1話 転生
「3次元は疲れる。2次元は劣化しない」
それが、30代後半まで限界社畜として生きていた俺の、揺るぎない信条だった。
現実の恋愛だの人間関係だのは、面倒くさくて仕方ない。
休日は部屋にこもって、アニメやゲームといった趣味に没頭する。
それが今の俺の理想の生き方だった。
そんな俺が死んだ理由は、よく覚えていない。
――いや、正確には思い出したくもない。
待ちに待った最愛の推しの、限定1/4スケールフィギュアを自宅で開封し、その完璧な造形を抱きしめて胸の鼓動が高まった瞬間、心臓に強い痛みを感じた。
……そこから先の記憶がプツリと途絶えているのだ。
連日の過度な残業で限界を迎えていた心臓が、不整脈でも起こしたのだろう。
……まあ、ある意味、推しの胸の中で死ねたと考えれば、本望ではあったのかもしれない。
◇
そして、俺は今、見知らぬ天井を見上げていた。
病院の無機質な白い天井ではない。
視界に飛び込んできたのは、重厚な木目調の太い梁と、煤けた漆喰。
部屋の空気はひんやりと冷たく、部屋全体が薄暗い。
壁には大掛かりな歯車が露出した真鍮製の壁掛け時計が静かに時を刻み、枕元ではガス灯を思わせるレトロな照明器具が、ぽつりと橙色の温かい光を灯していた。
ポツンと明かりが灯るその部屋は、しかし驚くほどがらんとしていた。
高級なタペストリーや絵画が飾られていたであろう壁には、それらが長年飾られていた四角い日焼け痕と煤汚れだけが残されている。
かつて重厚なチェストや調度品が置かれていたと思われる床には、脚の重みで凹んだ痛々しい痕跡と、引きずったような傷痕が刻まれていた。
ふと部屋の隅に目をやれば、壁の角からむき出しになった蒸気配管が、ときおり「カン……カン……」と金属音を響かせて凍えた部屋を申し訳程度に温めている。
まるで、十九世紀後半の没落貴族の屋敷に迷い込んでしまったかのような、かつての絢爛さと現在の悲惨さが同居する異質な空間だった。
そんな中世と近代の狭間のような部屋の真ん中で、俺は天蓋付きの古めかしいベッドに横たわっていた。
何だか知らないが、身体がめちゃくちゃ重い。
ベッドが、ギシギシと悲鳴を上げている。
恐る恐る自分の腹に手を当てると、そこには見事な三段腹の脂肪が波打っていた。
なかなかの肥満体型である。
俺の肉体は、良くも悪くも平均的な、中肉中背だった。
それゆえに、今自分が感じている重量感が、あまりにも異質であることを告げていた。
俺はベッドから身を起こし、部屋の隅にあった姿見で自身を確認した。
鏡の向こうからこちらをぼんやりと見返してきたのは、まだ10代も半ばの、絵に描いたようなデブの男の子だった。
体重は余裕で100キロを超えている。
丸々と太ってはいるものの、よく見れば鼻筋はすっと通り、痩せればイケメンなのになと思う程度にはパーツの整っている事が唯一の救いだった。
(……もしかして、これが噂のモブ転生ってやつか!?)
