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後編


 ぎらぎら太陽を、私は生まれてからこのかた見たことがない。そんなもの、ここには存在しない。

 季節は「夏」らしいが、そんな名称は彼が来るまで知らなかった。

 日々は神の名の下に定められた呼称で呼ばれ、いちいちややこしく、そんな簡単な単語で表せるものではなく。

 その単純明快さも、そして当然の様に四季を意識させる感覚も、彼の心に刻まれた愛すべき故郷の形のひとつなのだろう。


「……私まで引きずられてんじゃねーですよ」


 ついつい沈みこむ意識に苛立って、手にしていたゾーキンをぎゅうと握り締めた。

 ぎらぎら太陽なんて知らない。梅雨ってなんだ。湿度って、なに。痛いくらいの暑さなんて知らない。

 私の知らないを、知る彼は、本当はずっとずっと遠くにある人だ。

 迷走する思考に、歯を噛み締める。彼はもう、何も言っていないのに、私が余計な事ばかり考えてる。

 誰かが語る内容を、否定するのは簡単。理解不能。知らないと言えば良い。

 だから、今までそうしてきた。彼の語る事を覚えて話してきても、心の中で「分からない」と言えば事足りる。それでおしまい。

 でも、自分の考えを否定するのは難しい。常に人は自分の中にあるもので思考する。知っている言語で、知っているもので考えて考えて結論を求める。知っている事を知らないと嘘をつくのは無理だ。真実は自分が知っている。


「…………まだ、終わらねーです」


 ゾーキンを篭に仕舞うと、中庭に降りて箒を手にして、屋敷を振り仰いだ。

 いつからあるのか分からない古い屋敷。彼にはそう教えた。本当は百年前から建っている。これを造らせた人は、泣いていたと言う。出来上がった屋敷を目にして、泣き崩れたと言う。

 まだ夏だから少ししか落ちていない葉っぱを見つめる。秋が来ても赤く色付く木はない。徐々に枯れていくだけ。


「……っ」


 苛立ち紛れに箒で落ち葉を乱暴に掃き散らした。



 彼の日課に、日記がある。当初私には読めない字で書かれていたそれは、今は所々に私の知る字が混じっている。何故知っているかと言えば、私の前で堂々と書いているからだ。


「今日も私は可愛かったと書いて下さい」

「だが断る」


 ちぇー。

 手持ち無沙汰の私は彼の隣で、折り紙をしている。鶴と言う鳥の形に紙を折るのだが、これがなかなかに難しい。彼がお手本に折ってくれた鶴には程遠い。いつか、縁側で遊んだ時みたいに紙ヒコーキを折った方が楽しい気がする。いや、しかし、ここで諦めるのも悔しい。これがジレンマと言うやつか。

