29.浮足立つ(side 朔弥)
「――素敵な旅館ですよ。凜さんも、元気そうです。――はい、そちらも問題ありませんか。お疲れ様です、花江さん」
旅館のロビーに置かれた公衆電話を切ると、朔弥は広間のソファに腰掛けた。
一階から繋がる浴場から、凜が戻ってくるのを待っている間、自宅にいる花江に連絡を入れておいたのだ。
(花江さんも、心配している様子だったけれど、凜さんも思ったより元気そうで良かった)
とは言いつつ、浴室で何かあったら困るので、「先に上がったら部屋に戻っていてください」とは言われたものの、広間で待つことにした。
「朔弥さん、待っていてくれたんですか」
明るい声がして、顔を上げれば、湯上りの凜が浴衣姿でこちらに手を振っていた。
「――うん」
思わず、目を奪われて、言葉が続かなかった。
ゆっくり温泉に浸かったからだろうか、血色が良くなった肌は、いつもの白さに桜色のような赤みを差していた。濡れた髪の先が頬に張り付き、それを気にして指で払う仕草までが、普段の凜とは違って見えて、思わず目を奪われた。
家でのパジャマ姿というのは、病院の患者の姿でもよく見るものだったので、仕事の延長のような感覚で見てしまっていたのが、旅館の浴衣姿は新感覚だった。
「――お待たせしました?」
そう言って顔を覗き込まれて、朔弥は静止した。
「――うん、いや、全然、待ってないよ」
「そうですか? 部屋に戻りましょう」
そう言って、手を繋がれたので、右手と右足が一緒に前に出てしまってよろめいた。
「大丈夫ですか?」
驚いた凜にそう声をかけられて、朔弥は繋がれていない方の左手で顔を覆った。
「全く、問題ないよ。――もう、夕食だよね。楽しみだ」
「本当に。こんなにゆっくりできて、美味しいものも食べられて幸せです」
微笑む凛と手を繋ぎ直して、部屋に向かう。
急に頭に「浮足立つ」という言葉が頭に思う浮かんだ。
(本来的な意味は、「恐れや不安を感じて、落ち着きがない状態」を指す言葉で、浮かれてスキップするような状態は、よくされがちな誤用だけれど)
朔弥は自分の足を見つめた。
(僕の足は今――浮いているな)
そんな、気持ちだった。
◇
部屋に戻り海辺の温泉旅館らしい、海鮮の盛り合わせが華やかな夕食を食べると、凜は疲れたのか先に寝てしまった。
凜が寝たのを確認すると、朔弥は布団から起き上がり、波音が聞こえる窓際の小さなテーブルがある広縁に移動し、ソファに腰掛け、卓上ランプの豆電球をつけた。
荷物から取り出した写真を手に取り、見つめる。
今日撮影した、ポロライドカメラの写真には、笑顔の凛と、自分が映っていた。
「僕は、こんな風に笑うんだなあ」
そこに映っている自分は、自分ではないような感覚がした。
今まで映った写真で、こんなに笑顔の自分は見たことがなかった。
学生時代も行事も部活もほとんど参加せず、勉強ばかりしているような生活であったし、画像として自分が残るのが嫌で、写真というもの自体が嫌いだったので、アルバムも家に一冊もない。――近年撮った写真は、大学や医局のパンフレットに載せる写真くらいだが、それは引きつるような口元をしていたと思う。
(父さんと、母さんにもこんな時間があったのか)
もう1枚、先日花江に渡された、若い頃の父親と母親のツーショットの写真を取り出し、自分と凛の写真と見比べた。
白黒写真の父親と母親は、同じように楽しそうな笑顔を浮かべている。
母親の顔は、この写真を見るまで、知らなかった。
12歳まで一緒に暮らしていた父親も、物心ついたときには、酒ばかり飲んで、いつも暗い、沈んだ顔をしていたことしか思い出せない。
それでも、二人にもこんな自分が今凛と過ごしているような、楽しい時間があったのだろうと思うと、二人にも、政府や置かれた環境に翻弄されるだけではない、個人としての幸せな時間があったのだと思うと、確かに救われるような気持がした。
朔弥は襖の向こうで、寝息を立てる凜を見つめてから、自分の手のひらを見つめた。
目を凝らすと見える、自分を包む、寿命ともいうべき生命力の光は、そうすると、少しだけ色が濃くなる。
それは、病院の患者に、家族や親しい人が見舞いに訪れた時に、よく見る現象と同じだった。
朔弥に見える、「寿命」の光は、必ずしも一定ではない。
炎のようにゆらめくもので、その人間の、活力――生きる意思というようなものによって、光が強くなる現象をよく目撃してきた。
(『病は気から』って、そういうことなんだなと、何となく思っていたんだけど、)
「こういうことなんだなあ」
朔弥は『発見』に思わず独り言を言ってから、襖の向こうに向かって、つぶやいた。
「凜さん、僕は、もっと君といたいよ」
大事な話をしなければいけないと、タイミングを考えていたのに、今日もただ楽しく過ごしてしまって、タイミングを見失ってしまった。
「明日、明日の夜に話そう」
朔弥は決意を決めるように、つぶやいた。