オタクの嗜みとして、Webの転生小説を読み漁っていた俺は、すぐに自分の今の状態に思い当たった。
アラフォーの社畜ともなれば、理不尽への諦めと臨機応変な現実逃避くらい朝飯前である。
その時、突然、頭の中に他人の断片的な記憶が流れ込んできた。
——この子の名前は、ユピテ・ヴァルハイト。
身分は男爵家の長男。14歳。
母親と、姉、妹の四人家族。
父親はいないらしい。
貴族ではあるが、裕福とは言い難い家計のようだ。
そしてこの身体の元主人であるユピテ君は、癇癪持ちで、傍若無人で手が付けられない、絵に描いたようなクズ野郎だった。
おかげで家族やメイドからは腫れ物のように扱われていたらしい。
そして、今のこの状況だが、どうやら大好きな菓子を独り占めした挙句、喉に詰まらせてぶっ倒れ、生死の境を彷徨っていたようだ。
そこに俺の魂がスポンと収まったわけだな。
「うわ……ありがちだけど、いざ自分がそうなると、最悪の設定だな」
そう呟いた直後、部屋の扉が小さく開いた。
「……お兄様、起きましたか?」
扉の隙間から、ビクビクしながら一人の少女が入ってきた。
その後ろには母親と姉も控えている。
いくらユピテの記憶が頭に流れ込んで情報としては知っていたとはいえ、いざ生身の彼女たちをこの目で直視した瞬間、俺はあまりのビジュアルの良さに内心で激しくぶったまげていた。
まず入ってきた妹のフィアは、12歳という年齢らしい、ふわふわとした桃色のショートヘアが愛らしい小動物系のロリ美少女だった。
その後ろに立つ母親のステラは、子供を3人も産んでいるというのが嘘のような、艶やかな金髪とサファイアブルーの瞳を持つ、包容力カンストの優美な超絶美女だった。
そして、最後尾から冷たい視線を送ってくる16歳の姉、ルナにいたっては、漆黒のストレートロングが眩しい、まさに氷の令嬢という言葉がぴったりのクールビューティーだった。
姉妹で髪の色も目の色も雰囲気も全く異なってはいるが、驚くほど全員の顔面偏差値が高すぎた。
(いやいや、いくら何でも母親も姉妹も美人すぎだろ……。ユピテ君がクズデブだったせいで、余計に美女の身内っていうアンバランスさが際立つな)
俺がそんな風に一人で驚いている間にも、ベッドから身を起こしている俺を見るなり、母親のステラがドレスの裾を翻して駆け寄ってきた。
彼女は涙を流しながら俺の手を握りしめた。
サファイアの瞳が真っ赤だ。
「あぁ、ユピテ! 具合はどう? もう大丈夫?」
俺は女性に話しかけられるだけで疲れを感じる限界オタクだ。
それが更にこれほどの美人ともなると、それだけで手汗が止まらなくなった。
視線を少し逸らしながら、俺はかろうじて声を絞り出す。
「……あ、うん……心配かけて、ごめん……」
前世の社畜マナーが染み付いている俺は、ごく自然に、心配をかけたことへの謝罪を口にした。
だが、俺がそう告げた瞬間。
母親の動きがピタリと止まった。
サファイアのような美しい瞳を限界まで見開き、息をすることすら忘れたように硬直している。
その顔は瞬く間に、沸騰したヤカンのように真っ赤に染まっていく。
(……おいおい、なんだその反応。
ただ謝罪を言っただけなのに、まるで神の啓示でも受けたかのような、涙ぐまんばかりの衝撃を受けてプルプルと震えだしたぞ)
そんな俺の戸惑いを置き去りにしたまま。
母親は溢れそうになる涙を必死に拭い、顔を真っ赤にして、まるで壊れた機械のように言葉を紡いだ。
「好感度が、限界突破しています……!」
「……え?」
唐突に飛び出した謎のフレーズに、俺の思考は完全にフリーズした。
ふと視線を横に向けると、後ろに控えていたクールな姉のルナも、可愛い系の妹のフィアも、宇宙人でも目撃したかのように目を丸くしてこちらを凝視している。
(……あぁ、そうか。なるほどな)
彼女たちの異常なまでの驚きっぷりを見て、俺は脳内で冷静に状況を分析し始めた。
(前の中身が骨の髄までゴミ人間すぎたから、ちょっと普通の返事をしただけで、天変地異レベルのショックを受けちゃってるわけか)
身内の前歴が最悪だったからこそ、まともな挨拶一つが奇跡に見えている。
そう結論付けると、すべての辻褄が合う気がした。