 何枚も何枚も折っていると、「センバヅル」を折るつもりかと言われた。センバヅルは快癒祈願の意味があるらしい。


「君の頭が良くなると良いね」

「馬鹿はびょーきじゃねーですよ」


 そう切り返したら笑われた。

 思い返すと、遠慮が無くなった彼は本当に無礼だ。昔はだんまりだったけど。

 万年筆の走る音が、折り紙の音が、部屋に静かに響く。

 夏の午後のひとときは、とても静かに過ぎていく。

 昔、彼が無表情で言った事がある。


 ーーここの夏は静かだね。何の音もしない。


 何の感情もこもらない声だった。

 昔は何とも思わなかったが、今それを言われたらこの折り鶴を全部ぶつける自信がある。

 移ろう。季節も月日も、感情も、全部移ろい続けていく。

 きっと、時間は止まらない。変わらないものがこの世に存在しないのは当たり前の事で。

 漠然とした予感に、手の中の折り鶴に夏が終わらない様に祈った。

 日記が増える。思い出が積み重なっていく。そのまま、増え続ければ良い。



 その昔、世界は、悲鳴を上げた。最初は小さな呻き声。啜り泣きは、やがて人々の耳にも届く様な大きなものに変わり、世界の苦痛はそのまま人々の苦痛へと変わった。

 衰退するのが運命なら、人々は受け入れたかもしれない。

 しかし、世界に訪れた崩壊は、人々の血肉を伴わねば成されないものだった。

 静かに終わるのなら、誰も抗わなかったかもしれない。

 阿鼻叫喚の、世界終焉の訪れに人々は恐怖し抗った。どんなに劣勢でも、生きようとし、確かに始まりの終焉は人々の戦いに満ちていたのだろう。

 しかし、迫り来る終わりの刻に人々は諦めかけた。ボロボロになって、心を折られて、神々に祈りを捧げて。

 そんな絶望に、希望は降り立ったのだ。

 何百年も前の、真実の伝説として。




 分かっていた。ちゃんと、分かっていた。可能性は、限りなく高く、ただ別の可能性もまだ存在していたから、このままでありたいと、私が願っていただけで。


「それ、なに」


 固い声が、私の口から出た。感情は荒れ狂っているのに、声は感情を削ぎ落とした平坦なものになった。

 夕食後の、いつも通りの団欒になるはずだった。

 彼は、私に取り繕う事もせずにいつも通りの表情で、座っている。私に顔を向けると、ちゃぶ台の上にあったそれを手にした。


「刀と言う俺の故郷の武器だよ」

「なんで、そんなもんがあるんだよ」


 乱暴な物言いになったのに、彼は注意しない。


「……行く事にしたんだ」


 血の気が引くとは、こう言う事か。目の前がよく見えない。頭がぐるぐる回る。何を言えば良いのか、分からない。喉がカラカラだ。

 三年。三年一緒に暮らした。まだ三年しか一緒にいない。

 今の今まで、何にも言わなかったくせに。

 青ざめていく私を、彼は「おいで」と、手招いた。ふらふらと近付くと、右手を取られて引き寄せられる。彼の胸元に倒れこむと、彼の手が私の頭を髪を鋤く様にして撫でる。いつも通りだ。いつも通りの彼だ。


「……なん、で、行く、ですか」


 今更だろう。彼がここに来てから三年だ。誰も彼に期待していないはず。もしかしたら、もう、別の誰かが……。誤魔化す為の思考は遮られた。


「行きたいと、思っちゃったから、かな」


 ゆっくり区切って、その話し方は私に言い聞かせる為のものだと思う。

 駄々っ子のつもりはない。ただ、彼の事だけが譲れないだけで。

 いつも聞こえていた風鈴の音が、聞こえない。昨日の夜に、彼が外したからだ。鶴に願ったところで何も変わらない。夏は終わった。


「ねえ、覚えてる?」

「なにがですか」

「君が……、そうだね、始めて俺達が話した時のこと」

「覚えてねーですよ」


 嘘だ。覚えてる。初めて言葉を交わした日。彼がここに来て、一週間経った日。

 凭れたままだった私は身体を動かして、ぴっとりと彼に抱き付いた。離れたくなかった。


「君に、聞いたよね? 勇者って何? って」


 聞かれた。あの時は、彼の事に興味が無かった。今みたいに、ゼロの距離に安らぎを覚える事もなくて、ただの同居人だった。


 ーーなにって、なんでもない。ふつうの人間ですよ。 ……納得いかねーって顔ですか。……うーん、そうですなー……ただ、守りたい誰かの為に勇者になる人じゃねーですか。


 何にも考えてなかった。でも一番しっくりきた答え。綺麗事で死地に行く人間なんて、いるのか。誰だって、自分の為にしか決断出来ない。


「しょうがないよね。守りたい人、出来ちゃったんだから」


 頭を撫でていた手が、私の背に回ってぎゅっと力がこめられた。掠れた息が私の喉から、漏れた。

 それは嗚咽に変わり、涙が止まらなくなる。



 諦めた人々が列を成し、葬列が行く。

 そんな光景が当たり前になった数百年前。世界は暗闇に閉ざされていた。魔物が、世界に溢れていた。

 世界は随分と前から疲弊していて、それに人々は気付いていなかった。世界は生きている。人間や動植物と同様に生きていた。しかし、永く生きれば生きる程、命とは磨り減っていくもの。弱れば病気になる。加速度を増して寿命を減らしていく。世界の病気が魔物である。魔物が溢れ、正しく世界を循環していた生命が消えていく。

 彼が言うには、正確な例えではないけれど、魔物がウィルスで、人間を始めとした生き物が自然治癒力の様なものだろうと。よく分からんが、そう言う事らしい。治癒力が負ければ、ウィルスは増え続けるだけ。

