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第二十五話 東街道誘引作戦

 まだ夜の色が残る頃、ベルグラードの東門には一台の荷馬車が止まっていた。


 荷台には酒樽が六つ。


 麻袋が四つ。


 見た目は、ごく普通の商隊だった。


 だが、その荷の半分は空だった。


「準備はできています。」


 兵士が小声で報告する。


 ガイウスは荷台を一瞥し、静かに頷いた。


「無理はするな。」


「危なくなれば荷を捨てて逃げろ。」


 御者役の兵士が笑う。


「隊長、それじゃ商人に怒られます。」


「命より高い荷はない。」


 短い会話だった。


 それでも、兵士たちの表情から緊張が少しだけ消える。


 アスターは馬車の車輪を見ていた。


 昨夜、鍛冶屋が取り付け直した新品の輪金が朝日に鈍く光っている。


「気になりますか。」


 職人が尋ねた。


「いいえ。」


 アスターは首を振る。


「安心しました。」


 職人は少し驚いた顔をした。


「また壊されるかもしれねえぞ。」


「そうかもしれません。」


 アスターは車輪から目を離さない。


「ですが、壊れても直せる人がいる。」


「それを知れたことが収穫です。」


 職人は照れくさそうに鼻を鳴らした。


「妙な調査官だ。」


 東門がゆっくりと開く。


 冷たい朝の風が街へ流れ込んだ。


 荷馬車が軋みながら動き出す。


 見送る者はいない。


 誰もが、いつもの商隊だと思っている。


 だからこそ、この作戦は成立する。


 ガイウスは城壁の上から街道を見つめた。


「兵の配置は。」


「予定どおりです。」


「森の西側に三名。」


「丘に二名。」


「橋の手前に四名。」


 報告を聞き終え、ガイウスはアスターへ目を向ける。


「最後に確認する。」


「敵が現れなかったら。」


 アスターは即座に答えなかった。


 街道の先には、朝霧がゆっくりと流れている。


「それでも前進です。」


「敵は現れなくても、何かを選びます。」


「その選択が、私たちの情報になります。」


 ガイウスは静かに息を吐いた。


「答えより、敵の判断を見る……か。」


 アスターは頷く。


「はい。」


「今日は勝つ日ではありません。」


「明日以降、勝つための日です。」


 荷馬車は東街道を進み、やがて朝霧の中へ姿を消した。


 ベルグラードには、再び静けさが戻る。


 だが、その静けさは、嵐の前だけに訪れるものだった。


 朝霧は昼になっても晴れなかった。


 荷馬車は一定の速度で東街道を進む。


 御者役の兵士は手綱を握り直した。


 鳥の声が途絶える。


 その変化に、兵士は小さく息をのんだ。


 風が止む。


 森の奥で枝が揺れた。


 ――来る。


 そう思った瞬間だった。


 一本の矢が荷馬車の前へ突き刺さる。


 馬が驚き、足を止めた。


「止まれ。」


 森の奥から低い声が響く。


 姿は見えない。


 声だけが木々の間を渡る。


 兵士は慌てて荷を守るように立つ。


「積み荷を置いて行け。」


 再び声がした。


 だが、誰も姿を現さない。


 御者役の兵士は予定どおり時間を稼ぐ。


「待ってくれ!」


「商売なんだ!」


 返事はない。


 代わりに、二本目の矢が荷台へ突き刺さった。


 森の中。


 ガイウスは兵士たちへ手を上げる。


 まだ動くな。


 その合図だった。


 敵の数が分からない。


 位置も読めない。


 ここで飛び出せば、こちらが不利になる。


 その隣で、アスターは森を見つめていた。


 矢は脅しだ。


 当てるつもりなら、最初から御者を狙っている。


 敵も時間を使っている。


「……隊長。」


 アスターが静かに口を開く。


「もう十分です。」


 ガイウスは頷いた。


 右手を振る。


 その瞬間、伏せていた兵士たちが一斉に飛び出した。


「守備隊だ!」


「武器を捨てろ!」


 森に怒号が響く。


 しかし返ってきたのは、人影ではなかった。


 乾いた音。


 木々の間から丸太が転がり落ちる。


「伏せろ!」


 ガイウスの叫びと同時に、兵士たちが地面へ身を伏せた。


 丸太は街道を塞ぎ、大きな土煙を巻き上げる。


 視界が白く染まる。


「隊長!」


「追うな!」


 ガイウスは即座に命じた。


 土煙の向こうへ飛び込めば、伏兵がいるかもしれない。


 やがて煙が晴れる。


 街道には誰もいなかった。


 残されていたのは一本の矢だけだった。


 アスターはその矢を拾い上げる。


 矢羽の色は、森で見つけたものと同じ。


 だが、矢柄には新たな印が刻まれていた。


 三本線。


 小さな傷のような印だった。


「昨日の傷……。」


 アスターは森で見た木の幹を思い出す。


 同じ形だ。


 敵は偶然その印を使っていたのではない。


 仲間同士の目印として使っている。


 ガイウスが街道を見回す。


「逃がしたな。」


 アスターは首を振った。


「いいえ。」


 矢を静かに握る。


「敵は、自分たちの情報を一つ残しました。」


 ガイウスは苦笑する。


「お前は負けても拾う。」


「勝った時より、負けた時の方が多く学べます。」


 夕日が東街道を赤く染める。


 荷馬車は無事だった。


 兵士にも死傷者はいない。


 敵も捕まらなかった。


 それでも、この日はベルグラードにとって半年ぶりに「襲われても荷を守れた日」となった。


 小さな勝利だった。


 だが、その小さな一歩が、止まっていた街の時間を再び動かし始めていた。

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