閑話:スーさんと寝取られ
こぼれ落ちる汗を拭い、目の前にあるバイクのネジを締める。
バイクが好きだからとこの業界に入ってそれなりの時間が経った。
相変わらず俺はこうやって街の小さなバイク屋で、今日もバイクを弄っている。
「おーい。武! ちょっと休憩にしようや」
「はい、おやっさん!」
おやっさんが渡してくれた麦茶を一気に飲み干しながら、今までの事をふと振り返る。
バイク屋の店主であるおやっさんの所で修行を積んでそれなりに時間が経った。
もう歳も21になる。手に職……と言えるほどには経験も積んだ。
中卒の俺を拾ってここまで育ててくれたおやっさんには感謝の念が付きない。
「そういやお前さん。ここに来て何年になる?」
「もうかれこれ5年目っすかね? 結構長いっす」
そんな考えがおやっさんにも移ったのだろうか? おやっさんからの質問はちょうど俺が考えていた事と一緒だった。
なんだかその阿吽の呼吸が気持ち悪くもあり、どこかむず痒くもある。
入りたての時はこの呼吸が分からずどやされた物だ、そう考えると俺も案外捨てたものじゃないらしい。
誰にも気づかれずに、心のなかで自画自賛する。おやっさんも同じ考えか? そうだったら流石に気持ち悪い。
だが、次におやっさんが放った言葉は、俺の予想しないものだった。
「そぉかー。んじゃあお前もそろそろバイクの声が聞えるかも知れねぇな?」
「へ? バイクの声? バイクの調子なら音聞いただけで分かりますよ?」
突然不思議な事を言い出すおやっさん。
俺もその言葉に目を丸くする。
長年バイクを弄っていると、そのエンジン音だけで調子の善し悪しが分かるようになる。これは経験さえ積めば誰でも得ることができる一種の職業病みたいなものなんだが……。
おやっさんはその事を言っているのだろうか? だとすれば半人前扱いも良いところだ。普段おやっさんには頭の上がらない俺ではあるが、流石にこの時ばかりは少しだけ語気を荒らげる。
「いや。そういうんじゃねぇんだわ……。んー、じゃあお前。スーさんいじってみるか?」
「えっと……たしか羽田君所のバイクでしたっけ? 高校生の」
……どういう事だろうか?
普段からはっきりした物言いをするおやっさんにしては珍しく、その言い方は曖昧だ。
スーさん……。高校生になる羽田君が名づけたその愛車は、修理の依頼があってもおやっさんが俺に絶対触らせない物の一つだ。
同じように触らせてもらえない他のバイク――大抵はプレミア付きだったり古い車種で癖が強い物だったりするのとは違い、そのバイクは至って普通の車種だ。流通量も多く、発売もそれほど古くない。
今まで頑なに触らせなかったそれを今になって任せるとは……。どういった風の吹き回しだろうか?
「そうだ。最近調子悪いってんで修理依頼されてるんだわ。お前、あれ直してみろ。多分そんなに面倒な所が悪くなってる訳じゃないはずだ」
「わかりましたけど……、珍しいっすね。おやっさん、あのバイクだけは何があっても触らせてくれなかったでしょう?」
「お前も一人前になりたかったらいろいろ経験しておく方がいいと思ってよ」
湧いた質問をそのままぶつける。おやっさんは周りくどい言い方より直球の方が好む為だ。
だが、その答えもおおよそ納得のいかない物であった。
そして俺が質問を重ねるより早く、おやっさんはもう言うことが無いとばかりに作業場の奥へと引っ込んでしまう。
「……? わかりました」
……一体どうしたと言うのだろうか? 俺は首を傾げながらも、とりあえずおやっさんに向け返事をした。
◇ ◇ ◇
何度も繰り返し、身体が覚えた動作でパーツを分解し、異常を確認する。
スーさんと呼ばれるバイクは、羽田君がバイクに名前をつけるほど愛着を持たれている。そして、まるでその事を体現するかの様に大切に扱われていた。
「丁寧に乗ってもらってるんだなお前……」
パーツのネジを緩めながら、自然とそんな言葉が出てしまう。
最近は昔と違ってバイクの基本的なメンテナンスすら出来ていないユーザーが非常に多くなった。
調子が悪いと持ってくる際も、大抵は日頃のケアで防げる問題ばかりで、酷い時なんてエンジンオイルを購入当時より替えていないとか言い出す輩までいる始末だ。
……俺が若い頃なんて、暇さえあったらバイクを弄っていたのになぁ。
思わずそんな年寄り臭い事すら考えてしまう。そんな時代だ、羽田君の様に丁寧にバイクを扱う人は自ずと好感が持てた。
「よしっ! こんな所か?」
パーツを全て組み上げ、確認の為エンジンを入れる。
小気味良い駆動音が辺りに大きく鳴り渡る。修理完了だ。
今回の問題はおやっさんが言ったとおりに大したことが無く、消耗パーツの交換だけで事足りた。
これもひとえに羽田君が日頃のメンテナンスを怠っていない事と、何より異変を感じてすぐさま持ってきたお陰であろう。
俺はエンジン音――バイクの声? を聞き、問題がない事を確認するとエンジンを切る。そして改めてその全体を眺めた。
「――しっかし、別に普通のバイクだよな?」
そう。スーさんと名付けられ大切に扱われているものの、これは普通のアメリカンタイプのバイクだ。
おやっさんはこのバイクに何か思い入れがある様子ではあったが、俺には全く理解ができなかった。
そのまま暫く眺める。おやっさんはこのバイクを通して、何を見ているのだろうか?