 そして、数百年前に治癒力は負け続けた。

 そこに現れたのが、特効薬と成りうる『勇者』だった。

 彼は、人々を率いて魔物に一歩も退く事なく戦い続け、やがて魔物を最果ての地へと追いやった。

 何事にも挫けず、絶望すら乗り越えて。

 天高く掲げた剣は折れず、盾を下げる事も無く。

 人々を嘆きの底から奮い起たせた。


 ーーその姿は、正に勇ましき者。


 最果てに追いやられた魔物は、しかし、時と共に再び勢力を増す。世界は、病んだままなのだ。

 何度も、勇者の名を冠する者が現れ、それらと戦い続けた。だが、屠るには至らなかった。人の住まない地に追いやるので精一杯だった。

 その人間の足掻きに、世界は何かを感じたのだろうか。

 稀に、強力な『特別な特効薬』を、世界の外から呼び込む様になったのだ。

 自然治癒でもない。ウィルスでもない。拮抗したそれらを打ち崩すもの。

 そして、『特別な特効薬』が投入された時と、平素の違いは明らかだった。魔物の回復が、劇的に遅い。

 人々は疲弊していた。いつかの時に戦い続けた闘争心は薄れ、『勇者』と言う楽を覚えた。勇者だってひとだ。ただ、希望を忘れない人間なだけで、特別な力がある訳ではない。心を奮い起たせ、未来を指し示し、統率する力に優れていただけ。

 そこに、『特別な特効薬』を投入されれば、人々はどう捉えるだろう。

 きっと、誰も、『特別な特効薬』が『異世界から来ただけの人間』とは考えなかった。

 最初に来た『特別な特効薬』は、体の良い『生け贄』にされたのだ。




「……腕の良い鍛冶職人なんだね。言った通りに再現してくれた」


 ちゃぶ台の上の刀をそっと撫でる彼に、私の中の荒れ狂う感情は治まりを見せない。涙はもう引っ込んだ。


「……センバヅル、あげましょうか」

「残念ながら、俺は馬鹿じゃないので、いらないよ」


 馬鹿だろう。真性の馬鹿だ。なんにもしなくて良いのに、何でそんな馬鹿な選択をしたくせに、何で、なんで、なんで。

 ずっと、呼吸が苦しい。

 無性にゾーキンが絞りたくなった。ゾーキンを絞ったら念入りに床を磨く。板間もしっかりやる。そうしてまたいつも通りの朝を迎えて、いつも通りに彼と過ごす。

 夏が終わったら秋だ。秋には月見がある。今年はお団子作りも真面目に手伝うし、今年だけでなくても彼が成人した後の秋にはお酒も用意する。風流らしい月見酒を楽しませてやりたい。冬だって、春だって、また夏が来れば、そうしたら。


「ーー」


 小さく彼が囁いた。それは、私の。


「あんまり、呼んだ事無かったね」


 照れの混じる、真っ直ぐな言葉に、私は何かを考える間もなく、彼の着物の袖をぎゅっと握り締めた。また、泣きそうだ。

 彼の着物からは、石鹸と太陽の香りがする。

 彼の片腕はしっかりと私の背中に回り、もう片方の腕は私の頭を抱える様に回っている。抱き込まれるとは、こう言う事かもしれない。彼の頬が私の頭に触れていた。


「……きっと、ね。抗うまでも無かったんだ」


 ぽつり、ぽつり、私の耳に彼の言葉が溶け込む様に落ちてくる。


「初めてここに連れられて来た時、正直、姑息な事するなーて思った」


 出会った初日。表情の無い彼を思い出す。作り物の曖昧な笑みも。


「調子の良い事言っといて、飼い殺す気満々じゃん、て。選択の自由なんて、始めから無かった」


 彼は、三年前のある日に突然この世界に与えられた。これは、こちら側の言い分。

 彼にしたら、拐かし。世界が選んで、連れて来た異世界の少年。

 見知らぬ人々に囲まれて、言葉は通じるものの言っている内容は理解出来ない。『選ばれた真の勇者』。そう口にした人もいたらしい。

 この世界に、彼が来た経緯は良く知らない。ただ、彼が自分の世界でどんな生活を送ってきたかは、この屋敷で暮らす姿と会話から学んだ。彼が、二つの世界の違いを指摘する事はほとんど無くて、彼は以前の生活と変わらない生活を送る事に腐心している様に見えた。

