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必死で尽くしてきた王子に婚約破棄されたので、自分のために生きることにしました  作者: 小林翼


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第25話

 事件が落ち着いた翌日の朝、エリゼはいつもより遅く起きた。


 体が重いわけではなかった。ただ、なんとなく布団の中にいたかった。珍しいことだった。辺境に来てから、エリゼは毎朝すっきり目が覚めていた。それが今朝は、目を開けてもしばらく天井を見ていた。


 頭の中に、昨夜の帰り道が残っていた。


 「エリゼ」と呼ぶ、あのぎこちない声。



「奥様、起きていますか」


 扉の向こうからリーナの声がした。


「起きてる」


「朝食の時間が過ぎましたよ」


 エリゼは起き上がった。着替えながら、鏡を見た。顔が普通だった。普通の顔をしているのに、胸の中が昨日から落ち着かない。


 食堂に下りると、レイナルトはすでにいなかった。朝の視察に出たとゲルハルトが言った。エリゼはなぜか少し息が抜けた。ほっとしたのか、がっかりしたのか、自分でもわからなかった。



 午後、自室で作業をしていると、リーナが洗濯物を持って入ってきた。


 しばらく無言で作業が続いたが、リーナが突然言った。


「奥様」


「なに」


「辺境伯様のこと、好きになりましたよね」


 エリゼの手が止まった。


「……何を突然」


「突然じゃないですよ。ずっと思ってました」


 リーナが洗濯物を畳みながら、至って普通の顔をしている。


「昨日の帰り道も、辺境伯様と並んで歩いているときのお顔、見てましたから」


「どんな顔をしていたの」


「楽しそうな顔です。でも困ったような顔でもあって。胸が苦しいときの顔です」


 エリゼはペンを置いた。


「……そんなわけ、ないでしょう」


「ありますよ」


「ないと言っている」


「顔が赤いですよ、奥様」


 エリゼは窓の方を向いた。冷たい空気が窓の隙間から入ってくる。頬が熱かった。



 しばらく黙っていた。


 リーナは何も言わずに洗濯物を畳み続けた。急かさない。ただそこにいる。それがエリゼには少し、ありがたかった。


「……もし、そうだとしても」


 エリゼはゆっくり言った。


「彼には、アンナさんがいる」


「三年前に亡くなった方ですよね」


「亡くなっていても、いるのよ。あの人の中に。毎年命日に一人で酒を飲んで、書斎に押し花を置いて——まだ、ずっとそばにいる」


 リーナが手を止めた。


「だから、踏み込んではいけない」


「それは奥様が決めることではないのでは」


「……」


「辺境伯様がどう思うかは、辺境伯様が決めることですよ」


 エリゼは答えなかった。



 夕方、ゲルハルトとすれ違ったとき、副官が少し困った顔をして言った。


「エリゼ様、少しよろしいですか」


「はい」


「旦那様のことなのですが」


 ゲルハルトが言葉を選んでいた。


「最近、旦那様がエリゼ様のいない時間に——その、落ち着かない様子をされているんです」


「落ち着かない?」


「書斎にいても、立ち上がって窓を見る。廊下に出てまた戻る。食堂でも、椅子を少し引いて——」


 ゲルハルトが頭を掻いた。


「十年以上、旦那様のそばにいますが、こういうのは初めて見ます」


 エリゼは何も言えなかった。


「私が言うことではないかもしれませんが、ご参考までに」


 ゲルハルトが一礼して立ち去った。


 エリゼはしばらく廊下に立っていた。


 好きになってはいけない理由を探している。リーナの言葉が、頭の中で繰り返した。


 探しているということは——もう、気持ちはあるということだ。


 エリゼは小さくため息をついて、自室に戻った。

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