「本当にオーナーに愛されて、大切に使われてるバイクってのはな。いつか命を持つんだよ」
「おやっさん……」
ふと気が付くと、おやっさんが背後に立っている。おやっさんが見ているのはスーさんだ……。
「そうするとな、どうなると思う? おもしれぇぜ――バイクがな、喋るんだよ」
「はぁ……」
俺が何かを言おうとする前に、おやっさんはそう呟く。思わず気のない返事が出た。
おやっさんが見つめる先は相変わらずスーさんで、けどその瞳は慈愛が篭っており、まるで子や孫でも見るかのようだ。
「そういったバイクはな、普通のよりも人一倍気を使う。……なんせ生きてるからな。ちょっとした事でへそを曲げる事もある」
「いやぁ、俺もバイクは好きでこの道に入りましたけど。流石にそれはどうかと思いますよ? あくまでバイクはバイクだと思ってます」
まさかおやっさんはこのバイクがそうだとでも言うのだろうか?
おやっさんはバイク一筋の人だ、今までこの人がバイクに関して間違ったことを言った試しはないのだが……。
でも今回ばかりは流石に同意できない。あまりにも荒唐無稽な話だからだ。
と言うか、俺もおやっさんがこんな事を信じる人だとは思っていもいなかった。意外とこの人は信心深い人なのだろうか?
「ふふふ、昔は俺もそう思ってたんだがな」
「おやっさん。そういうの信じる人だったんですね。俺はどっちかと言うと幽霊とか魂とかって否定派なんで」
「まぁ、お前もいつか聞こえるようになるさ……」
「はぁ……」
本日二度目になる気のない返事。
もう一度、スーさんと名付けられたこの何の変哲もないバイクを眺める。
……やっぱり、普通のバイクだった。
「すいませーん!」
作業場の入り口より元気よい掛け声がかかったのは、その時だった。
「あ、毎度っす! 羽田君!」
羽田悟君。件のバイク、スーさんのオーナーだ。
俺は彼にお辞儀して挨拶すると、修理の終わったスーさんを引き渡すべく作業場より移動させる。
「僕のスーさんはどうでしたか!? 寂しがってませんでしたか?」
「ははは、大丈夫だったぜ。ちょうど今、武が仕上げた所だ。悪い所も大した事なかったから安心しな」
「いやー、良かった! スーさんがお腹痛いって言った時はどうなるかと思いましたよ! あ、お代はいくらです?」
悟君の言葉に、嬉しそうに返事をするおやっさん。
気難しいおやっさんではあるが、意外と羽田君と仲が良かった。二人は俺がスーさんを移動させている間も何やら会話を続けている。
「羽田君。バイク出しておきました、これがキーになります」
羽田君にバイクのキーを渡す。彼は嬉しそうにそれを受け取ると、早速バイクに跨りエンジンをかけようとする。
「どうも武さん! では、おやっさんもありがとうございました! さぁ、スーさん帰ろ――あれ?」
「え?」
羽田君がセルモーターを回す。だが、不思議な事にバイクはうんともすんとも言わなかった。
先ほどまであれ程軽快にエンジンを鳴り響かせていたにも関わらず、途端に不調になってしまったその様子に俺も驚きの声をあげる。
羽田君は慌ててキックスターター――エンジン横に付いているエンジン始動用のペダルの方を踏み込む、だが変わらず沈黙が続くだけだ。
どういう事だ? 問題の箇所はしっかり直したはずだ。それとも、気付かない所で何か不具合があったのか?