 予め用意されていた生活用品はともかく、この世界の食材も、彼の世界の名称で呼ぶ。

 頑なと称するにはあんまりだと思う程に、ひたすらに、ひたむきに、『異世界にいる自分』を認めなかった。郷愁も見せなかった。


 最初の一年間は、そうやって過ぎた。

 文字や本を読む努力を始めたのは二年目からだ。現実を受け入れた訳ではなかった様だが、彼の内面に何らかの変化が起こったのは確かである。


「俺は、憎むべきなのかもしれない」


 この屋敷に彼を連れて来たのはおっさんだったけど、命じたのは王だ。そして、独りぼっちだった私をここに連れて行くよう命じたのも、王。

 王は一人しかいない。国も一つきり。

 数百年前に、亡びる瀬戸際で残った唯一の国である。最初の勇者が生まれた国であり、彼の勇者は当時の王の親友であった。妻は王妹である。友の為、妻の為に剣を握った勇者。

 その親友たる王の子孫が、最初の真の勇者に王命と言う名の死を賜った。正体不明の異世界人などどうなっても良かったのだろう。新たな勇者の選出の手間が省けたくらいの感覚で、魔物の群れに放り込んだ。

 勇者の意味が加速度を増して歪められた始まりでもあった『真の勇者』は、死ぬ事なく凱旋した。大きな戦果を伴って。

 真の勇者は、世界の気紛れで招かれる。だから、滅多には現れない。

 初代勇者は、歴史上称賛され絶対的英雄視された。

 初代真の勇者は、行方をくらませた。その理由を尤もらしいものにするのに、王室はさぞかし苦慮した事だろう。

 世界は病み、王室は堕落し、民は目と耳を塞ぎ、勇者の姿は歪んでいく。


 初代真の勇者は失踪。二代目は丁重に迎え入れられて、王室の一員に。三代目はこの屋敷を建てさせ、隠遁した。

 百年の間を空けて、四代目。

 王は、四代目に言った。


 ーーそなたには、自由を。


 自分の故郷の面影を持つ屋敷に、四代目曰く金髪ビスクドールメイドと共に、限られた自由を与えられた。

 今代の王は、頭が回る様で。

 四代目を自由の名の元、縛り付けた。



「……君の髪は、サラサラで気持ち良いね」

「……髪くらい、いくらでも」


 掠れる声は、私の内心を物語っている。

 彼の手が、私の髪を一房指に絡めた。そんな所作が絵になるのが、少し憎たらしい。視界の隅で、彼の細い指がくるりと回る。細い細いと思っていたけど、節のある指が意外にがっしりしている事に気付いた。指が長いだけで、男の手なんだな、と。今更ながらに気付く。

 彼の唇から密やかな息が漏れる。笑ったのかもしれない。


「やっぱり、髪だけじゃ、嫌だよ」


 するり、髪が滑り落ちて、彼の手が私の後頭部に回る。再びきつく抱き締められる。


「ホント、姑息、だよね」


 それは私に向けられた言葉ではない。だけど、私も糾弾された気がした。私は、この世界の共犯者かもしれない。王の思惑通りだ。それが、嫌だ。


「あのね、俺だって気付くんだ。ーーきっと、それが狙いなんだろうけど」


 ギシリと、私の身体が硬く軋む。気付くとは。何に。


「食糧運搬の騎士、人数減ったよね。食糧、卵と肉類が最初に減って、今は野菜もギリギリなんじゃないかな」


 井戸水と家庭菜園があるから、まだ安心かな、と。彼は微かに笑った。

 彼は、この世界の情報を何も与えられなかった。自由を、なんて言いながら国に頼らねば生きられない様にして、牢獄の様な深い森に囲まれている彼にとっては慣れ親しんだニホン家屋に招いて、そして、彼に時間と共に悟らせようとした。

 この世界の終焉までの、時間制限を。

 彼は、知った。もう猶予が無い事を。

 彼がここで暮らしている間に、外ではたくさんの命が失われていて、数は少ないけれど戦っている人々がいる事を。


「このままだと、ここも、駄目なんだろうね」


 微かに震える手は、怯えているから。

 彼も、終焉が怖いのかと思った。淡々と語る声から、怯えは窺えないのに。そう思った時、震える腕に力が入って、それがまるで私の存在を確かめる様だと思って、彼が何を恐れているのかが分かった。私はきゅっと、唇を引き結び、また溢れそうな涙を堪える。本当に、思惑通りじゃねーですか。


