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15》涙の約束

 どんよりと鈍重そうな雲が空に積み重なっている。火山灰がそのまま浮かんでいるかのような灰色の配色をしていて、視界に収めるだけで気分も暗くなってしまう。

 ツキミはいつものように失敗した。

 皿洗いをしていたら、オイルで滑って割ってしまった。丹精込めた料理が地べたに落ちてしまった。それは弁償すればいいだけのことじゃない。お腹を空かせて、いつものように早くて美味しい料理が来ることを待望していた客の信頼を裏切り。一皿のために何年も鍋を振るってきた料理人の誇りを踏みにじった。使えない。どうしてこんな何もできない《無心機》がいるんだ。いっそのこと廃棄処分にした方がいい。役立たずのくずが……とか、散々罵られた。

 《無心機》には《無心機》の誇りがあって。仕えるべき人間に一生仕えることが至上の喜び、みたいな《無心機》も少なくない。だから、人間だけではなく。同士であるはずの《無心機》から小声で揶揄されることも少なくなかった。

 人間からも。そして、《無心機》からも遠巻きにされるなんて、いつものことだった。生を受けたその日から、ツキミはその存在を否定されない日などなかった。だから、全然平気だった。

そして、いつものようにうどん屋の前まで来ていた。意識などほとんどなかった。だけど、だかこそ身体は習慣に従ったのだろうか。

「……なに?」

 手が震える。ほんとうに、いつものように、そこにはあいつがいたのだから。いるのは分かっていた。それなのに、何故か頭が沸き立つような怒りを覚えた。会う約束なんてしていない。それでも彼はそこにいた。会いたくないなら、こちらがうどん屋に来る時間をずらせばいいだけなのに。彼に落ち度はなにもないというのに。呑気にうどんを食べている姿を見て、怒鳴らずにはいられなかった。

「もう二度と顔を見たくないって……私はそう言っただろ!」

「……ごめん」

「なんで謝るんだ? ほんとに悪いと思ってるなら、謝る前に私がいないところに行け! もう二度と会わなくすむぐらい遠くに行けよ! なんなんだ? あんたは。ほんとうになんなんだ? おかしいだろ! 私は、人間じゃないんだよ! 《無心機》なんだ!」

「知ってる」

「私は自分が何者なのかも分からないし、誰にも必要となんかされていない! 失敗しかしないし、これからの未来なんて、絶望的で、もうどうにもならない! 私はこれからもずっと! ずっと! 独りなんだから! だから邪魔しないでくれ! 私は独りでいることに不満はないし、それで私という存在は完結している! どこかに行ってよ!」

 誰かの役に立つことこそが、《無心機》の存在意義。無力で無能なツキミには、《無心機》である資格はない。じゃあ、ツキミは何者なのか。他の誰にも説明できるはずがない。ツキミ自身、自分がどんな者だったのか記憶すらないのだから。

 自分が誰なのか分からないってことは、生きる意味がない。これからどんな生き方をすればいいのか分からない。誰でもいい。理屈なんてなくていい。もしも誰かに自分がここにいてもいい。この世界で息づいていてもいいと言ってくれれば。存在を容認してくれれば、それは――


「――行かない」


「ツキミが自分のその足でどこかに行かない限り、俺は……ずっとここにいる」

 ツキミの足は――動かない。

 どこにだって行けるはずなのに。耳障りでどうでもいい言葉を振り切ってしまって、嫌いな人間を視界に収めないようにすることなんて簡単にできる。足が微動だにしなくたって、能力を使えば滑っていける。だけど、そんなことはできなかった。

 彼は、ここにいてくれたのだ。

 温かいうどんを啜りながら、まるで家族を迎えるように待ってくれていた。素性不明の《無心機》を、何の躊躇いもなく世話をしてくれた。爪弾きにされていたツキミのことを、《ファミリー》に誘ってくれたのだ。否定され続けてきたツキミのことを、唯一肯定してくれた存在だった。そんな彼のことを拒むことなんて、できるはずもない。