「す、スーさん? どうしたんだい!?」
「さっきまでは機嫌よくかかっていたのに……」
羽田君も驚いている。それどころか、どこか慌てた様子でバイクのタンクを撫でている。まるでそのバイクが生きていており、その様子心配しているかの様だ。
「そ、そんな……。嘘だろ、嘘だと言ってくれよスーさん……」
大げさな態度でバイクが動かない事の悲しみを表している羽田君に近づき、バイクの状態を確認する。
羽田君はこのままだと安い昼ドラの様な別れを演じる勢いだ。流石に店前でそれをされると迷惑極まりない。
「羽田君、ちょっと貸してもらって――」
「――駄目です!」
「え!?」
少し調子を見ようとバイクに触れた瞬間だった。
羽田君はものすごい形相で突然怒りだすと、俺をバイクから引き離すように押しのけた。
「原因はわかっています。貴方にスーさんを触らせる訳にはいけません!」
「へ!? え? えっと……どういう――」
突然の変貌に戸惑う。何か気づかない所でポカをやっていたのだろうか?
「くそ、こんな事なら自分で修理すればよかった……」
「は、羽田君……?」
羽田君は俯きながら震えている。その様子は怒りよりも絶望が表れており、危険なものすら感じさせる。
彼がどれだけバイクを大切にしているかは俺もよく知っている。彼がバイクの不調に激怒し、怒りに身を任せて何かをしでかすんじゃないかとヒヤヒヤする。
「スーさんが、僕のスーさんが……」
「お、落ち着いて!」
宥めるように彼に語りかける、助けを求めて視線を向けたおやっさんは腕を組んで何かを考えている様子だ。
そして、ついに羽田君が爆発する。
「スーさんが寝取られるなんて!!」
「……ん?」
よく聞こえなかった。
……と言うより、意味が分からなかった。あんまり分かりたくもなかった。
「確かに、確かに武さんはイケメンだよ! ワイルド感もあってカッコイイよ! でもあんまりじゃないかいスーさん! 僕と君との間で長年育んできた関係は何だったんだい!?」
「えっと……」
羽田君は突然大声で叫び出したかと思うと、一転バイクに向き直ってエアトークを始める。
……なるほど。羽田君はちょっと、いわゆる、その、アレな子だったのか。
「そんな! そりゃ確かに最近は新妻さんやのじゃーさん、それにことりちゃんと一緒に遊んでるよ! でもそれはスーさんを蔑ろにしている訳じゃないんだ!」
「…………」
「確かに坩堝ちゃんは改造したけど! でも、スーさんだってちょこちょこいじってるじゃないか! いっつも洗車だってやってるのに!」
知らない名前が沢山出てきた。羽田君の中ではどういう設定になっているのだろうか?
もしかしたら、恋愛ゲームに出てくる主人公の様な、他人から見ると少し嬉しい修羅場を体験しているのかもしれない。
もっとも、改造やら何やら物騒な言葉と、明らかに日本人じゃ……それこそ人間ではなさそうな名前がでてくる辺り、一般的な修羅場とは違いそうだが……。
「そ、そんな事ないよ! 僕にはスーさんしかいないよ! ちょ、ちょっと待って! 何を言ってるんだい!? そんなにイケメンがいいのかい!」
エアトークは段々勢いを増してくる。道行く人々が何事かと奇異の視線を向けきていた。
羽田君……止めてくれ。
「分かったよ! そこまで言うならイケメンと宜しくやるがいいさ! 思う存分、キックスターターを踏まれるといいさ! フルスロットにされてタコメーター振り切るがいいさ!」
一転僕の方へと振り向いて大げさな動作でバイクを指さす羽田君。
おい、なんで俺の方を向くんだ。俺を巻き込まないでくれ……。
「さぁ! 武さん! この浮気者のペダルをおもいっきりキックしてやって下さい!」
マジか、よくわからないが俺が間男なのか? そういう設定なのか? 理不尽だなオイ。
「あ、ああ……じゃあ」
羽田君のバイクに近づき、そのハンドルに手をかける。
どちらにしろ浮気者? ――バイクの調子は確認しないといけない。
何やら強烈な視線を感じながら、バイクに跨り、キックスターターを踏み込もうとして。
「……やっぱりダメだぁぁあああ!!」
「うわっ!?」