「……このままが、いーですよ」

「うーん、はは……」


 私の絞り出した様な声は泣き声で、彼は困った様に私の言葉を拒否する。


「……本で、読んだんだけどさ、この世界には、黒髪も黒い目も、いないんだよね」

「…………黒茶ですよ、あなた」

「ははは、また言われた。そうだね。黒茶だ」


 こんな風に抱き合った事は無かったけれど、間近で見る彼の瞳孔はびっくりするくらい真っ黒で、明るい場所で覗くと瞳の色は茶色だった。きっと、誰も知らない。おっさんも、王も、仕立て屋も、彼を黒一色と称した人間は、誰も知らない。私だけの秘密。


「今までの『真の勇者』は、みんな『日本人』だったんだ。どうしてかは、分からないけれど」


 彼は、ゆったりとした口調で、区切りながら、変わらずに私に語り聞かせる。


「最初は、夢なんだろって思ってた。夢じゃなくても、いつか帰れるんだろうって。……でも、君を見てからはその考えが揺らいだ」


 不意に身体に回されていた腕は外されて、彼は私の頬を両手で包むと、ゆっくりと上げさせられた。私の瞳と彼の瞳が合う。とても、哀しげで切ない目で私を見ている。


「……俺は、帰れないんだな、て。気付いた。ここに来るまで、俺と同じ色の奴は一人も見なかった」


 一息置いて、溜め息の様に絞り出される声。


「君以外に、同じ色のひとはいなかった」


 彼はそう言って泣き笑いで、また私を引き寄せた。その顔を私に見せたくなかったのかもしれない。


 ーー私の肌の色も、髪の色も、顔立ちも、彼とは違う。だけど、目の色は彼と全く同じ。


 私の先祖は誰かは分からない。幼い頃には、この世界の唯一神とされる世界神の神殿の、孤児院にいたから。他の子ども達から隠されるみたいにして、別々に育てられてはいたけれど、あの頃はじいさんが迎えに来るまで疑問にも思ってなかった。

 じいさんは、私の先祖の可能性として高いのは初代真の勇者だろうと、これは内緒だぞと。そんな風に独り言みたいに言っていた。今思い返しても、変な爺だった。

 王が、私をあの屋敷に連れて行かせた理由は、初めは分からなかった。ずっと憶測しか無くて、監視以外の思惑に気付いたのは、つい最近の事だ。


 この、彼との生活が、当たり前になってからだった。


 彼の、私を見る目が優しい。頭を撫でる手が優しい。一緒に食べるご飯が美味しい。おはようと、おやすみが当たり前で、ありがとうとごめんなさいが言える様になって。

 私達が、互いを互いの一部と認識するくらいに近くなって。


 私が、彼の、足枷になった事に気付いた。


「同じ目なら、気を許すと思われたのかと思ってた。だから、初めは君に警戒していたんだけどね。……ほんっとーに、姑息で性根の腐ったくそ王だ」

「口汚ねーですが、許す」

「ありがとう」


 彼が笑う。見えてないけど、きっとちゃんと笑った。少し吹き出す様な笑いだった。

 王は、私と暮らさせる事で、彼から逃げ場を失わせた。自らの意思で、勇者として戦場に赴かせる為に。

 私は、真の勇者達がどうなったのか、伝承以外ではほとんど知らない。初代の失踪はじいさんが教えてくれた。だから、きっと、誰も自分の世界には帰れなかったんだと思う。

 その事を、私は考えない様にしてきた。私の目の前で楽しげに笑っていた彼を、哀れみの目で見たくなかったのだ。


「でも、もう、良いや」


 言葉とは違い、彼は諦めた風では無かった。色々なものを受け入れた。覚悟を決めた様に聞こえた。


「君が泣かない未来が来るなら、それで良い。……あ、いや、違うか。君と一緒に生きていける未来が来るなら、だね」

「それは、また、すごい、ころしもんく、です、な」


 堪えきれずにまた嗚咽が涙と一緒にこぼれ落ちていく。これは、のーかうんとで良いと思う。空気を読む彼の事だから、多分大丈夫。


 ーー私が泣かない未来と、言った。


 私と一緒に生きていける未来と、言った。

 彼は私が昔泣いた事を知っているんだと思う。

 じいさんが死んだ日、私は泣かなかった。じいさんが死んだ実感が無かった。

 変わり者のじいさんは、度々私に会いに来てた。よく分からん世間話をして、お菓子とか置いてって、爺のくせに大人しく隠居してないから、帰り道に魔物に襲われて死んだ。爺だったから、呆気なかった。医者の治療も間に合わなかった。

