いが込み上げてきて、少し口元を緩めた。
「でも、まあ。あなたの言う通りかもしれないわね」
その日の午後、エリゼは図書室で土壌の改良に関する古い論文を読んでいた。
百年前に書かれたその論文は、痩せた北方の土地を植物魔法で回復させた事例を記録していた。内容は地味で、図版も少なく、学術的に退屈な文章が続く。
なのにエリゼは、夕飯の時間を忘れて読みふけった。
ヴォルフ伯領の土壌がどんな状態にあるのか、まだわからない。どんな作物が適しているのか、水はどこから引けるのか、農民たちはどんな暮らしをしているのか。
何もわからない。だから面白い。
「奥様、夕食ですよ」
リーナの声に顔を上げると、窓の外はもう暗かった。
「あら」
「また時間を忘れていたんですか」
「少しだけ」
「三時間ですよ、少しは」
エリゼは本に栞を挟んで立ち上がった。
出発まで、あと三日。やることはまだたくさんある。