唐突に弾き飛ばされる。たたらを踏みながらその相手を見る。
もちろんそれは羽田君だ……、もう嫌だこの子。
「スーさん! 僕が、僕が悪かったよ! やり直そう! もう一度やり直そう! 心を入れ替えるよ! もうスーさんしか見ない、ってか四輪とか絶対乗らない! 他のバイクも……自転車にすら乗らないよ!!」
羽田君はやっぱりバイクとやり直したかったらしい。
タンクにすがり付きながら今にも泣き出しそうな勢いで許しを乞うている。
ってかタンクに頬ずりするのはどうかと思うんだが……。
「スーさんしかいないんだ! スーさん無しでは生きていけないんだ! この通り! この通りだよ!」
「うひぃ……」
羽田君がタンクにキスをしだす。思わず情けない声が出た。
彼はタンクに愛の言葉を囁きながら、恍惚とした表情でキスを繰り返している。
これは完全にクスリをやっている人間の顔だ、俺には分かる。間違いない。
俺は慌てておやっさんに助けを求めるべく視線を向けるが、頼りになるはずのおやっさんは目をつぶって首を振るだけだ。
ダメだ、手遅れのサインだ……。
「ありがとう、ありがとうスーさん! 僕を許してくれるんだね! さぁ、じゃあエンジンをかけるよ、僕のキックで鳴いておくれ!」
羽田君が自らの愛車とエア仲直りをした。
やがて彼は満面の――気持ち悪い笑みを浮かべながらキックスターターを踏み込む。
そして……。
心地よいエンジン音と共に、そのエンジンが豪快に唸りを上げた。
「あれ……?」
さっきまでうんともすんとも言わなかったのに、何故だ?
「流石僕のスーさんだ! さぁ、帰ろう! そして帰ったら思う存分洗車してあげるよ! あっと、その前にカー用品店に行かないとね! スーさんにプレゼントだ!」
羽田君はご機嫌だ。
まるで仲直りしたのだからエンジンがかかるのが当然、と言わんばかりに自らの愛車に話しかけて――あ、またキスしやがった。
「やぁ、武さん! どうもお騒がせしました! おやっさんもありがとうございました! 二人は幸せになります! また何かあったらよろしくおねがいしますねー!」
唖然としながらも、彼がゆっくりと車道に出て行くのを見送る。
バイク屋として、先程までエンジンがかからなかった事が少し気になったが、何故かもう大丈夫だと感じさせる何かがあった。
強いて言うのなら、羽田君とバイクが仲直りしたから……。
――もうっ! 悟はワタシがいないと本当にダメなんだからっ!
「――えっ?」
その時、ふいに誰かの声が聞こえた。
驚き辺りを見回すが、もちろん俺達以外に近くに人は居なかった。
ましてや、女の人の声など……。
「おう、毎度ー」
「ありがとうございましたー……」
やがて遠く見えなくなる羽田君にお辞儀しながら、俺はこの短い時間にあった濃密な事件について思いを馳せる。
ふと気が付くと、満足そうに頷くおやっさんがすぐ隣にいた。
「……なんだったんすかね?」
「そっか、お前はいつもタイミング悪く休みだったな……。羽田君はスーさん引取りに来る時は毎回あんな感じだぞ?」
「毎回……すか?」
「この前は倦怠期の訪れとかなんとかで騒いでたなー」
羽田君の奇行が頭から離れない。
バイクが好きなのは良いことだが、ああなってしまってはもういろいろと駄目だろう……。
だがそれよりも、彼にはあのバイクがどう見えて、そして何が聞こえていたのだろうか?
その事が、少し気になった。
「……ねぇ、おやっさん」
「ん? 何だ?」
不思議な体験だった……。
バイクが生きている。そんな眉唾な話だけど、少しは信じてもいいかもしれない。
ほんの少しだけだが、そう思わせる出来事だった。
「バイクにもツンデレとかってあるんすかね……?」
「ん? なんでぃ。お前も聞こえてるんじゃねぇか」
「……はぁ」
カラカラと、おやっさんが心底嬉しそうに笑う。
世の中は、意外と科学では説明できない事であふれているのかもしれない。
そう思いながら、俺は本日何度か目になる、気のない返事をしたのだった。
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