 死んだって聞いても、またひょっこり来る気がした。私がお菓子を食べただけで豪快に笑うじいさんの声が聞こえないのが、不思議だった。

 おっさんが彼を連れて来た時、じいさんが来たんだと思った。文句言ってやろうと思ったのに、じいさんじゃなかった。

 だから、やっと、じいさんが死んだんだって分かった。

 彼が来てから落ち着くのにしばらく掛かった。満月が綺麗な日の真夜中を選んで、庭の隅に石を積んだ。外に出られない私の自己満足の為の墓を作った。こんなに明るい夜なら老眼のじいさんにも見えると思ったし。

 あの夜、初めてじいさんの為に泣いた。よく笑うじいさんだったから、少しくらい付き合って笑えば良かったと、後悔した。

 その墓の前に時々花が供えられていたから、彼が知っているかもしれないとは分かっていたけど、その話はした事がない。

 じいさんがいなくなって孤独だった。それを和らげてくれて、楽しい毎日をくれたのは彼だ。


 ーーだから、勇者になんて、なって欲しくなかった。


 じいさんみたいに、いなくなって欲しくなかった。ずっと、一緒にいて欲しい。この世界の為に、死んで欲しくない。生きて欲しい。

 彼が勇者だって、一緒に暮らしていく内によく分かった。

 この世界の人間と違う。

 彼は当たり前に、感謝する。食べる事、食材に、作る人間に、一緒に食事する人間に。

 彼は、四季を楽しみ、移ろいに感情を動かす。年を取る以外に、年月を感じ取る。情緒と言うらしい。

 意識せずに、信仰もないのに、彼の折々の行動に感謝と祈りと生きていると言う実感がある。

 八百万の神と言う考えを持つ人種なんだと彼は言う。米の一粒にも神がいる、と。

 その尊さに、彼は気付かないのか。唯一の神に縛られず、生きる事全てで、自然界と世界と共存するその(とうと)さに。息をする様に当たり前に受け入れる途方もない内包力。

 彼は流されやすいだけだと言う。

 私は、『彼ら』はあるがままに受け入れるのだと、思う。心を、身体を傷付けられてもまた立ち上がって、過去を抱えてまた新しい日々を歩んで受け入れる。笑える様に、下を向かず空を見る。

 受け入れるから、そこに世界がつけこんだのだ。

 拐かされても、彼らは命を見捨てられない。守りたい唯一さえいれば、それだけで武器を取るのだ。

 優しくて、脆くて、強くて、ひとに愛を傾ける。そんなひとが、勇者になる。

 何よりも、人間らしいひとが、勇者なのだ。


「大丈夫。ここにちゃんと帰ってくる」

「……うそ、ついたら、針と、センバヅル、一万のます」

「怖いなあ。ーー飲まないけどね」

「あたりまえ、ですよ」


 流れやすいとか言っておきながら、私のお願いには少しも流されなかったのだから。


「来年は、また二人で縁側でスイカを食べようか」

「その、前に、柿もお蕎麦もお餅も三色団子も食べたい」

「それは……頑張らないとなあ」


 頑張らなくて良い。そうしたら、彼は死ぬ。

 頑張って欲しい。そうしたら、彼は心も身体も傷付く。命の保証もない。


 だから、私はどんな事があっても、彼を迎え入れて一緒に生きる。

 留守番中は、いつも通りにゾーキン掛けもして、庭を掃いて、洗濯して、菜園も世話をして、ニホン料理を作って、毎日毎日、泣くかもしれないけど、出来るだけしぇすたしない様にして、それで、それで。


