5話 応接室
王城は、こんな薄汚れた自分が足を踏み入れて良いのか躊躇う程に、豪奢で綺麗なところだった。
大理石の床は輝いていて、大広間の隅を見ても埃一つない。使用人はフェリクスの帰還の挨拶をするために二列の間に空間を開けて整列し、フェリクスが通れるようにとしていた。彼ら彼女らが、きっとこの王城の掃除を行なっているのだろう。
だが、躊躇せずに美しく進んでゆくフェリクスとは正反対で、初めてのこの光景をビアンカは目の当たりにし、目を見開いて驚愕している。因みに、フェリクスが抱っこしているエルトは、どうやら頭を下げている使用人たちに戸惑い、それどころではないそうだった。
フェリクスは、足を踏み入れないビアンカに振り返り、首を傾げた。
「どうしたんだい? ビアンカ嬢」
「あの……私が、こんな綺麗な場所に足を踏み入れて、よいのでしょうか」
「いいんだよ。それとも、ビアンカ嬢もエルトと同じように抱っこしようか?」
「えっ…………そ、それは大丈夫です……っ」
あわあわと慌てているビアンカに、フェリクスは上品に微笑み、「じゃあ、行こうか」とビアンカに手を差し伸べた。差し伸べていない方の手はエルトを抱えているが、いくらエルトが軽いとはいえ片手で抱っこできるなんて流石だ。
ビアンカは躊躇し、良いのだろうかとフェリクスの目をチラッと見る。彼は目の合ったビアンカに微笑み掛け、小さく首を傾げた。その姿が眩しくて、ビアンカはギュッと瞑目しながらフェリクスの手に己の手を添えた。
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応接室にて。躊躇しながらもフェリクスに促されるままソファに座った時の事だった。フェリクスの隣で何もせずに辺りを見渡すエルトの頭を撫でながら、フェリクスは微笑み口を開く。
「………まず、ビアンカ嬢はちゃんとしたドレスに着替えて、エルトは喉を潤そうか」
「あ、は、はい。そうですね。………ですが、私が失礼にならないような、そんな感じの服装を着させてもらっても大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。………ビアンカ嬢は、もう少し欲を出そうか」
後者の言葉に首を傾げると、フェリクスは苦笑して「まぁ……仕方ないのか」と微かに悲しそうな声音を含みながら呟いた。頭の上に疑問符が次々と浮かび上がってくるが、ビアンカが尋ねてもフェリクスは答えてくれないだろうと、そのまま沈黙する事にしたのだった。
「ドレスは、僕と共にこの国に来た姉上のドレスでも良いかな。見たところ、身長は姉上とそんな変わりないようだから」
「え………っ。で、ですが、そんな豪奢なドレスを着せてもらう訳には」
「でも、ここは僕があれこれ言って良い国じゃない。だから、姉上のドレスしか貸せないんだ。質も良いし、シンプルなものだけど、駄目かな」
首を傾げて若干上目遣いで見て来るフェリクスが、少し可愛いと思えてしまい、ビアンカは薄らと頬を染めた。
「はっ…………はぃ。恐悦至極に、存じます」
「ありがとう。……ところで、よくそんな言葉を知っているね。本当に貴女の両親は家庭教育をさせてくれなかったのかい?」
「はい。我が家には、よくお客様が訪れるので、その度に御母様の言葉遣いを真似しておりました。………駄目、でしたでしょうか」
「そんな事はないよ。ただ、そうか………そんなに来訪者が来る家は、珍しいな」
「?」
考え始めたフェリクスを首を傾げながら見詰めていると、フェリクスはビアンカの視線に気付いたのか、頭を振って「いや、そうだなぁ」と呟いた。
「貴女の家の事を深く知っても、失礼なだけだね。………ビアンカ嬢、そろそろ着替えに行ってはどうかな」
「あっ………申し訳ありません。すぐに出て行きます」
「ううん。大丈夫だよ。ドレスの件は、姉上に話しておくからね」
迷惑を掛け続けてしまっていると思い、ビアンカはもう一度謝罪してから待機していたフェリクスの侍女と共に応接室を後にした。
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ビアンカが出て行ってからというもの、二人取り残されたフェリクスとエルトはお互いに沈黙を続けていた。ビアンカと話していた時も、エルトは茶を口に含む事も口を開く事もせず、ただじっと待っていたのだ。チラッとエルトを見た時も、エルトはどこか遠い目をしていて、心配になってしまう。
「エルト。紅茶を飲んでも、良いんだよ?」
「…………」
エルトは戸惑った様子だったが、フェリクスがもう一度紅茶を飲むよう促せばエルトは素直にコップに口を付けた。取っ手を持つのではなく、容器を両手で持つ姿は、幼い頃から家庭教育を行なっていたフェリクスにとっては新鮮な姿だった。
エルトは一気に紅茶を飲み干す。ぷはっ、とコップから口を離すエルトに、フェリクスは自分の紅茶も勧めた。
「………ありがとう……ございます」
「ううん。………ふふ」
「?」
「あぁいや。何でもないよ」
先日、ビアンカにも紅茶を勧めた事があったが、その時の彼女はフェリクスの紅茶を飲むなどと躊躇っていた。だがエルトは素直に飲んでくれる。二人の性格を比べ、微笑ましくなり、笑ってしまった。
「………さてと。もう話せるかな?」
「え? ぁ………、! あ〜〜〜?」
「うん。出てるね」
エルトは、自分の言葉が素直に喉を通る事に驚愕しているようだった。まだ少し掠れているが、せめてこの国に滞在している間は国王に頼んでエルトがこの王城に居る事を許可してもらおう。
そう思った時、ビアンカ嬢は大丈夫だろうか、と心配になった。
ビアンカは家族や使用人に毛嫌いされている。紅茶をわざわざ冷めて彼女の前に置いたくらいだ。それに、ビアンカを馬車からエスコートした時、腕に濃い青痣があった。縄や鞭で打たれているという証拠には十分なものだ。
(ビアンカ嬢も、出来れば城に居てほしいけれど………それは、賓客の身の僕が決める事ではないな)
だが、ビアンカをあの家に帰してはいけない。だから、国王に交渉するしかないだろう。
「フェリクス王子殿下。国王陛下がお呼びです」
「……すぐ行くよ」
どうやら、謁見を申し出なくとも相手から呼んでくれるようだ。




