5 道標
「何故あやつらを逃がしたのだ、蒼穹よ」
「敵国の者だと気付かなかったからはいえ、若い方の兵士はあなたと僕を助けようとしてくれました。あなたの腹は納まらないかもしれませんが、そんな人まで殺してしまいたくはなかったのです」
斥候の落としていったランプが暗い森の中を仄かに照らしている。森の一画、少年とアルトゥナの傍の地面は草の一本も残らず不自然に禿げあがっていた。アルトゥナが放った魔術の一撃が草木を焼き切り、消滅させたのだ。少年が彼女の魔術に介入しその軌道を逸らさなければ、敵国の兵士もろとも消し去っていたことだろう。
そうか、と言いながらも少し不満げな様子だったが、その表情はすぐににやりと不敵な笑い顔に変わった。
「まぁよい。我が勝ったのだからな」
腕の怪我の応急処置を受けながら、アルトゥナはそんなことを口にした。
「相手は逃げ帰りましたし、確かにあなたの勝ちで間違いはないと思います」
「そうではない、お前に勝ったのだ」
少年はアルトゥナの腕に包帯代わりの布を巻き付けながら首を傾げた。負けた記憶どころか、勝負をしていた記憶もない。
「お前を驚かせ、慌てふためかせてやった。故に何やら勝った気分なのだ」
先程の自分の取り乱しようを思い出し、少年は視線を逸らして顔を赤らめた。
「お見苦しい、ところを……」
「お前があんなにも驚く姿は初めて見た。お前の眼には我が助けに入る姿が視えていなかったのか?」
「あ……」
言われてみて初めて気が付いた。今回の事件の中、先世視の眼が役に立つことはほとんどなかった。
目の前の危機に向き合うのに精一杯で、未来を『視ようとする』ことを無意識に怠っていたのだ。
出来ないのではない。『視ようとしない』ことを今までやろうとしてこなかったのだ。
「やれば出来るではないか。ふふん、やはり我の言った通りではないか」
アルトゥナは得意げに鼻を鳴らしたが、少年は対照的に暗く沈んだ声を発した。
「しかし……やはり僕は恐ろしい。あなたが傷付く未来が視えなかった。眼を閉ざした結果、僕の知らない所であなたが血を流すことになったらと思うと、とても……」
見境なく視える未来が恐ろしい。けれど、全てが視えなくなってしまうことも想像すると恐ろしかった。
「暗闇が恐ろしいと言うのか? 本当に面倒な奴だな」
呆れたようにそう言って、アルトゥナは何事か考え始めた。思案にふけっている間に少年は手当てを終え、体ひとつ分距離を取ると跪いた。
「何をしている?」
「僕は、あなたに刃を向けました。許されることではありません。どうか首をはねるなり、あなたのお気の済むようにしてください」
これには露骨に呆れた顔になった。
「お前はまたそのようなことを……」
「僕の命では贖えませんか?」
「だから我にはそのような趣味はないと言うに……ああ、お前の命が不要とかそういうことを言うておるのではないぞ?」
同じような内容で揉めたことを思い出し、一言付け足した。
「確かに我の意に沿わぬ行動ではあったが、あれは我を守ろうとしてのことであったのだろう? 首をとる程ではない。しかし二度同じことは許さぬ。自らの命を投げうつようなことも、目玉を抉るようなことも禁止だ。我は生きたお前に嵌っておる眼が好きなのだ」
不意打ちの言葉に、跪いたまま耳まで赤くなるのを堪えることは出来なかった。
「そういえば、お前は我らが花と同じに視えるのだと言うておったな。あれはどういう意味だ? まさか女を口説く甘ったるい言葉の類ではあるまい」
確かに花を引き合いに出すなど、口説き文句と取れなくもない。頭に昇った血を振り落とそうとするかのように勢いよく首を振ったが、実際は益々顔を赤くさせてしまっただけだった。
「ち、違います。……いつだったか、僕はあなたに花の役割についてお話しましたよね?」
「種は花を咲かせるのが役割、人にもそれぞれ天に与えられた役割がある……とか何とかいう話だったか?」
それはかつてアルトゥナが「つまらない」と一蹴した話だった。
「はい……花を咲かせ、枯れる。栄えて、衰える。花も人も、僕には同じように思えるのです」
「それを視続けねばならぬのが辛いと?」
「辛いことに違いはありません。ですが……それだけではないのです。僕はずっと、それを視続けてきた。だけどひとつだけ、視えないものがあるのです」