 彼を幸せにする大人の女になりたい。


「縁側に、行こうか」


 私の返事も待たずに立ち上がると、彼に手を取られて縁側で二人並んで座った。

 鬱蒼と生い茂る大樹の森は、夜の闇に紛れていて、ぽっかり開いた様に存在する夜空には、星々と満月にはまだ遠い月が浮かんでいる。

 彼の手と私の手がしっかりと繋がっていて。

 彼は夜空を見上げた後、私の方を向いた。今まで見たことの無かった年よりも幼い笑顔を浮かべている。


「また、ここで」


 繋がっていた手を持ち上げて、彼の小指と私の小指が絡められる。それは、彼に習った約束の証。


「二人で、約束」

「…………や、ぶったら、針じゅうまんに、ふやす」

「うん」


 泣かない様に堪えて必死に言う私に、彼は子どもの様に頷いた。

 手を繋ぎ直すと、泣きたくないから空を見上げて、彼も一緒に空を見上げた。

 本当は泣きたいだろう彼は、それでも泣かないのは分かってた。泣けないんじゃなくて泣かない。男は格好つけたい生き物だと言ってた。

 少し冷たい風が吹く。私達のさっきまでの激情も幾分落ち着いた。空気が和らぐ。


「……約束が縁側とか、所帯染みてますなー」


 ぽつりと、いつものつもりで言った事に、無意識とは言え自分自身驚いた。あれ、なんか、あれ。


「良いんじゃないかな。だって、俺達、夫婦、みたい、だし……」


 尻切れとんぼの彼の台詞に、私は思わず彼を見た。彼は私の反対方向を向いていたが、迂闊にも首まで真っ赤である。大変珍しい光景だ。少し照れた事はあっても、これはなかった。天変地異の前触れの様に大変珍しい。あ、だめだ。天変地異は時期的にあうとだ。天変地異無し。


「自分で言って、照れるとかー、思春期かよですよー」

「い、良いの! 思春期に、思春期やれなかったんだし! 今が思春期で、無問題!」

「も、もうま……?」

「良いから、ほんと、良いから。思春期のガラスのハート、舐めたら駄目だから……っ」


 思春期のがらすのはーと……、何となく甘い様な酸っぱい様な味がしそう。せいしゅんの味だろうか。


「よ! せいしゅんしてますな!」

「……意味分かって言ってるから、たち悪いよ」


 正確には意味が分かってないけど、使いどころが分かってる。成る程。これはたちが悪い。

 手を繋いだまま、空いてる手の方で頬杖をついて、拗ねた様にそっぽを向いたままの彼を、私は何も言わずに見つめた。普段は見られない姿をちゃんと見ておきたい。

 不意に彼の視線が私の方に向けられ、頬はまだ赤みが残ったままだけど、彼の目が柔和に細められた。


「ーー君が、俺の帰る場所なんだから、ちゃんと良い子で待ってて」

「ーーーーーーっ!」


 こ、声が。声が違う。普段より幾分低めの声と言うか、大人っぽいと言うか、何と言ったら良いのか分からない。きっと、これが大人の色気とか、そう言う物に違いない。

 十三歳に十八歳が本気を出してどうするんだろう。思春期どこ行った。これじゃあまるで、私の方が。


「顔、真っ赤だよ」

「み、見せもんじゃねーですよ!」


 羞恥に悶えたくとも、手を繋いでたら出来ない。確信犯か。からかった私への制裁か。

 彼は楽しそうに、声に出して笑った。私はむっとしながら、安心した。嬉しかった。いつも通りの二人で、「いってらっしゃい」と「行ってきます」が出来たら、その先にいつも通りの未来が待ってる気がした。


 世界は知らない。私達のこの日々を。

 神は知らない。私達の繋いだ手を。

 みんな知らない。この屋敷にいる二人の想いを。




 ーー縁側に居た勇者さまと私の、小さな小さな幸福の日々は、きっと終わらない。



【アトガキ】


少女と青年の恋愛を匂わせつつ、家族愛の様な、お互いが特別な二人を書きたくて、書いたお話でした。

本当はもう少し勇者の、捨てられない郷愁や、少女への愛情や、理不尽に対する葛藤を書こうとしたんですが、止めてしまいました。

日本の夏!それを異世界で!なお話なので夏の間に更新だー!と、8月に入ってからチマチマ書いていた結果、書き直し含めての諸々で今になりました。


しっかし、さっむいですね!秋ですか!まだ8月ですよ!残暑が厳しいらしいですね!マジですか!

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