2-4
足は軽い。気分もいい。彼女と触れ合っている時間は何ものよりも代えられない。彼女と一生を共にすることができたら、どんなにいいだろうか。終わりのない先があればどれほどいいだろうか。始まりだけがあって、終わりがない。中間だけを持てるようにぼくらの世界が成り立っていたら、ぼくはきっとこの足を跳ね上げ小躍りしていただろう。
「……お、木崎おかえ――うっわ……」
ぼく気づいて挨拶をしようとしたクラスメイトが鼻を摘まむ。その顔は形容しがたい造形に変貌している。
それを見たぼくは、不快な感情を何一つ表さないで小さく噴出した。
「あはは。あんまり言ってやらないで。どうも、こいつトイレの設備最悪だったみたいで直接被ったんだよ」
「あー……そりゃあ最悪だぁね」
ぼくが背負う妹に、女子生徒は同情の目を向けた。足先からは、その汚れの一端である液体が水滴のごとく落ちている。彼らの見る妹は、目深に被われたフードは元より口元をマフラーに巻かれて、その中身は窺い知れないでいた。
「さっき泣き疲れたみたいで、今寝てるんだ。騒がしちゃってごめんね」
申し訳なさそうな顔をすれば、彼女は必死に首を振ってそれを否定した。
「う、ううん。そんなことない! 木崎さん急に入ってくれたのにすごく手伝ってくれてるし! すごく妹思いなんだねっ」
「そうでもないよ。ありがとう」
礼を口にすると、少女は照れたように身をくねらせた。
――やはり、母は偉大だ。
笑えば、彼らは母に似たこの顔に見惚れる。困ったような様子を見せれば代わりに事をなしてくれることだってある。幸慈は自分の顔を他人によく見せることを嫌うが、ぼくは愛する人のためだったら使えるものは使う主義だ。
母と同じように生まれたこの身に感謝した。こんな醜いぼくでも、愛する人のためにできることがある。愛する人のためにできることがあるとは、なんと幸福なことか。
「う――うわああああああああ!!!」
小石1つでも大きく響くこの場所で、その悲鳴は少年少女たちの耳を強く叱咤した。
「ど、どうした?!」
騒ぐ声が聞こえる。悲鳴は吉田のものだろう。
ぼくは背負っている妹を背負い直して、全員が声の方に注目している間に柱の陰に身を隠す。ライトを消せば、この陰気混じる暗闇の中見つけられる者はそういない。
大きな足音を立てて逃げ出す者が通り過ぎる。ぼくの目に狂いはなく、彼の反応は上々だ。残りの問題はあの男だ。
「光居! 中で何があったんだっ? 吉田が今逃げて――」
「に、逃げるぞ……」
「は? ひっ、つめた……」
柱の隙間から覗くと、ライトに明るみにされているうちの足の一本に、細い棒が床下の入り口から伸びている。いや、棒ではない。それは眩しいまでに白い腕だった。長い髪がそこから漏れているのが見えた。
『――ねえ……どこ行くの……?』
透けるような、しかしはっきりと耳に届く水面のような女の声だった。
続けて大きな悲鳴が広がった。朝の鶏に勝るとも劣らぬ威勢のいい叫びだ。掴まれた彼は必死になって振り払おうと足を振っている。他の人間は叫びの波に呑まれたのか、とっくに逃げていた。
適役とはこのことか。意外にも演技派だった少女の奮闘にぼくは感服していた。
はてさて、放せ放せと騒ぐ少年にもう飽きたのか、それとも少年の飽くなきまでの生への執着のおかげだったのか、彼女の手は彼から離された。ようやく悪霊から解放された少年は、情けない悲鳴を挙げながら仲間たちの背中を追いかけその場から鼠の如く去っていく。
悲鳴は外へと移動していた。この分なら、下の人間も逃げ去っていることだろう。
細い出口を這い出た少女――石動はその小さな身を起こし、疲労の息を吐いた。
ぼくは一人になった彼女に懐中電灯の明かりを向ける。簡易なスポットライトは、彼女を舞台に立たせている女優のように見せている。
「……前から思っていたけど、お前根性あるな。あそこまでやってくれるとは思わなかった」
「……根性で生きてきたようなもんなんで」
眩しそうに目を細める彼女に手を差し伸べる。石動は硬直したようにその手をじっと見つめていた。
「なにぼさっとしてんの。ほら、取りなよ」