「失敗ばかりしてるってことは、それだけ挑戦してるってことだろ。《無心機》だからって。他人から差別受けてるからってなんだよ。そんなの関係ないだろ。ちょっとダメだったからって、《無心機》のせいにするなよ。お前は、お前だよ。昔の記憶がなくなって、お前はツキミだよ。俺が知っているのは、お前が記憶を伴って目覚めた時のお前だよ。お前が何者だっていい。お前がお前を認めなくたって、俺がお前の存在を認めるよ。お前はもう独りじゃなくてもいいんだよ」

 ぽつぽつ、と糸を垂らすみたいに、どこまでも透明な雨が降る。それは冷たくて、頭を冷やすにはちょうどいい温度で。ツキミの汚いオイルを流してくれるには最適だった。枯れ果ててしまった心が、潤っていくようだった。


「だから、俺の家族ファミリーになってくれないか?」


 誰かに存在を認められたら、それは生きていてもいいってことになるのだろうか。

「……なんだ。いつもツキミ言ってたよな。私は心がないから、綺麗な涙なんて流せないって。でも、流せるじゃないか。ほら」

 ぽた、と雨が一滴だけ、ツキミの瞼の上に落ちる。水滴は、頬を流れて顎の輪郭をゆっくりとなぞる。

「……うぅううう」

 《無心機》には心がないはずだ。だからこそ、涙なんて流せない。だけど、これがツキミにとっての涙だった。泣き叫ぶのを我慢しているみたいに、下唇を噛む。両こぶしを握り締めているせいで、降りしきる雨の粒を拭うことができない。だから、優しく。傷つけないように。こわれものでも触るみたいに、彼はツキミの濡れた頬を指でなぞる。

「また、ツキミが泣いたら。ツキミの傍にいてこうして拭き取るよ。――約束だ」

 ……そんな風に言った彼と、今ツキミは一緒にいる。《無心機》風に言うならば、彼はご主人様なのだろう。一生仕えるべき相手で、奉仕しなければならない。だけど、あいにくとツキミは真っ当な《無心機》ではない。彼のことをご主人様とは思えなくて、ただの《ファミリー》の一員としか思えなかった。そして……


「ようやく起きたな。なんかうなされてるみたいだったけど」


 どうやら、致命的な一撃を受けてしまって、寝てしまっていたらしい。そのせいで、昔の記憶が蘇ったようだ。とんでもなく重い一撃のせいで全身くまなく痛い。ギギギ、と機械的な音がしてしまっていて、動けない状態で、まるで記憶が生まれた時のツキミのようだった。

 だから、しかたなくカナルの膝に乗っている。海に浸かったしまったせいで、ツキミの頬は濡れていた。人間が寝ながら夢を見て、涙を流してしまっているかのように。《無心機》は涙を流していた。それを、カナルは当然のように拭き取っていた。

「……約束、覚えてくれてたんだな」

「あんな大切なこと、どれだけ記憶を改竄されたって忘れるわけないだろ」

 しばらく躰は言うことをきかないが、すぐに修理できる。だから今できることは、カナルに協力することだ。

「……私には自動修復機能がついている。もちろん、記憶の回路も」

 カナルが危険因子であることには変わりない。だが、今のツキミにはどうすることもできない。躰が動かない。それこそ、役立たずだ。だけど、役立たずなりに情報を託そうと思う。

「カナルが見た記憶の中でハッキリと顔が見えたのは誰だった?」

「俺と、それから……いや、他には誰も思い出せない」

 やはり、あの場にいた全員が、あの惨禍の記憶を共有した。そして、肝心なところがぼやけている。しかし、その霧を晴らすことができる人物がいる。それは、《惨禍の死神》と、カナル。それからもう独りだけ、当事者がいる。

「あの時。《惨禍の死神》とカナルの間に入ったのは――アローンだった。だから、これだけは言える。アローンだけは絶対に《惨禍の死神》じゃない。私は蚊帳の外からその光景を目撃しただけだから、これだけしか記憶が回復していない。だけど、アローンはあの後何があったのかを思い出しているかもしれない」

 つまり、

「アローンと話せば、全ての記憶が蘇る」


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