第27話
雪が積もり始めた頃、マルタが「少し話がある」とエリゼを呼んだ。
老農婦の家の台所で、二人で向かい合って座った。マルタが棚から古い陶器のカップを二つ出して、ハーブ茶を注いだ。窓の外は白かった。
「アンナ様のことを、聞きたいか」
マルタが言った。
エリゼは少し驚いた。こちらから聞いたわけではなかった。マルタが自分から切り出すとは思っていなかった。
「……聞かせてもらえますか」
「お嬢さんには、話しておいた方がいいような気がしてね」
マルタがカップを両手で包んで、窓の外を見た。
「アンナ様は、この辺境で生まれた人でね。旦那様と結婚したのは、二十二の頃だった。体が弱くて、冬は寝込むことも多かったけれど、それでも畑に出たがった。農民たちと話したがった」
「そうですか」
「旦那様のことが、本当に好きだったよ。旦那様も——寡黙な人だから、なかなか表に出さないけれど、アンナ様の前では少し違った。笑っていた」
エリゼは手のひらの中のカップを見た。
「笑っていた」
「そうだよ。今の旦那様を見ていると信じられないかもしれないけれど、昔は笑う人だった。めったには笑わなかったけれど、アンナ様が何かを言うと、こう——ふっと、顔が緩んでね」
マルタが遠くを見る目をした。
「旦那様が笑えなくなったのは、アンナ様が亡くなってからだよ」
エリゼはしばらく黙っていた。
三年前。アンナが亡くなった冬から、レイナルトはずっとあの無表情でいる。笑うことを、忘れたのではなく——笑う理由を失ったのかもしれなかった。
「アンナ様はね、よく言っていたよ」
マルタが続けた。
「旦那様にいつも笑っていてほしい、って。あの人が心配していたのは、自分が逝った後に旦那様が一人になることだった」
「……」
「お嬢さん」
マルタがエリゼを見た。
「あんたが来てから、旦那様が少し変わった。気づいているかい」
「変わった、というのは」
「目が、少し柔らかくなった。農民と話すときも、前は全部業務的な顔をしていたのに、最近は——ほんの少しだけど、表情がある」
エリゼは答えられなかった。
「アンナ様が喜ぶかどうかはわからないよ。でも、笑っていてほしいと思っていた人だから」
マルタがそれだけ言って、お茶を飲んだ。
帰り道、エリゼは雪の積もった道を歩きながら考えた。
レイナルトが笑ったところを、自分は見たことがあるだろうか。
思い返してみた。廃小屋からの帰り道での、苦笑に近い表情。星空の夜の、少し緩んだ横顔。命日の夜の、「思いたい」という言葉の後の静けさ。
でも、笑った、と言えるほどの表情は——一度もなかった。
いつか、笑わせてみたい。
そう思ってから、エリゼは自分でも少し驚いた。
「笑わせたい」という気持ちは、仕事でも義務でもなかった。ただ——この人の笑った顔を見たい、という、純粋な願いだった。
雪がふわりと落ちて、エリゼの肩に積もった。
払いながら、エリゼはまた歩き出した。頬が冷たかった。でも胸の中は、なぜか温かかった。