(まぁ、家族から腫物扱いのスタートでも、こうして寝込んだ時に本気で心配してくれてるって事は、まだ致命的な亀裂まで行ってないってことで、ひとまず安心だな)
俺は未だに「好感度が……」と虚ろに呟いている母親の様子をチラリと見た。
正直に言えば、頭はまだ混乱の渦中にあった。
これが本当に噂の異世界転生なのだとしたら、なぜアラフォーの独身社畜がこんな100キロ超えのクズデブとしてセカンドライフをスタートさせられなければならないのか、理不尽すぎて意味が分からなかった。
夢であってくれと願いたかったが、手のひらで掴んだ三段腹のぶよぶよとした肉感と、病み上がりの気怠い身体の重さは、これが現実であることを嫌というほど告げていた。
元の世界へ戻る方法も分からないし、戻っても自分が生きているかどうかも分からない。
であれば、ここで絶望して発狂するか、あるいは現実を受け入れて生きるかの二択しか残されていなかった。
(……いや、考えても始まらないな。社畜時代、理不尽な命令なんて日常茶飯事だっただろ。まず生き残る事、そのためには今置かれた環境に適応するのが最優先だ)
長年の過酷な労働で培われてしまった、最悪な状況に対するタフすぎる諦めの早さと臨機応変な対処行動が、ここで強制的に作動した。
このまま家族から腫物扱いされ、家庭内で餓死するようなバッドエンドだけは絶対に御免だった。
今後の自分の生存環境を盤石なものにするためにも、まずはこの崩壊しかけた家族との関係修復から手をつけていくのが、転生したてのおっさんとして、最も都合が良いという結論に至る。
そんな打算的なことを考えつつも、その日は病み上がりの身体の限界が来たため、自室のベッドで泥のように眠りを貪ることにしたのだった。
◇
数日後。
体力が回復し、屋敷の本棚にある歴史書や地図、各家の紋章の本を読んだ俺は、己の胸の高鳴りを抑えきれなくなっていた。
ここは、前世で俺が死ぬほどどハマりし、世界ランキング一桁に君臨するまで廃課金していた、超大作ソシャゲ——
『マナ・クロニクル』の世界だったのだ。
部屋の壁に掛けられたカレンダーを見る。
帝国暦892年。
脳内のゲーム知識が、瞬時にその数字の意味を弾き出した。
(ゲーム本編が開始される、ちょうど二年前だ。ってことは……あの画面の向こうでしか見られなかったエルザ先輩に、リアルで会えるかも知れないってことか……! 最高かよ!)
エルザ・フォン・ローゼンベルク先輩。
帝国屈指の名門侯爵家の令嬢にして、ゲーム内では初戦でプレイヤーに必ず強制敗北イベントを叩き込んでくる、公式最強の孤高の戦乙女。俺の最推しだった。
歩くたびに美しく波打つ、真紅のリボンで結われたライトブラウンの艶やかな超ロングヘア。
見つめられるだけで平伏したくなるほど気高く力強い、琥珀色の瞳。
171センチの高身長から繰り出される洗練された武の美しさと、溢れんばかりのGカップの黄金比ボディ。
そして何より、圧倒的な強者でありながら、弱者を決して見捨てず庇い潤す、あの本物の高潔さと優しさ――。
前世で俺の命を奪う起因となった、あの限定1/4スケールフィギュアではなく、1/1スケールの、生身の本物に会えるのだ。
あの演技もうまくて歌も神がかっていた声優さんの声を、生で、鼓膜に直接浴びることができるのだ。
(今から楽しみで仕方ない! よっしゃ、全力で推し活するぞ!)
アラフォーのおっさんの中に眠っていた純粋なオタク心が、一瞬で限界突破した。
だが、問題が一つあった。
このゲーム、とにかく戦闘が高難度でシビアすぎるのだ。
今のクズデブモブのままで先輩に近づけば、不審者として即死デリートされるか、道中の雑魚敵にすらワンパンで肉片にされるのがオチだった。
何の気兼ねなく、特等席で推しを見守り、会話をする――そんな幸福な推し活を完遂するためには、まず自分が圧倒的に強くならなければならなかった。
(でもさぁ……中身アラフォーのおっさんに、毎日血の滲むような修行なんて、しんどくて絶対に無理だぞ?)
汗だくになって泥にまみれるのは御免被る。
爆速で強くなる都合のいい方法はないか。
ゲーム時代の記憶を掘り起こした俺の脳裏に、ある記憶がポンと蘇った。
(そうだ。運営が公式に用意した、あのチートメニューがあったじゃん――!)




