第13話
城に来て半月が経った頃、エリゼはようやく建物の中を把握し始めた。
食堂、書斎、厨房、倉庫。必要な場所は覚えた。しかし三階の奥の廊下だけは、まだあまり足を踏み入れていなかった。来客用の部屋が並ぶ区画で、エリゼの部屋もそこにある。
ある午後、リーナと一緒に廊下を歩いていると、エリゼはふと足を止めた。
壁に、一枚の肖像画が掛かっていた。
小さな額縁に収まった、丁寧に描かれた絵だった。二十代くらいの女性。栗色の柔らかい髪、穏やかな目、少し微笑んでいるような口元。華やかではないが、見ていると温かい気持ちになるような顔だった。
「誰の絵かしら」
「ああ、それは」
リーナが声を落とした。
「先代の奥様だそうですよ。城の使用人に聞きました。三年前にお亡くなりになったとか」
「そう」
エリゼはもう一度、肖像画を見た。
アンナ、という名前だと、後で知った。病弱だったが辺境をこよなく愛していた女性。レイナルトが三年間、ずっと一人でいる理由。
その夜、エリゼは書き物をしていて、行き詰まった。
土壌の改良計画を紙に書き起こしていたのだが、参照したい資料が一冊手元になかった。確か書斎で借りたまま返していない帳簿があったはずだ、と思い出して、廊下に出た。
書斎の扉を押すと、灯りがついていた。
「あ——」
エリゼが声を上げた。レイナルトが机の前に座っていた。
「失礼しました、扉が開いていたので」
詫びながら退室しようとして、机の上に目が留まった。
小さな木の額縁。その中に、押し花が一輪。薄い紫色の、小さな花びらを持つ野花だった。リボン草の仲間だろうか、エリゼには名前がわからなかった。
「見ていいか」
レイナルトが言った。
エリゼは動きを止めた。立ち去るでも入るでもなく、扉の傍で立っていた。
「……彼女が好きだった花だ」
レイナルトの声は、いつもより少し低かった。
誰に向けて言ったのか、エリゼには判断できなかった。自分に向けたのか、それとも独り言なのか。
しばらく間があった。
「きれいな花ですね」
エリゼは言った。
それだけだった。それ以上は聞かなかった。いつ頃の話か、どんな人だったか、今でも悲しいか——何も聞かなかった。聞くことではない気がした。
「帳簿を取りに来ました。棚の前をお借りしてもよいですか」
「どうぞ」
エリゼは素早く棚から帳簿を取って、礼をして出た。
廊下に出て、扉を閉めた。
胸のあたりに、何か引っかかるものがあった。
私には関係のないことだ、とエリゼは思った。レイナルトとアンナの間にあったものは、エリゼの知るところではないし、知るべきでもない。この地に来たのは領地の仕事のためだ。
わかっている。
それでも、なぜか少し胸が痛かった。
押し花の薄い紫色が、瞼の裏に残っていた。
翌朝、食堂でレイナルトと顔を合わせた。
昨夜のことには触れなかった。レイナルトも触れなかった。
ただ、いつもより少しだけ長く、レイナルトがエリゼの方を見ていた気がした。人に過去を打ち明けて、それを静かに受け取られた、というときの——安堵に似た、奇妙な表情で。
エリゼはそれに気づかないふりをして、パンを千切った。
胸の引っかかりは、朝になってもまだ残っていた。