数え切れない程の栄えと衰えを視続けてきた。それにも拘らず、いくら未来を視続けても一向に視えてこないものがあった。
「……僕の『死』……それだけが視えないのです。皆、花を咲かせて散っていくというのに、僕だけが時間に取り残される。僕だけが、終わりの視えない生の中で役割を果たし続けなければならない……それが辛く、恐ろしいのです」
「成程。永遠に等しい生の中で未来を視続けるのは辛い、しかし己の役割――生きる意味を失ってしまうのも恐ろしいと、お前はそう言うのだな?」
少年は無言で頷く。アルトゥナは布の巻かれた腕を組み、何事か考え始めた。おそらくは先程の思案の続きだろう。既にある程度考えが纏まっていたのか、組まれた腕はすぐに解かれた。
「よし解った。ならばその眼をほんの少しだけ開いておけ。全て閉じよとは言わん。暗闇が恐ろしいと言うのなら、足りぬ分は我が照らしてやろう」
腰に手を当てての絶大な自信を纏った言葉であったが、意味を飲み込めず少年は首を傾げた。
「生きる意味など我が幾らでも与えてやる。我がお前を導いてやろうと言っておるのだ」
あまりにも尊大な物言いに、さすがに呆れた顔を隠すことは出来なかった。
「なんだその顔は。不満か?」
「不満ではありませんが……あなたは、御自身が神であるかのような物言いをするのですね」
「我の言動が神に似ているかどうかなど、我には判らぬ」
「……あなたは、神を信じてはいないのですか?」
人間も、先程『魔族』となったばかりの自分たちも信仰する神は同じだ。しかし魔族の中には神の存在を否定する者も多い。虐げられ、神に救いを求めた結果、救われることのなかった歴史を持つためである。自由を勝ち取ったのはあくまでヒトの力であったと考えている者は多い。アルトゥナもその類の考えの持ち主なのかもしれなかった。
「信じていない訳ではない。その存在の有無を知らぬだけだ。見たことも食したこともないからな。我よりも永く生きているお前は、それを知っておるのか?」
神を食べたことのある人物は神の有無を知る者よりも稀な存在だろう、というツッコミは飲み込んだ。
「……いいえ……」
「知りもせずに『天から与えられた役割』などとぬかして神を信じ続けていたのか。存在の不確かなものを信じ続けるのは、我には不毛なことに思えるぞ」
自分の信じ続けていた道を不毛と評価され、少年は少なからず落ち込んだ。
「不毛であると言うのなら……僕は……僕は、どうすればいいのでしょうか……?」
「ふむ。我が導くと言った手前、他の道を示さぬ訳にもいかぬな」
少年の落ち込みを察し、アルトゥナは束の間真剣な顔で示すべき道を模索した。
「そうだな、では……お前は、お前の望む神を創り出すといい」
「僕が……創る?」
神を創る。見えないものを信じ続けるよりも、途方もなく不確かな話に思えた。
「人中の神。お前が真に信じられると思えるものを、ヒトの中から見出すのだ。まずはそれを一つ目の指標とせよ。解ったな?」
「ど……努力します」
「うむ、よし。無論、我を神と崇めるのもよいのだぞ?」
「……考えておきます……」
曖昧に返され、期待に満ち満ちた顔は少し不満そうな顔に変わった。
「しかし、僕たちの口約束だけで先世視の法を封じてしまっていいのでしょうか……?」
「我が許す! ……と言いたいところだが、確かに大臣共がうるさくなりそうだなぁ」
先世視の眼を完全に閉じるつもりはないが、もうこれ以上国のための未来視はやめるつもりだ。しかし建国の基盤となり国を支え続けてきたとも言える先世視の法を突然禁ずることは、混乱を招くことに繋がりかねない。
「奴らを納得させるために何か代わりとなる法を編み出すべきか? ……よし蒼穹、考えよ」
「えっ」
僕がですか、と言いたげな目でアルトゥナを見返す。
「これも指標の一つだ。生きる意味は多いに越したことはなかろう? これから幾らでも増やしてやるぞ。ふっふっふっ、楽に生きられると思うなよ?」
アルトゥナは実に『魔王』らしく、邪悪に笑って見せた。彼女に進むべき道を問うたのは早まったかもしれない。
先世視の眼を使うまでもなく、少年にはこの魔王に振り回され散々に苦労させられる未来が視えた気がした。