「え、あ……そう、ですよね。一瞬叩かれるかと思いました」
「生憎、ぼくはバイオレンスな人間じゃない」
石動は少しだけ躊躇いを見せると、やおら口を切った。
「そうですね……あなたは、死体愛好家でした」
「ちがう。ぼくは彼女を愛しているだけだ。他も一緒のような言葉は――」
「わかってます。冗談です。一途で、気持ち悪い、死体愛好家。……そうですよね」
石動は仄かに笑って、ぼくの手にその白陶のような手のひらを重ねる。袖から、数本の線が引かれた手首が覗けた。
「――それも違うが、それでいい。お疲れ」
「……はい……お疲れ。……お疲れ様です」
引き上げた少女の体は、背中の彼女よりもずっと軽かった。
ぼくらは彼女を安置していた部屋とは別の部屋で一度休みを取ることにした。このままここにもおけない。彼女にはもっと安全な場所が必要だ。話し合いもしなければならない。
「それにしても、よく光居を脅かすことができたな。ぼくは、てっきりそういったことを信じない人間だと思ってたよ」
「信じない人でしたよ」
「……じゃあ、なんで」
「その代わり、お人好しだったというだけですよ。私が中学生だってすぐに見抜いたんです。だからですかね、たぶん家出娘が自分の隠れ家を守ってるんだって勘違いしたみたいで……それで助けてくれました」
「へえ……。……は? いま、なんて言った?」
「ええ、家出娘が――」
「違う! 中学生、今、お前中学生って言ったのか?! うそだろ……? ……待て、おまえいくつだ?」
「じゅ、十四、です」
十四。ぼくは、三つ、いや、四つになるのかもしれない年下の娘に脅迫されていたのか。
ぼくのただならぬ様子に石動は眉を顰めた。
「……歳よりも、私は早く手を洗いたいです。〝彼女〟、すごくべたついていましたので」
「ああ、急だったのにわざわざ移動してもらって悪かったな。……でも、もう少し子どもらしい発言した方がいいぞ、お前」
「構いません。私は私が言いたいことを言っているだけです。……それよりも、服を」
服――彼女に着せている服のことだろう。ぼくが背負うまでには石動が身に着けていたものだ。
「いいけど、後でもいいだろう。今はべたついてるぞ」
「いいから、返してください。染みが抜けなくなるじゃないですか。それは私の少ない一張羅なんです」
そう言われては反論もしようもない。ぼくはいそいそと彼女の服を脱がせる。
思った通り、彼女の身体から移った虫がうぞうぞとはりついている。まだ幼い少女にとって触れたくもないはずだ。
自分の服の惨状に、石動は何とも形容のしようのない顔を表に現した。
「だから言っただろう。ぼくが洗って返すよ。お前の家だと洗いにくいだろう」
「……いいです。余計汚れます」
「ぼくが触れたら汚れるとでも言うつもりか、このガキ」
「――私が。私が貸すって言ったんです、善郎さん。あなたに貸せと言われて貸したわけじゃありません。だから、これは私の問題です。私の責任なんです。だから私が洗わなきゃいけないんです」
強情な娘だ。意地になって服にはりついているそれらを叩く石動に、ぼくは呆れて「勝手にしろ」とこの件は投げた。
ぼくは抱えている彼女を見る。骨が浮いて、肉が浅くなった彼女。日に日にその姿は変貌している。頬に触れれば、以前にあった軟らかな感触はない。押せば潰れる肉の感触だけだ。ぼくは愛おしげに彼女の頬を撫でた。
誰もが彼女を醜く思うだろう。だが、ぼくは彼女を見捨てるようなことはしない。誰もが理解できないと言うだろう。だが、ぼくはこれを愛と謳おう。彼女にはぼくだけだ。そして、ぼくには彼女だけだ。
先に何があるかはもうわかっている。だが、前に何もないとは思えない。ぼくは最後まで彼女を愛するし、彼女もぼくを愛している。どんなに恐ろしかろうと、ぼくは進むしかないのだ。
だから、今だけでも、ぼくは、彼女にこの愛を――。
――声が聞こえた。抑えてはいたが、間違いなく悲鳴だった。
石動ではない。無論、彼女であるはずもない。
だが、その声は間違いなくこの場にいる誰でもない、若い女の声だったことは確かだった。
(作者にとって)悪夢の二章終わりました。
ようやく楽しくなってきた。