9話
陽夏はどうやら、言葉を知らないわけではないようだ。ただ、その言葉が何を示すのかがいまいちよく分かっていない。これは何、それは何。1つずつ丁寧に教えてやれば、陽夏は真似して直ぐに声に出す。
でもそれは未だに俺と曽野さんの前でだけ。なぜ頑なに他の人には喋らないのかは不明なままだ。
「陽夏、これは兵助」
「おいこら、これとはなんだ。これとは」
陽夏には早々に兵助に慣れて欲しい。兵助だって陽夏とはもっと仲良くなりたいはずだ。
「あの絵本な、兵助が書いたんだよ。陽夏の絵に合うように、お話を考えてくれたんだ」
陽夏は俺じゃなかったのかと驚いた様子だったが、その後、兵助のことをじっと見つめた。兵助は陽夏に怯えられずに見つめられるのが初めてで、なんだか照れているようだ。首の後ろをかくのはその証拠。
「陽夏のために、やってくれたんだ」
陽夏は手を前に持ってきて、服の裾をいじる。どうすべきか、陽夏はわかっているようだ。あとはそれを声にするだけ。
「へー、すけ……」
声は小さい。だけど、ちゃんと聞こえてる。兵助は陽夏に少しでも圧迫感がないように、膝を着いて目線を合わせた。
「へーすけ……あ、ありがと」
「はい、お嬢。どういたしまして」
聞いたことないくらい優しい声だ。目尻を下げて、微笑んでいる。それが意図したものか、自然と出ているものかはわからないが、とにかくいつもの兵助とは全く違っている。
「兵助、なんか気持ち悪ぃ」
「後で覚えてろよ昂明」
しまった、声に出てしまったようだ。
兵助との会話を皮切りに、陽夏は他の人へも話しかけるようになった。とは言っても、挨拶とかお礼とかそれぐらいだけど、俺はそれでも十分だと思っている。
組員の中で、陽夏に声をかけられて、嬉しすぎて大声で応えた奴がいる。陽夏は大声にビビり、その日は一日大変だった。じいちゃんと幹部にこれでもかってくらい怒られてたしな。
そんな怖い思いをしながらも、陽夏は毎日、自分から声を発することができるように頑張っていた。
学校の帰り道には、近所の子が集まるような公園がある。大きな広場とほどよい遊具。晴れてる日は子供で溢れてる。いつもは素通りだけど、今日は少し歩みが遅くなる。
陽夏がああやってはしゃいでるところ、まだ見た事ないな。それどころか、外で遊んでるとこだって。明日、陽夏の服でも買いに出かけようか。
今までは曽野さんが見繕ってくれていたけど、もしかしたら、自分でも見てみたいと思っているかもしれない。
武人にオススメの店を教えて欲しいとメッセージを送る。どうやら、母親が妹をよく連れていく店があるらしい。ここから近いショッピングモールだな。兵助に言ったら車出して貰えねぇかな。陽夏もいるって言ったら大丈夫か。
「おかえり、おにいちゃん」
「ただいま陽夏。なぁ、明日一緒にお出かけしないか?」
「おでかけ?」
「そ、兵助に車出してもらってさ、外に遊びに行こうぜ!きっと楽しいぞ〜」
「そと…」
陽夏の顔が明らかに曇った。もしかして、出かけるの嫌なのか?あ、インドア派?もしかして陽夏はインドア派なのか?
「おこ、られる……」
「は?怒られねぇよ!」
なんで外に行くのが怒られるんだよ。むしろ陽夏が外に出るようになったらじいちゃんも喜ぶぞ。あの人、陽夏のために庭も改築し始めてるんだけど。
「おそといくと、たたかれるから」
前いたとこの奴らか。1階で仕事をしていた組員の耳に入ったんだろう。空気が重く、冷たくなった。陽夏の後ろに立っている兵助も、陽夏には見せられない顔になっている。
「陽夏、ここにいる奴は誰も陽夏のこと叩かないよ。陽夏の嫌がることはしない。もししてくるなら、俺が絶対守ってやるから」
もう怖がらないでくれ。
陽夏の手を握りまっすぐ向き合った。思いが少しでも伝わるように。
ここまで読んでくださりありがとうございます